演劇における、無観客ということ/星組『ロミオとジュリエット』B日程・無観客ライブ配信

はじめに

 無観客ライブ配信で、星組『ロミオとジュリエット』B日程の千秋楽を観ました。
 4月23日から始まった三度目の緊急事態宣言。政府はイベント等の中止、無観客配信を要請。それに伴い、宝塚歌劇も再び公演を中止し、初の無観客ライブ配信が行われることになりました。
 私はずっとタカラヅカの……演劇の「配信」というものに対して、積極的に利用したいと思ったことがなく、観たい公演は必ず生で観て、どうしてもチケットが取れず劇場での観劇が叶わない場合にのみ活用していました(千秋楽など)。
 今回の『ロミオとジュリエット』もそうで、Twitterでトレンド入りするほど盛り上がった宝塚大劇場の配信も観ず、GWに東京宝塚劇場にて生の舞台で初見を飾ろうと思っていました。だけど、それは叶わぬ夢となった。
 そんな状況で、無観客ライブ配信が開催され、最初で最後のB日程の『ロミオとジュリエット』をリアルタイムで観れたことは、とてもありがたいことです。ありがたいことのはずなのです。……でも。
 無観客ライブ配信は、今までの通常の配信とまったく違いました。期待を裏切らずとても素晴らしい公演で、しかも、おそらく劇場に観客がいない分、音が洋服などに吸われず、クリアに配信機器を通ってこちらまで伝わり、今まで見た配信の中では一番と言っていいくらい音響効果も良かった。なのに、びっくりするくらい、私はこの公演を観ていてどんどん悲しくなり、言いようのない恐ろしさまで感じました。

 今回の記事では、少し迷ったのですが、その気持ちについて書きます。
 せっかく素晴らしい公演を観たのに作品自体の感想よりも、このことについて書かなくてはならないなんて、もうそれだけでもどうかしている。もし、A日程を無事劇場で観ることができたら、そのときには改めて、2021年の星組の『ロミオとジュリエット』について書こうと思います。


演劇における、無観客ということ

 以下、配信直後にリアルな生活圏のTwitterアカウントにおいて、フリート(足跡機能が付く&24時間で消えるところが気に入って、日記のように使っています)機能を使って、投稿した文章です。ほぼそのまま改変せず載せるので、もしかしたら少し読みづらいかもしれません。「私的な空間で、フリート機能を使って書かれた文章」であることを念頭に置いて読んでいただけると嬉しいです。

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 配信、毎回見ようか見ないか散々迷ってごねて文句言ってるんですけど、今日は本当に見てよかったです。
 よかった、というのは、知れてよかった、ということです。
 私はやっぱり配信は苦手です。でもただ苦手なだけで済むのは、通常の千秋楽配信など劇場に客を入れた上でのライブ配信であり、無観客ライブ配信は苦手どころではなく、最悪でした。

 念のために言っておきますが、もちろん公演自体は素晴らしい。
 『ロミオとジュリエット』はファン初期に過去公演を映像で見て以来、ずっと生で観劇したいと思っていた演目で、ミュージカルなので一番に楽曲が素晴らしいし、周知のストーリーだけどシェイクスピアの作品は色裾せないし、演出全般も普段のタカラヅカオリジナル公演よりよっぽど洗練されているし、さらに今回はそれを歌いこなせて踊りこなせる首席トップコンビ (特に礼さんはすごかった)でパフォーマンスレベルも高い。
 本当に生で観たかった。もしまだ可能性が残っていれば一目でいい、生で観たい。素晴らしい公演です。多くの人に見て欲しい、特に初観劇にこれほど相応しい作品もない。

 なのにとても苦しいのです。

 演劇というのは、これはK先生(※大学のゼミの教授、シェイクスピア文学専攻)に散々叩き込まれたことですが、劇場があり、脚本=テキスト(ことば)があり、役者が演じて、観客が受け取ることで完成します(※これは演劇の4要素と言われており、演劇を構成する要件です。また、脚本・役者・観客が揃えば、そこは実質劇場空間になるとも言えるので、劇場を除き演劇の3要素となることもあります)。
 舞台はナマモノとよく言われるように、演劇は「今、ここ」を役者と観客が共有することが何より重要な文化です。

 通常の配信ならば、舞台には役者、客席には観客がいて、役者は観客に向かって脚本を演じる。
 つまり、劇場空間では演劇が成り立っており、配信を見る側としては演劇を「覗き見」していることになります(と、私は考えます。なので配信観劇を選択するのは私にとって最終手段なんですね)。
 しかし、無観客配信というのは、文字通り観客が無いので、(劇場)・脚本・役者・観客という演劇を構成する要素から、なくてはならない一部が欠けています
 それはもはや演劇ではないんじゃないかと私は思っていて、今日の配信を見て、その考えがさらに強くなりました。

 観客がいない客席のどこを向いて役者は演技をすればいいのでしょう。配信のカメラ?そうじゃない。テレビドラマや映画ではないのだから。舞台は舞台全体が織密な演出で構成されていて、カメラの枠の中に収めることなんてできない。
 今日の配信も、観客がいなくとも役者は客席の上から下まで目線を送り、撮影もいつもの配信と同じようなカメラワークで、役者がカメラ目線になるのなんて最後の挨拶くらいでした。

