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母と私

私の母は父に対して以外は自己中心的だったと思う。
少なくとも私達・娘に対しては支配的であった。今でいう「毒親」だったのかもしれない。

俯瞰的に見ても姉妹のうち私に対しての待遇が結構ひどかったのでは、と今にして思う。

子供心に衝撃的な記憶の始まりは幼稚園時代だ。
絵画の先生の時間に描いた私の絵を先生はいたく気に入ってくれ「この子は才能があるから是非うちの教室に通わせてみないか」と母に言ってくださったそうだ。が、母は一考の余地なくお断りしていた。習い事なんて姉達だってしていたのに、私だってお絵かき教室行きたかったのに。
次なるは小学生の頃。図工の時間、彫刻刀が必要となった時に母が買ってくれたのは切出刀と三角刀だけだった。姉は5本セットを持っているのに。先生ですら「丸刀が無いと作品を作るのは無理。買ってもらって」と言い出す始末なのに、いくらお願いしても買ってくれないため私は気合と小器用さだけでその二本で授業を乗り切った(後にその切出刀はスクリーントーンを削るのに重宝することとなるがそれはまた別のお話)。
家庭科でもそうだ。
辛うじて「裁縫箱」は買ってもらえたが中身は母厳選の数種類のものだけで決して「セット」で買ってはくれなかった。
妹は「セット」で与えられていたのに。
(因みに今でも当時の糸切りバサミとまち針を愛用しています)

そして卒業式。
私服通学だったため女子はブレザーにスカートという普遍的な格好であったし、姉達もそうだったはずだ。
しかし当時母が用意してきたのは何処で手に入れたのか、頂きもののピンクのブレザーだった。よりにもよってピンク。あろうことかパステルピンク。えっピンク?何故。
スカートは紺色だった気がするがもう記憶は全部ピンクに持ってかれたよね。

普通で良かったのに。
みんなと同じようなものを同じようにしていたかった。

中学ではこれまた姉(7つ上・しかも細身)のお下がりの制服をボンレス私がムッチムチで着る羽目となる。無理に着るもんだから腕の付け根辺りは速攻で破れた。
母に言うと「縫ったらいい」。
自分で件の裁縫箱を開け、閑散としたその箱の中にある2本しかない針の短い方でせっせと縫った。お下がりは三枚もあったから新品を買ってくれることはなかった。
学生鞄(昭和時代には皮革の学生鞄がデフォであった)も何処かからの貰い物で学校指定のものとは趣を異にしていた。ヤケクソで縫い詰めて幅5センチ位にしてやった。短い方の針は皮の圧でゆるく曲がった。
体育館シューズはぎりぎり学校指定のものにしてくれたが、通学用の靴も体育用の靴も「白けりゃいいんだろ」みたいなノリで見るからに安物が用意されていた。別にランバードの靴が履きたかったわけではない。けれど、一人『そうじゃない』ものを履いていると大層浮くのである。それが思春期の私には辛かった。
尚、四歳下の妹が中学に入る際には上下とも制服は新品になった上に何もかも学校指定のものになったこの現象は未だにどうしても解せない。

加えて学校生活についてだけでなく、日常生活にも楔があった。
門限だ。
飼っていた犬を盾にされると逆らえない。
それが17時。
犬の散歩に行かねばならない、ただそれだけのために17時の門限を私は愚直に守っていた。だって姉も妹も誰も代わりに散歩に行ってはくれない。
「だって犬が欲しいって言ったのはもるちゃんでしょ」
はいそうです。
そのため部活に入ることも許されなかった。
美術部に入りたい、油絵を描きたい。そんな事を言ってみたとて
「じゃあ犬はどうするの?門限までに帰ってこれるの?どうしても部活したいんならいいよ!そしたら犬は保健所に持っていけばいいからね!!」と詰られれば、じゃあいいです……となる。

それでもどうしても遅くなるときがある。
17時を10分とか15分過ぎた頃に「ただいま」とドアを開けると母はあからさまにイヤな顔をし、冷たい物言いで私の言い訳を退けるのだ。
それが苦しくて辛くて、私は何としてでも17時に家に着かねばとあの頃は常に必死で家に向かっていた。

それは高校に進学しても大学に進んでも変わらなかった。
もっと言うなら大切だった犬が死んだあとも変わらず17時であった(なんでやねん)。
就職して歓送迎会などがあった時には22時となったが、僻地にある我が実家である。最寄りの地下鉄の駅からバスで15分。夜が更けると運行するバスの時刻も一時間に数本だ。しかも繁華街から最寄り駅までもかなりある。
だからそういう会合では常に帰る時間を逆算しながら過ごしていたため何一つ楽しかった思い出はない。
余談だが合コンというものにも行ったことがない。誘ってくれる友人もいなかったからそりゃそうなのかもしれないが、来世になったら一度くらい行ってみたいと思っている。


そんな母が病に伏したのは私が社会人三年目の秋だった。
その翌年の春、母は短い生涯を終えた。
57歳だった。

母の死、父の死を経て遺品整理をしていた時に母の日記を見つけた。
私が誕生する前後数年間分のスケジュール手帳にしたためられた簡素なものだったが、それは当時の母の心の澱を吐き出す場だったようである。
その中、雛人形を仕舞ったとの記載に次いで書かれていた
「私にない思い出。出来事。私にないのに誰かにある。
そう思うだけで淋しく、つらい」
との一文が忘れられない。
母は私達に何かをする度に不遇な自身の少女時代を思い出してこんな気持になっていたのだろうか。目から鱗が落ちるようであった。
というのも自分自身は、息子や娘には自分がしてもらえなかった反動で全てを揃えた。夫が「制服なんかどっかからリサイクルのやつ貰ってきたら」と曰うのを速攻却下し、あなたがお金出したくないなら私が出す!と啖呵を切り、パートで貯めたお金で息子の中学準備を整えた。補助教材についても「そんなのもっと安いのどこかにあるよ」という声をガチ無視して学校指定のものを頼みまくった。そうすることで私の中の10代の私が昇華されていくようだった。だからむしろ、自分になかった出来事が子ども達にあることで自分自身も救われた気になっていたのだ。

母と私とは根本的に何かが違うのだろう。
彼女の寿命がもっと長かったら私も別の人生を歩んでいたに違いない。
過去以上にしんどいことも起こったかもしれない。
今、1/4の人が毒(母)親育ちだという結果があるという。
私がその4人のうちの1人になっていた可能性もゼロではなかったのだ。
物理的に母がいないから免れていただけなのかもしれない。


そんな母と過ごした年数よりも母のいない年数を今年超えてしまった。
今でも母と同い年の方に出会うと彼女が生きていたらと思うことがある。
どんな風に歳を重ねていったんだろうかと思いを馳せる。
そう考える時に気付くのだ。
つまりは”私はずっと母の娘でいたかったのだ”と。

母は私を好ましく思っていてくれていたのだろうか。
母は私を一人の人間として尊重してくれていたのだろうか。
対等な人間として。
対話のできる相手として。
……見てくれてはいなかった気がする。

母のいない日々は自由で、悩み事もなかった。
でも、思うのだ。
母が生きていてくれたら良かったのに、と。

どこまでも母は「母」であり、私は「娘」である。
良いとか悪いではなく、その呼び名でしかない。
それが枷となることもあるけれど今はこの生が尽きるまでそれに縛られていても悪くないなと思うくらいには世界が拡がったようにも思う。

ねえ、お母さん。

今、私はあなたの望んだような娘でいられていますか?

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