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深淵からのぞき返されている映画評論端の方たち。

※はじめにお断りしておきますが、今回の話題は政治思想的な話が関わっていますが、それはこの文章の趣旨ではなく要素の一つであり、描こうと思ったきっかけに過ぎないことを強調しておきます。本稿はどちらかと言うとSNSでのお行儀の話です。


『プク太の世界時事ニュース』さんは、海外、主に北米のエンタメシーンの中でも私にとって興味深いあたりをソース付きで紹介してくださってるので毎朝の更新を楽しみにしてるのですが、今朝投稿された『ゴジラ-1.0(以下ゴジマイ)』についての動画のサムネイルを見て思わず爆笑してしまいました。

「日本の映画批評家は左翼」


 うん、知ってた。

 でも、こういうのって日本のメディアじゃまず取り上げられない…というか、そもそもそういう問題意識すら持ってない。日本のメディアは戦後の刷り込みで左寄りがセンターだという思い込みがあるから。

プク太さんの名誉のために補足しておきますが、このチャンネルは特に右寄りとかではなくむしろ中立で、思想的な要素が絡むニュースでもその行き過ぎによって不利益を被る場合のみ批判的という印象です。

 補足ついでに強調しておくと、この見出しに書かれてる内容は「ジャパンタイムズ」からの引用ですし、この新聞もご多分に漏れず左寄り(メディア界における常識的)です。そんな新聞が「左翼」呼ばわりするのだから、いったい何ごとって感じですが。

 この動画で紹介されているジャパンタイムズの記事の中で該当する部分を意訳すると、
「日本の映画批評家の多くは左派なので、ゴジラ-1.0のような映画は国家主義的とみなし、忌避する」
って感じですか。(詳しくは上の動画の8:31あたりからご覧下さい)

↓元記事はこれですね。お疑いの方は確認お願いします。

…まさにおっしゃる通りなんですが、もはや我々(あえて主語を大きく)は、戦争を題材にした映画で「日本悪い」「日本人悪い」が主題として描かれてないものは、その一点において映画評論家様たちが認めないっていう事実に慣れ過ぎていて、まさか英字新聞とはいえメディアでこういう指摘があるなんて夢にも思いませんでした。
 ジャパンタイムズも執筆陣が海外勢とはいえ、普段の論調はわりと日本のリベラルメディアに近いという印象だったので、とりわけ驚いたんです。 
 なにより、わざわざ「日本の評論端が左寄り」なんてことを映画のオスカー受賞のニュースに挿入する必要は無いはずなのにあえて入れたということは、それがどれだけ「奇妙に映った」かってことじゃないですかね。

 上の記事では、日本の映画評論家の四方田氏が『ゴジマイ』を「危険な映画」と評したことの紹介に続いて
「日本国外では四方田氏のようにとらえた批評家はほとんどいなかった」
 と続きます。まあそりゃそうですよね。

 YouTubeで映画評を見るような方には説明不要だと思われる岡田斗司夫氏は『ゴジマイ』について、
「最初からオスカーを狙って取りに行っている。」
と指摘していて、

 その根拠として

  • 米国批判要素がない

  • (直接的な)人を頃す描写がない(咥えてぶん投げてるだけ)

  • 世界市場を狙った(家族愛のような普遍的な)脚本

 などを挙げてますが、だとしたら余計に「日本すごい」要素なんか組み込まないと思うんです。
 あの映画、結果的にはニホンスゴイっぽく見えるとしても、最初はあの場にいる多くの人(日本人)はどちらかというと「何とかしたいけど今の俺たちじゃなぁ…」というあきらめムードなところを、訳あってあきらめの悪い主人公たち少数に刺激されてようやく奮起するっていう流れなので、無条件の「優秀で誇り高い人々」とは描かれてないんです。
 もちろん、日本や日本人の作り上げたもの(兵器など)に対してのリペクトはありますが、それこそハリウッド映画で愛国的な描写があっても加減さえ間違えなければ(例えば大統領が戦闘機に乗って暴れまわるとか、いやそれはそれで笑えるからいいんだけど)「他所の国なりの尊重すべき愛国心」として受け入れられるはずですし、その程度の愛国描写すら許されないとしたらその方が病的です。(←言っててむなしいところがありますが)

 そもそも、すでに北米で大ヒットしてとうとう部門賞とはいえオスカーまで取っちゃうような映画が、日本の右翼の賛美映画なわけないじゃないですか。言い方悪いけど北米のメディアなんかは少しでも「右翼的・国粋主義的」な物言いを見つけたら喜んで糾弾してきます。そういうのがほとんど見当たらないあたり、脚本の段階でかなり慎重な地雷処理をしたんだと思いますよ。