 全てのことが、真っ赤な客席を前にしていつもと同じように行われたのです。

 それは完全な休業要請よりも酷い仕打ちのように私は思えました。
 残酷すぎる。
 そして、演者が無観客配信に真剣に向き合ってパフォーマンスをしてくれればしてくれるほど、残酷さは増すようにも思いました。


 だって、いつもなら拍手が入るところに拍手が入らない。いつもよりもさらに力の入ったパフォーマンスをしているというのに。

 観客は脚本を書いたり、演じたりすることはできません。
 でも拍手をしたり、固唾を飲んだり、笑ったり、泣いたりすることで舞台に反応を送ることができます。
 生きて、呼吸をして、体温を持った人間は、ただそこにいるだけで、誰かの想いを掬い上げることができる。
 演劇に限らず、文化や芸術というのは、そうした人間同士の双方向のやりとりによって成り立っていると思います。


 私は今、フリートを打っています。
 それは、優しい気心の知れた誰かが読んでくれているとわかっているからこの文章を打てています。
 感覚としては、手紙に似ている。
 もし私が小説やエッセイや脚本やなんかを書くとしても、同じ感覚で書くと思います。

 自分の思いを、誰かに届けたい、あわよくば受け入れて欲しい、そうでなくても一緒に考えて欲しい、そんな気持ちが表現の根底にはあると思うし、あるべきだと思います。
 反応が返ってくるかもしれない、返ってこなくても何かが届いて何かが変わっていくかもしれないという可能性が、表現者にとっては何より嬉しいことで、希望で、生命線です。


 演劇はそれをダイレクトにした一番原始的な表現方法です。
 何度も言いますが、「今、ここ」でそのやりとりを行うことにこそ価値がある。
 もし、その特性を剥ぎ取るとしたら、それこそ本当にもう劇場を構える必要なんてなくて、テレビドラマや映画などの映像表現に集約されてしまえばいい。
 でも、カメラや蓄音機が発明されても、そうはならなかったじゃないですか。古代から続くこの表現方法は今日まで生き残ってきたわけです。
 それは、やはり多くの人がそうした表現の本質を大事に思ってるからなんじゃないでしょうか。

 私は凡人なので、というか世の中の大半の人は凡人なので、自分以外の誰ひとりいなくなった静かな世界で、それでも孤独と闘い表現を続けていくことはできないと思う。
 いつか届くと信じ続け宛のない思いを出し続けたとしたら、狂ってしまう。
 その狂いそうなことを、今演劇は、多くの舞台芸術は強いられているのだと私は今日の配信を見て思いました。

 役者は多分全力でやればやるほど心を消耗していくし、画面越しで観るしかなくその場で何も返せない我々観客も同じく消耗していく。
 こんなことを続けていたら、いつか破綻して、いや、そんなに演劇に携わる方々はやわではないので別の形態を模索し、破綻というより変化していき、今の形の舞台芸術は消えてしまうと思う。
 このままでは、無観客配信が当たり前のようになってしまえば、演劇は本当に消えて無くなるかもしれない、そしてそれは、もしかしたら表現そのものの死に繋がるかもしれない、と本気で恐ろしくなりました。

 私は、本や絵などの紙やキャンパスの上での表現も好きだし、映画などの映像表現も好きですが、やはりダイレクトに身体を揺さぶられる舞台は特別です。生きていると感じます。ただ観ているだけだとしても。

 もう二度とこんなのは嫌だ。
 全力の舞台が美しくて強くて眩しくて、なのに、真っ赤な客席からは音ひとつ返ってこなくて、画面越しにはなにもできなくて、それが悲しくてやるせなくてもう観たくないなんて、壊れています。

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おわりに

 本当に「気持ち」を吐露しただけの記事でしたが、最後まで読んでくださりありがとうございます。
 タカラヅカ用Twitterアカウントを使って呟くには長いし、公演の感想でも批評でもない文章をわざわざ公開する必要もないと思って、当初フリートという手法を取ったのですが、タカラヅカではないけど同じく舞台が好きな友人が共感してくれたのが嬉しくて、同じ思いを持つ方に届いたらいいなと思い、記事にしました。
 本文でも触れていますが、こうしてことばが誰かに届いて、それをきっかけに「考える」ことが広がる、そうやって、すぐには変化は見えないけれど、ほんの少し、でも確かに何かを変えていけたら、この世界は生きるに値するんじゃないかな。演劇は、芸術は、文化はそのためにある。

 最後になりましたが、どうか早く劇場に人間の灯が戻りますように。
 そのためには、考え行動していかなくてはならないことが、この国に生きる私たちにはたくさん、たっくさんあるように思います。

 私たちがこれから作っていく未来では、あの美しい……この世界の美しさが全て詰まったようなトップコンビのデュエットダンスに、満席の客席から万雷の拍手が注がれ、その営みが永遠に絶えることはない。そう信じています。

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