普通ではない雨 2 - 夢

「私にとって飲酒は、自分からの休憩でありながら、同時に累積自殺の試みであったと思います……目を覚ますと、閉め忘れた窓から雨音が聞こえました……この不思議な雨の夢を見なければ、治療に向き合うことは最後までなかったのではないか、という気がしているんです」と私は言い、気がついたら微笑んでいるようだった。精神科医は一度だけ頷き、私が確かに語り終えるのを待つように、しばらく何も言わなかった。

2023年11月 入院先の都内某病院で

その街には見覚えがあったが確かではない

人気のない繁華街は靄がかっている。タンクトップとショートパンツという姿で、時間を確かめようとしたが時計はしていなかった。足が棒のようだったがいつから歩いているのかわからない。そしてここはどこなのだろう。こんな妙な静寂は知らない。ランニングシューズが地面に擦れる音。あとは自分の呼吸が聞こえる、だけ。しかし帰らねば、という思いで、タクシーを拾うために大通りに出る。誰もいない。駅前の大きな交差点を見渡しても誰もいない。巨大なビルを繋ぐ高架の歩道橋を見上げても誰もいない。廃屋の軒下に隠された石のように、街全体が冷たく押し黙っている。

車列で埋め尽くされた片道三車線の大きな道路に沿って歩いてみる。停車しているタクシーの車内を覗く。無人である。次も無人。その次も無人。運転手も乗客もいないバスの群れを通り過ぎる。乗用車の一台一台を覗きながら道路の中央へ向かって進む。無人、無人、無人。巨大な交差点の真ん中で、信号待ちの車列をぐるりと見渡す。付近を一通り見て回る。通りも車も空っぽである。途方に暮れて空を見上げる。月も太陽も星もない。雲一つない灰色の天井は今にも落ちてきそうで、それ以上空を見上げることができない。

もう歩けない。しばらく呆然と立ち尽くし、ふと、先ほどは無人だったはずの車列の一台に目が止まる。先日手放したものと同じ車種。色も同じだ。誰かが乗っているように見える。車列を縫って近づいていく。やはり人が乗っている。息が止まる。彼女ではないか。ドアの窓をノックする。反応はない。マネキンのように動かない。しかし彼女には違いない。あまりの美しさに眩暈がする。夢だろう。夢の中でも目眩は起こる。ドアはロックされている。フロントガラスを叩きながら名前を呼びかける。声が出ない。自分の声が聞こえない。そして彼女の隣。運転席に座っているのは私ではないか。白髪頭ではあるが。服にも全く見覚えがないが。私だ。運転席のドアも、後部座席のドアも開かない。後ろの座席には、お揃いのセーターを着た、洋服屋のマネキンみたいな子どもたち。バックの荷物入れには食料品店の買い物袋、値札の付いたクリスマスツリー、そしてパーティー用の装飾も顔を覗かせている。バックドアも開かない、その瞬間、ガラス越しにマネキンたちが動き出している。車の前に急ぎ周ると、フロントガラスは…音以外は…欠けるところのない家族の姿を映し出すスクリーンと化している。飛び交う言葉、弾ける笑い、彼女のピンク色のマネキュア、踊るような子どもたち、愛の身振り手振り、続いていく。あれは私なのか。あれは私だ。私。フロントガラスを叩いても、叩いても、叩いても、叩いても。どうして目を潰す乱暴な涙。

突然強烈な喉の渇きに襲われる。水。大きな商店街の入り口が見える。道路を横断する。暗いトンネルのような商店街を彷徨う。闇に浮かび上がる店、自販機、ビル、アパート。歩いても歩いても明かりはなく全ては影である。気がつけば前にも後ろにも闇が広がるばかり。

この街は死んでいる

黒いインクのような闇が足元から身体を染め始めている。砂漠を行く者の渇きも忘れさせるほどの恐怖に襲われる。おれは死んだのか。たとえもう死んでいるとしてもこの街にはいられない。必死に目を凝らすと小さな白い穴が見えて歩を進める。穴口はだんだんと大きくなる。出口だ。やがて縦に揺れているように見える。雨か。出口は激しい雨。その音のない豪雨へ向かって駆け出す。垂直に降る雨粒のペイントが描くタブローは接近すれはするほど暴力的になる。巨大な抽象画を破壊するかのように、あるいはその凶暴なストライプに切り裂かれんと、雨の中に闇雲に突進する。耳をつんざく轟音と重い重い雨粒、その凄まじい「滝」に頭と肩を打ちつけられ、一瞬で全身が水に浸される。目を開けていられず、意識ごとぐらんとよろめき、膝をつく。強く強く目を閉じ、ただただ打たれるがままに。

雨は止む

慎重にゆっくりと瞼を開く。零れ落ちる水が、つるりまたつるりと、瞳に滑り込む。その感覚は、驚くことに、美味しい。目元を拭い、髪をかき上げ、顔を上げる。この世のものでない光景。何か汚れのない、きれいな、とてつもなく美しいものが、無数に宙に浮いて、辺り一面に静止している。降下中の雨粒が静止しているのだ。あるものは青なのか、あるものは緑なのか、あるものは白なのか、色彩を持ちながら色彩を持たないような純真さに透き通り、きらきらと瞬いている。その奇跡のような雨粒の造形物は、身体ごと魂を溶かすような、聴いたことのない、何か不思議な笛のような鈴のような知らない音を奏でている。全的に慰撫されながら、茫然として濡れた身体を腕に抱き、夢なら覚めないでくれ、と祈る。鼻先に輝く一筋、その静止した雨粒の妙なる曲線を見つめていると、言うに言われぬ、知りようのなかった類の穏やかな恍惚に包まれる。咄嗟に喉の渇きを思い出し、許しを乞いながら光る雨粒の先に口を近づけると、雨粒は雨粒では無い。それはにゅーっと縦に伸びるガラスの瓶のようである。それは溶けて変形した酒瓶のようである。辺り一面、ぶら下がっているのは、すべて何がしかの酒瓶のようである。目の前にぶら下がる一筋のような一本を鷲掴みにする。酒瓶の感触に思いがけない憤りを覚え、思いきり地面に叩きつける。ガラスが粉々に砕け散る「のではない」そのものすごい音で殴られて気を失うようにして目を覚ます。

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