 そんななので、私個人としても『ゴジマイ』がここまでの大ヒットになることは予想しないまでも、海外から妙なイチャモンを付けられることはあまりないだろうなぁと思ってましたし、その辺はだいたい予想通りでした。
 ただ、国内の批評家は絶対ケチつけてくるだろうけど、とも思ってました。もちろんそれも大当たりでした。

 もちろん、完璧な作品なんてそうそうあるもんじゃないですし、私だって『ゴジマイ』に文句がないかと言うとそんなことはないです。ただ、私は映画に限らずすべての娯楽作品に関してそうなのですが、なにか一つ秀でて楽しませてくれる要素があって、なおかつそれを台無しにするほどの欠点がなければ、作品として成功だと考えてますし、そういう部分を無視して低評価のみなのはフェアじゃないとも思います。
 また、たとえその作品がノットフォーミーであっても、他の誰かにとっての傑作ならそれを尊重します。(もちろん自分や第三者を事実と異なる情報で名誉を棄損するようなものは除く)

 それこそ上に挙げたジャパンタイムスの記事にもありますように、山崎貴監督は原作者が右翼的なので有名な『永遠の0』を撮った時点でそちら方面からずいぶん叩かれてたのですが、そういう方々でもさすがに今作は一方的な低評価はないんじゃないか、いい所も挙げるんじゃないかって思ってましたよ。今作では共通の題材である「特攻隊」も肯定的には表現されてませんですしね。
 ……振り返って我ながらお人好しだと思いますけどね。

いや、本当に全否定してる批評家けっこういるな!

 実際驚きましたが、でもそうでもなければわざわざジャパンタイムズが紙面割いたりもしないだろうし、それくらい奇異に映るのも無理はない。

 私が普段見ている映画評系YouTuberの方々でも、絶賛する方もいれば「ここは残念」的な評をする方もあって、どちらも「なるほどなぁ~」って感じで楽しく聞いてました。違う意見は自分の視点の隙を埋めてくれることが多いのでそれはそれで楽しい。

 しかし、とある方なんてもう最初から苦虫潰したような顔で、開口一番

「右翼」

…いや、この映画の評でその単語出したら負けだと思いますよ? つかよりによってそっから入ります?

この方に限らず『ゴジマイ』評でこの単語を使う方は、もはや映画の内容とか表現とかの話をしないんですよね。ひたすら戦中戦後の日本の位置づけの話のみ。その件で史実としてガチで日本と頃し合いをした米国の人ですらほとんど言及してないのに、あんたら何に取り憑かれてるんですか。特攻隊が出てきたらそれが否定的な文脈でも軍国賛美なんですか。


さて、一方『君たちはどう生きるか』ですが。

 ここでいきなり話を変えます。最後には繋がるのでご容赦を。

 ここから先しばらくの文章は、もともと『君たちはどう生きるか』(以下『君どう』)の感想として書いてたものの、なんか作品以外のことが膨らんでしまったうえにやや攻撃的になってしまったのでお蔵入りしてたものを、アカデミー賞関連で思い出してもう一回掘り起こしてみたってものです。
 ちょっと当時の記事から抜粋してこの記事の本分につなげる形で進めてみます。


 (『君どう』の感想より→)…お話は一貫しておらず、感性と情熱の赴くままにたれ流したイメージを天才の力技で作品というかたちにねじ伏せた、とでも言いましょうか。
 いや、それでもみられる作品に出来ちゃう辺りが天才のソレなので、そこは相変わらずすごいし、それだけで見る価値は十分あるんですけど。

 何人かの方が「これは娯楽作品じゃなくて芸術作品」と述べていたがおそらくそんな感じで、日本で「芸術作品」て言うとなんだか高尚なモノに聞こえるけど、要は見る側が参加してこそ成り立つ鏡のような、「あなたの心には何が残りましたか?」的存在なので、下手に真面目に評論とかすると自分の裸を披露する羽目になりそうな、まあそんな感じかなと。

 個人的には「宮崎駿のハンサム自画像・母親大好き編」くらいに思っています。
 ちなみに『風立ちぬ』「宮崎駿のハンサム自画像・ゼロ戦大好き編」です。

あるいは『転生したら宮崎駿ワールドの主人公だった件』でもいい。

で、

私がこの映画ですごく面白いと思ったのは、映画そのものじゃなくて

「この映画に翻弄される人々」

だったんですよ。申し訳ないけど。

(ほら、つながったでしょ?)

