38歳に寄せて。
誕生日の祝いの品として、指輪をもらった。照れくさく感じながら付けている。
耳でも首でもなく、指に付けるアクセサリーを贈られるというのは、意図を勘繰る。関係性への態度というか、代替し難い存在だと伝えてもらったのかなと受け取った。
指輪は、友人のおしげが作ってくれたものだった。ちょうど1年前に、「昔暮らしていた地域の友人たちに会いに行きたい」という、私の願いを叶える旅に出た。その時に会ったおしげは、アクセサリーや楽器を作ったり演奏していて、パートナーのルウナはイラストを描いたりしている。「いつか指輪つけるなら、おしげのがいいなー」と私はおそらく口走っていたはずで、指輪を贈ってくれた彼は、そういうことを憶えて、時間がかかっても実現させる性質の人だ。
私と彼は、一つ屋根の下で生活しているが、婚姻関係は無い。今のところ予定もない。ただ、小学生の娘の存在も影響しているのか、私たちのことを「家族」と呼ぶ人も多い。「家族で遊びにおいで」とか。彼は移動の民で、月の半分は不在。価値観が異なる部分が多い我々は、喧嘩も多い。関係性が揺蕩うから、関係性の名付けも気まぐれだ。「パートナー」「同居人」「彼」「恋人」「家族」。
私の指輪の内側には、「何必」と彫られていた。(かひつ)と読む。京都にある何必館のステートメントが好きでスマートフォンの待受にしていたので、私の好きな言葉と捉えてオーダーしてくれたらしい。
娘が小さい頃に「喜んだとしてもその場だけだろうしな」と、プレゼントするモノを迷っていた私に対して、彼が「その瞬間喜ぶことに意味があるんじゃない」と言ったことが、私の中では深く心に残っている。何ぞ、必ずしも。
指輪を受け取ったのは、北海道への旅の途中。北海道の元夫の家で夏休みの半分を過ごしていた娘のお迎えを兼ねた旅。迎えた直後に、私の指を掴み、目ざとく気づいた娘は、嫉妬のご様子。そんな姿に気づいたか気づいてないのか知らないが、彼は「ママに内緒」と行って娘を連れて行き、しばらくしてルンルンの娘が戻ってきた。手にしていたのはガチャガチャのカプセル。中から出てきたのは、トウモロコシが施された指輪だった。北海道ガチャガチャのおかげで、娘はご機嫌を取り戻したが、それ以来、トウモロコシリングがどこにあるかもよく知らない。だけど、あの瞬間、「お揃い」になれたことが大事だった。そう思った。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?