普通ではない雨 4 - 汚れ

地下鉄の長い階段を登っていると雨音が聞こえてきた。夏の激しい夕立ち。生まれつき雨の気配にはとても敏感で、匂いで、肌の感覚で、あるいは声や物音の響きで来るのがわかる。それは不意の夕立の到来であっても同じだった。しかしこれは全くの不意打ちだった。自宅から駅まで歩いて電車に乗るまで、雨の予感はしなかった。地下にいたのはせいぜい二十分程度。妙だ。

これは普通の雨ではないのかもしれない

階段を登る足を止めて駅の出口を見上げた。雨粒で通りが見えないくらい激しいスコールだった。立ち往生する人々は一様に圧倒された表情を浮かべている。その街を切り裂くようなストライプの抽象画を彼らと共にしばらく眺めた。本当に暴力的な絵だと思った。時間がない。折り畳み傘をバッグから取り出して開き、一人思い切って通りに飛び出した。轟音が耳をつんざいた。飛沫が剥き出しの腕と足をどきりと冷たく濡らし、間も無くずぶ濡れにした。視界はないも同然で立ち往生になったが、運よく一台のタクシーが直ぐそばに停車していた。ドアが開いて転がり込み住所を告げた。数分の距離だった。ショートパンツから小さいタオルを取り出して顔を拭き、手足を拭いた。そのまま後部座席に寄りかかって窓を見た。外がろくに見えなかった。タクシーが停車するとネオンの赤が滲み、雨ではなく降りしきる灰が血に塗れて窓ガラスに貼り付いているように見えた。雨の灰である。

疲弊しきっている、おれはぼろ雑巾だ

「豪雨ですね」玄関で濡れた黒いビーチサンダルを脱ぎながら言った。べたついた足の裏がサンダルにくっついていた。不快なまでに手のひらが湿ってていた。自らを憎みたくなるような類の汗をかいていた。おれは汚れていた。汚れていないはずがなかった。

「豪雨」女はよくわからないという感じで言った。
「すごい雨です。この部屋にいると気づかないんですね。音が聞こえないから」
「本当に降っているんですか」信じられないという調子で女は言った。

どうして?

「ええ。大雨です。今すぐ引き返して帰れって警告されているようでした」
 本当にそう思った。
「寂しいこと言わないでください」女は微笑んだ。
「どうぞお入りください」と言った女の声。夏の終わりの湿った夜に、高原を撫でるそよ風が吹いた。

素足で部屋に足を踏み入れるのを躊躇した。長い廊下だ。広いリビングへ。そして奥のソファへと導かれた。腰を下ろすと太腿の裏が冷房を浴びたレザーに触れてひんやりした。テーブルに置かれたおしぼりで顔を拭った。冷たくて気持ちがよかった。顔を上げると女が隣に座っていた。
「雨はお嫌いですか?」
「どうでしょう。でも変なことを言うようですが」
女の視線が促すようだったので続けた。
「土砂降りの中を歩いたり、走ったりしたくなるんです。風邪をひくじゃないって家の人には怒られますが。激しい雨、とても気持ちがいいものですよ」
相槌を打つこともなく彼女は俯き黙った。
そよ風は呼べば吹くわけではない。彼女が出してくれた濃い緑のお茶を一口飲んだ。

おれは妻を妻と呼べなくなってしまった

「清められたいですか」唐突に女が口を開いた。
「清められたいですね」
「滝に打たれるとか」
「滝に打たれるとか」

普通ではない雨がまだ今も降っているだろう

「でも降り始めの雨はだめですよ。すごく汚いから。降り始めてしばらく経ってからじゃないと」
「汚い?」
「埃とか排気ガスとか。最初の方の雨粒には全部くっついてますから」
再び女は黙っておれの目を見つめた。
「いや、きれいな雨に打たれて欲しいんです」何も知らずに口走っていた。
彼女は声を出して笑った。

その夜おれは汚れた手で彼女に触れようとした。
そしてアパートの床に汚れた足跡を残した。

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