Artificial Intelligence
ここ最近の人工知能の万能感はすごい。
職場の同僚からChatGPTを熱烈プッシュされ、息子に振ってみた所
「試してみたらいいんじゃない?でも現状では結構な割合で嘘つくから嘘と見抜けないと使いこなせないよ」
との往年の某掲示板で聞いたような名言をいただきつつ先日アプリをDLした。
手始めに窓際にいた猫の写真を撮り説明を求める。
「天気の良い日に住宅街を背景として窓際に猫がいます」
その通り。
では、と玄関先に止まっていた見たことない虫を撮影して質問。
「これはサシガメの一種と思われます」
すごいじゃん!サシガメか、これ。
……ほんとにサシガメかな?
ここでGoogle画像検索の出番だ!
ドン!
『マダラガガンボ』
サシガメじゃねえーーーー!!!!!
と、AIの限界を早々に見てしまったわけだが文章を作らせたら優秀とか学習能力を上げると無敵に近いとか色々見聞きもする。
まだ途上なのだとしたら、完璧に近いものになったらどうなってしまうのだろうか。
その中、先週聴いたラジオの話に思いを深めてしまった。
それは「AIによる死者の復活」というのがテーマであった。
(調べてみた所、中島岳志氏の番組だったのでこちらを踏まえてお話しされていたようです)
記憶に新しいのは2019年大晦日の黄白に【出演】したAI美空ひばり氏。
あの姿を見て
「故人がこんな風に目の前に現れてくれたら」
そう思ったのは私だけではあるまい。
母が、祖母が、父がもう一度記憶の中のままの笑顔で今、語りかけてくれたら。
しかしながら美空氏と懇意であった中村メイコ氏はその歌声を聴いて「(彼女が自分から)離れる気がする」と嫌悪の意を表されたという。
彼女は現実にはもう存在しないということを一層強く感じたのだと。
成程、作られた声・言葉。それは歌姫と呼ばれた彼女自身から出たものではない。
あたかも本人からのように紡がれるものは、断じて本人が許したものではないのだ。
考えてみれば、確かにそうだ。
例えば自分が母の、父のAIを作ったとする。
思い出せる全てを学習させて思考をトレースしてもらって作ったとする。
それは私にとっては懐かしい「母」であり「父」だ。
しかし、姉にとっては?妹にとっては?
違うだろう。
「お母さんはそんなんじゃない」
「お父さんはこんなんじゃない」
そう返されるに違いない。
それは逆もまた然りで、姉が妹が作り出したAI母やAI父は私にとってもまた別人になる気がする。
ではペットならどうかというと、それもまた違うと断言しよう。
30年前に虹の橋を渡っていった飼い犬は、たとえ再現されても「私の犬」ではなくなっていると思う。
顔の上げ方、私を見つめる黒い瞳のゆらぎ……再現できない、説明するのが難しい微細な特徴はきっと飼い主の脳内以外では再現できないのではないか。
「死者はままならない存在だ」と先の中島岳志氏は記す。
私もそう思うし、おそらくは古来日本人は押並べてそう感じてきたのではないか。思い通りになどならないのに、すぐ近くにいてくれる。
「死んだ母ちゃんに顔向けできない」と言うとき、そこに母はいるし
「空から見ててくれよ!父ちゃん!」と言うとき、そこに父はいる。
しかし誰からもその存在は見えはしないし、勿論本人にだって声も姿も認めることはできない。けれど、そう「想う」ことで気持ちが強くなるのには間違いない。そうして遺された私達・今を生きているヒトは心を護って生きてきたし生きていくのだ。
人工知能がどんどん発達していって、完璧になって、そのうち不気味の谷も超えてこちらにやってくる日が来るのかもしれない。
亡くなった人が食卓に座り、今日あったことを聞いてくれるようになるかもしれない。
冷たい躯だった犬が傍らで寝そべる姿を見られるようになるかもしれない。
でもそれは幸せとは違う気がする。
涙が枯れるほどに泣いて思い出す度に辛くなって、それでも過去にして携えて生きてきた自分を否定してしまうことになりはしないか。
AIの計り知れない可能性を否定するわけではないけれど
「死」ということだけは覆してはいけない事象だと思うのだ。
自分達だってそちら側に必ず行くのだから。
そこは聖域として触れてはいけない場所であって欲しいと思うのである。
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