『ハイネ評伝』

 小酒井不木の日記などを眺めていると、ドイツの詩人ハイネを愛読していたことがうかがわれます。

 で、今回古書目録で見つけたのが藤浪由之(水処)著『ハイネ評伝』(洛陽堂・大正5年)。出版社の洛陽堂は前年(大正4年)に不木の処女出版『生命神秘論』を出している版元です。そんな接点がある上、この『ハイネ評伝』には、小酒井不木の「ハイネ評伝の後に」が収録されておりました。
 また、はしがきには「この小冊の出版に就いて、友小酒井光次氏の多大の好意と尽力とを同氏に深く感謝する。」とあり、小酒井不木と藤浪水処が友人関係にあったことがわかります。

 そういえばこの名前、どこかで見たことがあるな、と思ったら、岡戸武平の書いた「名古屋作家史」(『め 第5号』名古屋文学学校・昭和32年9月8日発行)で言及されていたのがわかりました。

当時もう一人異色ある文学者が、時々広小路に現れた。綽名して広小路伯爵といつた人で、筆名は藤浪水処。久屋町藤浪家の生れで、長兄は京大名誉教授の藤浪鑑、次兄は「日本浴場史」の著書のある藤浪医博で、その毛並みのよさに至つては名古屋文化系統唯一つであつたに拘らず、この水処は日本的文学者にならずして終つた。わずかに東京某書肆から出版したモウパツサンの翻訳集と、名古屋静観堂を版元としたツルゲネーフの「初恋・散文詩」を残したにすぎなかつた。広小路伯爵の由来はその洋服の着こなし、ステツキの振り工合い、ペーヴメントを闊歩するそのスタイルが、平民と思われない瀟洒たるものであつたから誰いうともなくその名が生れたのである。

 藤浪剛一の弟だったのか。
 前から何度も言ってますが、藤浪剛一は日本のレントゲン学の第一人者だった人で、大倉燁子の妹・和子の夫。藤浪剛一も不木とは多少つきあいがあったようだというのは資料に時々名前が出てくるので察してはいたのですが、友人のお兄さんとは。意外と親しくしていたのかもしれません。

(記、2007/2/14)

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