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【エッセイ集 有个女人叫愛莉】

中国語

我是个女人,一个普普通通、平平凡凡、不起眼的女人。

我有自己的梦想,自己的追求,自己人生存在的价值。不求获得多么大的成就,只愿努力上进。成功了,为自己的能力喝彩!认为大有潜力;失败了,认为这不是自己的强项,绕过去,无所谓。信奉的格言∶ 尽己所能 、无怨无悔。
  “爱莉”是我上小学前的名,上学报名时父母就把中间的“爱”字去掉了,我不知道原因,也许是那个年代这样叫太花哨了吧。可是不知为什么,随着年龄的增长,我越来越喜欢这个名。

 爱,疼爱的爱,爱惜的爱,爱情的爱,爱心的爱。莉,茉莉花的莉,很浪漫,很温馨,也富有诗意。我曾偷偷地告诉我儿时的密友,让她们叫我“爱莉”。

 毕业后,在大学做编辑工作,常有机会写些小文章,有时不想用真名,也想学学名人大家,起个笔名,这样“艾莉”就诞生了。这个笔名伴随我十三年,同事和圈儿里的人都知道。原想借着她努力奋斗,爬上个副编审,编审等什么职位。

 哪曾想,随着与老公东渡日本,我也就和这个“艾莉”再见了。在日本,这个异国他乡,我重新退回到起点,一切从零点开始。所谓“塞翁失马,有得有失”,在这个陌生的国家里,因为有了爱,我又重新找到了自己的位置,发现了自己的潜能。

 首先是老公。在国内我们同在大学工作,他搞理工,我搞文科,工作上没有交叉,生活上对他的依赖也不多,能做的自己都做了。可到了国外,语言不通,人地生疏,自己完全成了笼之鸟。他流利的日语让我佩服不已,刮目相看。他的“这事由我来处理,不用担心。”的话语让我温暖,令我感动。他鼓励我走出去,找回了自信。

 其次是女儿。刚来日本时,她还是小学生,不会日语,看不懂教科书,听不懂老师、同学说的话,不会骑自行车,不会游泳。但她不气馁,不放弃,努力拼搏。大胆开口说日语,一周就学会了骑自行车,苦练游泳,毕业前达到了标准级。升初中、高中时,以优异的成绩,获得特别生的资格,全免学费进了一所私立中学。后又进了一所国立大学工学部,专攻她喜爱的专业。女儿的成长让我欣慰,也给了我信心。从头开始没关系。

 还有就是结交了一些日本朋友和华人朋友。他们的帮助、鼓励和友情让我度过了难关,战胜了困难,找到了自己的生存空间。广中先生、高桥夫妇、伊藤女士以及所有和我一起学习过汉语的日本朋友们,一起工作过的同事们、老师们,谢谢你们,你们的名字将永远记在我的心中,永远不会忘记!

 最后是我的父母弟妹。面对他们我一直觉得惭愧内疚,没有尽到做女儿的孝心,没有负起做大姐的责任。父母生病躺在床上,我没能日夜守护在身旁,精心伺候;弟妹照顾父母劳累,我也没能赶回去替换他们。然而,他们没有一丝责怪,一句怨言。反而,一直关心我,安慰我,每周的电话只是报喜不报忧。

 正是上面这些所有的情,所有的爱,才使我立足了日本,每天过得快乐,充实;才使我有精力去做自己喜欢做的事,想做的事,我很满足!                       

 东瀛十二年,开拓了我的视野,充实了我的人生,领悟到了人的人生,领悟到了人生的真谛。

 常常不知不觉地拿起笔将我所看,所闻,所感,所悟写下来,所感,所悟写下来,为自己的人生留下一份记念,也为爱我和关心纪念,也为爱我和关心我的人,以及我爱和感激的人送上一份礼物。这样从2005年起,陆续在日本的中文报刊,杂志以及国内的报刊,杂志上发表了一些涉及各个方面内容的小文。
今天我将它们汇集起来,结成一册,献给诸位。我不奢求读到的人都能与我有同感;也不奢望掌声和赞扬。只希望你们能了解我的感受,走进我的内心。

日本語

私は女性である、普通で、平々凡々、目立たない女性だ。

自分の夢があり、自分のこだわりがあり、自分の人生に価値があると思っている。際立った実績を求めるわけではないが、努力によって進歩することを期待している。成功したら、自分の能力に喜び、自分のポテンシャルに期待を持つ。失敗したら、これは自分の得意分野ではないと考え、避ける。どうでもよいことである。座右の銘は:力を尽くす、恨みなし、後悔なし。