 何せこの映画、映像的にはあいかわらず最高ランクにおもしろいし、シーン一つ一つ見る分には理解できるし、でも全体通してなんでそうなるかって言われるとわりと言葉に詰まるという、

何か語りたくなるけどこんなに語りづらい作品もない

という、本当にやっかいな作品。

 もちろん、自分なりに「分かった」人はそれをつらつら語ればいいし、上記の私みたいに「よくわからんけどこんな感じじゃね?」くらいの人は素直にのほほんとしてればいいと思うんですけど、そこで困るのが

「分かんなかったけど分かんないって死んでも言いたくない人たち」

なんですよね。自分を賢く見せたいタイプの人に多いと思いますが、

それが顕著だったのが映画系YouTuber界隈。

 ほら、YouTuberでもいろいろいるけど、なかでも稼ぎたい人って何かを断言してドヤ顔して喝采を浴びたい人たちじゃないですか。(超偏見)

いや~困ってたねぇ。

 もちろん素直に「こここうなんじゃね?」とかわからんなりにあーでもないこーでもないって盛り上がってたりと、楽しげな方々も多数見られました。答えが出なくても考察してて楽しい作品でもあるし、それはそれで健全だと思います。

でもやっぱり「分かんない」ってどーしても言いたくない人も何人かいて、なんか怒ってんのwww

 怒るくらいならつまんなかったって言って切り捨てりゃあいいのに、それもできないので苦しいみたいなんですよね。やっぱりなんだかんだ言っても一応話題作(飯のタネ)ですし。それに分からないとこき下ろすのにも精彩を欠きますし。

……と、この辺までが、私が『君どう』の感想を書こうとしてなんか暴走しちゃった文章より抜粋したものです。
 約半年前の文章ですが、我ながらなんかえらく攻撃的ですね。いやなことでもあったんか自分。ボツにしたのは正解かな。
 で、この後、彼ら怒ってるYouTyberの一部が、『君どう』を上手に語れる(語れそう)な人を藁人形サンドバックにしてたところまで書いて、あまり楽しい文章にならなかったって思ってボツにしてお蔵入りにしたのですが、今回の件で
「この辺まとめて『評論する側の問題』として練り直すのもアリかな」
と思いまして。


く〇ばれ評論家

 そこで思い出すのが、私の敬愛する藤子・F・不二夫先生の代表作のひとつ『エスパー魔美』の名エピソードの一つ「くたばれ評論家」
 上に貼ったTogetterにも書かれてますが、一部がネットミームとして拡散されてるので有名なものの、通して読んだ方は少ないんじゃないでしょうか。 SNSの登場によって「一億総批評家」状態の今こそ必読の名エピソードなんですよ。これに限らずF先生の作品には先見性に驚かされるものが多いです。

 本稿に関係のある部分(前半)のあらすじを紹介すると、主人公魔美の父、画家の佐倉十郎が、評論家の剣鋭介による自分の個展に関する評に激怒する。自分の父を悪く言われて憤慨した魔美は剣の元に抗議に行くが、正論(これもネットミームとして有名な「どんなに心血を注いでも駄作は駄作」など)で返されて、腹いせにテレキネシスで嫌がらせをしてしまう。家に帰って佐倉画伯に「剣に天罰が下った」と言うと、佐倉画伯は…
ここで有名なネットミームにもなった、これ⇩

引用

 につながるわけです。

 後半で明らかになりますが、剣氏は単に過激な発言で注目を集めたいような批評家ではなく、むしろ誰よりも真剣でかつ真摯であり、佐倉画伯もそれをわかってたからこそ個人的な怒りで収めたんでしょう。
 主人公で能力者だけど精神的に子供な魔美の「腹いせによる嫌がらせ」と、芸術家と批評家という二人の「大人の対応」をわかりやすく対峙させ、対象読者である思春期の子たちにやさしく語り掛ける良作ですので、未読でしたら機会があれば是非読んでみてください。もう道徳の教科書に載せてほしい。(個人的には、魔美が「天罰」という言葉を使ってるおぞましさがこの話の肝だと思っています。)

 で、先ほどの「一億総批評家」時代の今、F先生がご存命ならさぞかし呆れられるなぁと。なにせ、『エスパー魔美』の対象読者の何倍も生きてる人たちが「評論家(自称含む)」として子供に見せられないようなことをしでかしてて、さらにSNSによってそれが可視化されてるのだから。

