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はっちゃん

当年取って54歳の正真正銘ババアであるところの私にも中学生時代というものがあったわけである。今日もまたそういうような話をつらつらとするよ。

「かっさん」でも書いたが、今現在当時から交流のあるひとは数えるほどしかいない。SNSで時々いいねしてくれるだけの人や年賀状だけの人。数年に一度会う人。
はっちゃんはその中の「年賀状だけ」になってしまった人だった。

中学生当時、はっちゃんは一年生の頃から三年生の先輩に告られ付き合っていたという結構目立つ存在だった。
二年になってまたも同じクラスになったが、そこは陽キャと陰キャである。
接点はない。
三年になって、またしても同じクラスになって背の順が前後になって、どういったわけか仲良くなった。
運動神経をコメ兵に売ったと形容される私に比してはっちゃんはバレー部のエース。男子とも気兼ねなく喋れるはっちゃん。そのグループに混ぜてもらえた中学最後の学年は本当に楽しかった。

高校は別れてしまったが時々学校帰りに遊びにも行った。
しかしながら高校卒業後は交流が途絶える。

お互いの顔を見ないままに、それぞれの人生の中で親が亡くなったりもし結婚出産を経、そして今に至る。

コロナ禍の最中にハガキを送ったことがあった。
「死」が身近に思えた時に連絡したい人に連絡しようとペンを取り、十数人に送った。はっちゃんもその一人だ。
返信のハガキには「今年こそ会いたいね」と年賀状でも見た文言が書いてあった。

「今年こそ会いたいね」。
それが慣用句になっていた日常が一変したのはかっさんの死だ。
会わなくては。
今すぐにでも、会っておかねば。

先ずはかっさんとも懇意だったはっちゃんにそのことを知らせなくてはいけない。しかし住所しか知らないのだ。
ーーーーーーいや、はっちゃんのご母堂がお亡くなりになった時の喪中はがきに電話番号がなかったか。

あった。しかし、家電である。

俯瞰してみると怪しい。
30年は交流のない中学の同級生がいきなり固定電話にかけるというのは、非常に、なんだその、怪しさしかないじゃないか。勧誘とか詐欺とかさあ……。
でも乗り越えるんだ!ゆけわたし!!

結果、オーライであった。
そして話はトントン拍子に進み、3月上旬の佳き日に再会を果たすこととなったのである。

はっちゃんと最後に会ったのはいつだったか。
お互い思い出せないのだが、大学を卒業して以降は確実に会っていないので30年は過ぎているだろう。
人は30年あれば変わる。そりゃあ変わるさ。
でも電話の声は変わらずはっちゃんだった。
わかるだろうか。お互いがお互いのことちゃんと思い出せるだろうか。
矢場町の駅で私は少しばかり緊張しながらはっちゃんを待ったのだった。

小中学校時の友達はどこまでいっても何年経っても友達な気がする。
それはきっと幼くて至らなくて飾らない年代の時にお互いを親友と思えたからかもしれない。良いところも悪いところも受け入れて、友達だったから。

「はーっ!もるちゃん?えっ!」
目を見開いたはっちゃんは、笑顔もそのまま、はっちゃんであった。
その瞬間に私達は並んでケッタこいで清水口の坂を超え栄へと繰り出した15歳に戻ったのである。

一緒にごはんを食べ、お茶を飲み、30年ぶりに会えたのにどうでもいいことを話しながら私達はめっちゃ笑った。
お互い、両親を亡くし生家を手放し人生の第二フェーズに移ってきたのだけど、中学生の時のままの関係性で数時間を過ごしていたと思う。

別れ際に「またすぐに会おうね」なんて高校の頃に取り交わしたような言葉を送り合ってはっちゃんは雑踏に消えていった。

そりゃあお互いシワも増えたし私なんか白髪のババアだ。
でもやっぱり十代の頃の友達は掛け替えのない存在なんだとしみじみ思う。
痛みや悲しさ、嬉しさや楽しみを共有してきたのは紛れもない事実で。
そして「その時」にすぐに戻れるのは稀な存在なのだ。

かっさんともこうして再会したかったな。
詮無いことではあるがやはりそう思ってしまう自分もいる。
これから順番に会いたい人には会いに行こう。
相手が元気なうちに。
私が生きているうちに。

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