無知の幸福

SNSを開けば、様々な人が投稿している。
昔仲良かった人、今でも関わりがある人、なんとなくフォローした人、一度話しただけの人、一時期憧れていた人……

ひときわ目を引くのは、大してかっこよくもないのにも関わらず、自撮りを上げ、大しておしゃれでもないのに、さもハイセンスであるように勘違いしている人の投稿。いわゆる「イタイ人」である。

ではかといって、自分が「イタイ人」じゃないかと言われれば、怪しいかもしれない。大しておしゃれでもない料理投稿を日々しておいて、リアルではカッコよくもないくせにメンズメイクをし、じゃらじゃらしたアクセサリーをつける。

「人の振り見て我が振り直せ」とはよく言ったものだ。「イタイ人」を見て不快な思いをしながら、実のところ自分もそれなりに「イタイ」ことをしているのだ。

かといって、自分は料理の投稿はしたいし、メイクもオシャレもしたい。ブスだから、デブだから、そんな言い訳も思いつくが、所詮は自己満なのだ。

「イタイ」彼も、そうなのかもしれない。おしゃれの感性は人それぞれだから、確かに自分はダサいとは思うが、その人にとってはまるで世界一になったかのような心地なのかもしれない。

そこには、無知の幸福がある。自分が「イタイ」ことに気づくことなく、自分のしたいことをしている。他人との関わりさえなければ、それでいいのだろう。例えば、彼が「なぜ俺はこんなにかっこいいのにパートナーができないんだ?」という疑問を抱かない限り、彼は幸せなのだろう。

それに対して自分はどうだろうか?「人の振り見て我が振り直せ」と言われ、ああなりたくない、こうなりたくないと、否定神学的に「良い生き方」を探して幸せなのだろうか?

「イタイ」彼の幸せは、確かに終わりがある。他人と関わっていき、事実に気づいた時、彼は深く傷つくだろう。だがしかし、進んで自身の過ちに気づこうとし、無知を避ける態度では、即時的な幸せは得られない。すなわち、いつか突如として終わる無知の幸福も、幸福には変わりないのだ。

それならば、無知を演じる生き方もいいのかもしれない。いつ終わるともしれない無知のまどろみの中で、傷つく恐怖から目を逸らしながら、幸福を味わう。そんなふうに生きられるほど私に勇気があれば、どれだけこの世界は素敵だっただろう。

気づくこと自体は悪いことではないが、知ってしまった以上、無知の幸福は戻ってこない。

私は、今日も不幸だ。

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