評論家の評論もまた評論の対象なのでは


 それこそYouTuberにそこまで求めるのは酷かもしれませんが、仮にも「評論家(評論系)」を名乗る方なら、もう少し襟を正す必要はありませんかね。

 SNSの発展によって誰でも発信できるようになったので、誰でも評論家・批評家めいたことも出来るようになりました。私も似たようなこともしてるので他人事じゃありません。でも、お手軽に出来る・お手軽になれるからって、その内容までお手軽でいいかと言うと、そこはちょっと立ち止まって考えた方がいいのかなって。
 もちろんここで「あれはいい・あれはダメ」などの検閲をするつもりではありません。当然内容は自由だと思います。

 ここで留意すべきは2点。

  • 批評かどうか以前に、相手に敬意を払えているか。

  • 逆に自分が評される覚悟があるか。

この二つは明確に分けられてるというよりも相互的というか二つの側面って感じですね。

 相手というのは批評の対象だけじゃなくて、その批評を見る(読む)側なども含みます。そんな相手や周囲のことを考えて気をつかってたら何も言えないって言うかもしれませんが、別に言うなってことじゃないです。言うからには、その発言内容自体を評される覚悟が必要っていう話です。
 よくSNSに投稿された作品に対して「批評されたくなければ投稿しなければいい」という方を見かけますが、べつにそれは具体的な「作品」に限った話じゃありません。
 剣鋭介の評論は内容は辛口でも嘘や人格攻撃などの手続き上の問題はありませんでした。だからこそ、佐倉画伯も怒りはしたけどそこで終わりにしたのでしょう。でもその批評が事実に基づかないものだったり、作品評を超えた人格攻撃だったりしたら別問題(名誉棄損など)ですし、その上批評した剣氏自身の評価にもつながります。(すでにそのジャンルの権威で言いたい放題などのケースを含めると話が複雑になるのであえて話を原則的な部分に限ります)
 

 読んでる方によっては、「何を当たり前なことを長々と」と感じる方もおられると思います。でもご存じの通り、そのあたりまえが通じないのが評論界隈だなという印象でしたし、今回のことでより強く感じました。

 上で挙げた、具体的な論評を始める前に「右翼」という言葉を使った方などその典型で、もはや「作品として対峙する気はない」って態度なんですよね。

 私は基本的に作品評に思想を絡めるのが嫌いですが、こういうことを書いていると左翼・リベラル方面の方にばかり言及せざるを得ないのは、残念ながらそっち系の界隈の方が圧倒的に行儀が悪いからですよ。
 ひと昔前ならそういう論調でも受け入れられてたんでしょうけど、もうそっち系の方々の「常識」はかなり払しょくされましたしね。

 もちろんそういう方面だけではなく、先ほど挙げた『君どう』に怒り散らかしてた方々。あなた方も「他人の作ったもの(映画)」を豪快にぶった切って気持ちよくなったり自分を大きく見せたりしたいのはわからんでもないですが、あなたが演出した通りに見てもらえてるとは限りませんよ。
 特に、自分を大きく見せるために他人の「批評」をこき下ろすなど、もってのほかです。


で、何が言いたいの?


 批評をするのは楽しいです。なにせ、批評は感想の延長ですから。
 自分の好きな作品をあーでもないこーでもないって言うのはじつに楽しい。趣味の合う仲間との感想戦ならそれはもう時間が忘れるほど楽しい。
 自分がどれだけ楽しかったか、どこにシビレたか、なにがどれだけ美しかったか、何が大事だと思ったか、それによって自分に何が起こったか。
 言葉にして誰かと共感したい。文字にしてそれらを知ってもらいたい。楽しいが広まるとステキだ。
 そして何より、どんな感想を抱こうと自由だ。

 ですが、それをひとたび「表現」しようとするなら、それは望む・望まないに関わらず批評の対象になる「作品」(「パフォーマンス」と言い換えるとわかりやすいか)になるということです。
 国外のことはよく知りませんが、こと日本で評論家・批評家と名乗る方で、このことに無頓着な方があまりにも多いのが残念でなりません。


 しかし上述のジャパンタイムズのように、もはやそういう評論端の「異常さ」がメディアに指摘されるようになってきたというのは、もう少し注目されてもいいと思います。別に最近急に異常になったのではありません。他の要素と同じく、SNSの発達とグローバル化によって浮き彫りになっただけです。
 
今回オスカーをとった二作品は、その影響力ゆえかそんなことをより際立させてたなぁと、個人的には思いました。


 これは評論端に限った話じゃないですし、私も自戒を込めてですが、いい加減自分が「評される」側でもあるということを意識した方がいいですよ。






おまけ。


昔描いた『魔美』キャラによる『悪の華』パロディ。

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