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人格と海

 先ほど、このお題を見つけ、これは参加しなければっ!と、ただ勢いで文章を打ち込んでいる。
というのも、私は生まれてから現在までの21年間、ずっと海の街に住んでいる。上裸(半裸)のサーファーで溢れかえり、小学校の教室に海上がりのお父さんが、家の鍵を取りに来るような、勝手な街。

 社会というものに触れるようになり、私は特殊な街で生まれ育ち、今の人格を形成したんだな、と思うことが増えた。

 特に特殊だと思うのは、他人への干渉が限りなく少ない、ということだ。『関東人は冷たい』とはまた別の話。
私の住む街では、好きなことを仕事にして生活をしている人が多く、「自分は自分、あなたはあなた。自分の道は、自分で考えて進め。」という意識がかなり強い。そのため、他人がどうであろうと気にしない。
『高校行かないらしい、高校中退したらしい、もう就職しているらしい、大学辞めるらしい、フリーターらしい』これらすべて「あっそう~!まあ、人それぞれだよね~!」で済んでしまう。ほかにも、干渉が少ないからこそ『私たちのグループはここからここまで』という境目が薄く、その場に誰が混ざっていても、違和感なく仲良く過ごしてしまう。これについては、高校に入った時点で、少し苦労した。

 私の地元は、『友達だ』と思う範囲がかなり広いようで、中学生まで、同じ学校の時点で、みんな友達だと思っていた。しかし、高校に入ってから、世と認識がずれていることに気が付いた。
友人A「友人B とmomijiって友達?」
そう聞かれた2年前くらいに、友達の友達として、友人Bと1度遊んだことがあった。そのため、さすがに友達ではあるだろ!という気持ちで、「うん!」と言おうとしたら、
友人B「いや~?」
と言われたのだ。
え????遊んだのに?????特に、それ以降、話していないとはいえ、1度遊んだのに??遊んだ人間同士って友達って言わないの?!?!
このエピソードは、人によって感じ方が変わるだろうが、こんな感じの出来事がよくある。
 大学生になった今でも、同じ学科で、同じ授業を受けている時点で、さすがに知人ではあるだろ!と思っているが、案外そんなことないんだろうな。なんだか、少し寂しい。
じゃあ逆に、お前ら、知人ってなんですか?
知ってる人なんだから、『学科が同じ人』という立場が、1番知人にふさわしいだろ!と思うんだけどなあ。

脱線してしまった。
とにかく、私の街は、とても素敵なんだ。
そう、それが言いたい。
友人同士でも互いに干渉しない。全てに対して平等である。
あらゆる相談をしたところで「話は聞いてあげられるし、意見を言うこともできるけれど、最後を決めるのはあなただよ。」場合によっては、「私はあなたからの意見しか聞いていないから、何とも言えない。」そう返される。

 近年、個性の話をよく耳にするけれど、私の街(私の地元同士)では
「なんでもいい、好きにすればいい、正解も不正解も何もない。自分が正しいと思うことをし、その責任は自分でとりなさい。」
そんな意見ばかり聞こえてくる。し、私もそう考えながら生きている。
そう考えながら、というより、そう育てられてきた、から当たり前にそう思う。なぜ、周囲の承認が必要なのだ。自分の責任は、すべて自分で持てばいい話なのではないか?

壮大な海は、無意識にも、心を豊かにし、寛大すぎる人格を形成するようだ。


#わたしと海

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