「愛莉」は私が小学校に上がる前の名前だ、小学校に上がる時に、応募書類から両親が苗字と名前の間にある「愛」の文字を消した。理由はわからない、もしかしたら年代的におしゃれすぎる名前だったからかもしれない。なぜかは知らないが、歳をとるにつれて、この名前がどんどん好きになっていった。

 愛、可愛がるの愛、愛着の愛、愛情の愛、仁愛の愛。莉、茉莉花の莉。ロマンチックで、心暖かく、詩的意味に富んでいる。子供のころの親友にはコッソリと、「愛莉」って呼んでねと伝えていた。

 卒業後、大学内で編集の仕事についた。短い文章を書く機会が多く、本名を使いたくないときや、有名人の真似をしたいときに、ペンネームを自分に付けた。こうして「艾莉(アイリ)」が生まれた。このペンネームは私と13年過ごし、同僚や仲間はみな知っていた。元々は彼女の力を借りて、副編集長や編集長の地位に上り詰めたいと考えていた。

 考えもしなかったが、夫について日本へと東に渡り、「艾莉」とは離別した。日本で、異国の土地で、私はスタートに戻り、すべてをゼロから始めることになった。「塞翁が馬、得るものがあれば失うものもある」とはよく言ったものだ。見知らぬ国で、愛があったからこそ、再び自分の居場所を取り戻し、知らない自分の一面を発見することができた。

 まずは夫だ。中国にいたころは同じく大学で働いていた。彼は理系、私は文系、仕事上交流はなく、生活上で頼ることも少なかった。できることは自分でこなしてきた。外国に来て、言葉は通じず、人も土地も知らず、自分で完全に籠の鳥と化した。夫の滑らかな日本語にたまらず尊敬し、見る目が変わった。彼の「俺が処理する、心配するな」の言葉に安心し、感動した。彼に励まされながら、社会に歩き出し、自信を取り戻した。

 次は娘だ。日本に来た頃は、小学生だった。日本語は話せず、教科書が読めず、先生、クラスメイトのいう言葉もわからず、さらに自転車にも乗れず、水泳もできなかった。しかし彼女は不貞腐れず、投げ出さず、努力した。勇気を出して日本語を話し、自転車は一週間でマスターし、水泳を一生懸命練習し、卒業する前には要求される級を取得した。中学校、高校に上がる時は、優秀な成績を収め、特待生の資格を獲得し、全学費免除で私立の中古一貫校に入学した。その後は、国立大学の工学部に入り、自分が好きな専攻を学んだ。娘の成長は私を安心させ、自信の源にもなった。一からスタートしても大丈夫だと。

 また、日本の友達や中国人の友達も作った。彼らの手助け、励ましや友情は私に人生の難しい時間を乗り越えさせ、困難に打ち勝ち、自分が生きる場所を見つけることができた。廣中先生、高橋夫婦、伊藤女史や私について中国語を学んだ日本の友達たち、職場の同僚たち、先生たち、ありがとうございます。皆さんの名前を心に刻み、永遠に忘れません。

 最後は私の両親弟妹だ。彼らを前にすると、私はいつも自責の念に駆られる。娘として親不孝であり、長女として責任を負うことができなかった。両親が病に伏している中、日夜そばで見守ることなく、面倒を見ることもせず、弟妹は両親の世話に疲弊しても、戻って代わることはできなかった。それでも、彼らは少しも私を責めることなく、恨み言を言わず、反対に、いつも気にかけてくれて、慰めてくれた。毎週の電話では悪いことは言わず、良い知らせしか言わなかった。

上述したすべての人情、すべての愛情が、私を支え、日本で根差すことができた。毎日楽しく、充実しているからこそ、自分が好きなこと、やりたいことをするモチベーションもある。大いに満足している!

東に渡り十二年、視野が大いに広がった、人生が充実し、人の人生というものについて悟り、人生の心理について悟った。

常々筆を執り、自分が見たこと、聞いたこと、感じたこと、悟ったことを記録している。自分の人生に記念を残すついでに、自分に愛や関心を与えてくれた人、自分が愛し、感謝した人へのプレゼントになればよいと思っている。こうして2005年から、日本の中華新聞、雑誌や国内の新聞、雑誌で各方面に関連する短文を発表している。

今日それらを結合し、一冊の本にし、皆さんに捧ぐ。読者の皆さんが私と同じ所感を持つことは高望みしない、拍手称賛を求めるわけでもない。皆さんに私の感じたことを受け止め、私の心に歩み入れることを期待している。

 

 


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