見出し画像

悩んだら啄木の短歌を読め———歌集『一握の砂』レビュー

はじめに


初めまして、京大の文芸サークル・木曜会の会員の全縁というものです。
木曜会がどんなサークルなのかはこれ以前の記事でじゅうぶん紹介されていると思いますし、今年入ったばかりの私が活動の実態をつぶさに知っているわけでもないので、私は単純に自分が好きな文芸作品について語ります。
それは(題名からわかる通り)石川啄木の短歌です。
この記事では、啄木の初期歌集である『一握の砂』から歌を引用しながら、その良さを伝えられたらなと思っています。
(以下、歌の引用は1987年発行の岩波文庫の『啄木歌集』からです。ルビを省略した部分、表外漢字を常用漢字に改めた部分があります)

啄木の短歌をはじめて読んだのは、高3の11月のことでした。普通の受験生なら死ぬ気で受験勉強のラストスパートをかけている時期ですね。振り返ってみると、そのときの私は漠然と京大を志望しているだけで、勉強するという最初の一歩をなぜか踏み出せず、自分の学力が明らかに足りないことを自覚しつつも、やることといえば授業をブッチして高校の周りの住宅街を一人で徘徊するくらいの、絵に描いたようなダメ・オブ・ダメ受験生でした。
でも「受験生なら勉強しなければならない」という規範意識だけはあって、その規範とあまりにも怠惰すぎる現実の板挟みになっていました。それに、高2くらいまで私は「定期テスト前だけ詰め込み勉強してそこそこ良い成績を取るポジション」にいたのも悪く働きました。自分より遊んでいて成績が悪いと思っていた同級生も気が付けば授業中に白昼堂々塾の予習をする受験戦士に変身してしまい、当然学力も敵うはずがなく、勝手に何か劣等感のようなものを感じる身勝手な苦しみもあったのですね。いま思えば同じような境遇の友人もたくさんいたのに、当時は周りを気にする余裕がなく、どうして自分(だけ)が1年前と比べてこんなに堕落してしまったのか…という思いで徐々に精神状態が悪化していました。

岩波文庫の緑色の「文学」カバーをした『啄木歌集』を見つけたのは、確か母の本棚の中だったと思います。そのころの私は本の世界に入り込むことで現実逃避をしていて、中村文則の初期作品からナチス・ドイツの風刺画を集めた書籍まで乱読の嵐だったので、未読の本で、しかもきちんと読んだことのない歌集というものが目の前にある!という感じでホイホイ手に取ったというのが真相だと思われます。それほど期待せずに頁をめくってみて、最初から心を掴まれました。

総論;異様なキャッチ―さ

たはむれに母を背負ひて
そのあまり軽きに泣きて
三歩歩まず

「我を愛する歌」より

友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
花を買ひ来て
妻としたしむ

「我を愛する歌」より

一度でも我に頭を下げさせし
人みな死ねと
いのりてしこと

「我を愛する歌」より

はたらけど
はたらけど猶わが生活くらし楽にならざり
ぢつと手を見る

「我を愛する歌」より

ふるさとの訛なつかし
停車場ていしゃばの人ごみの中に
そを聴きにゆく

「煙」より

そのかみの神童の名の
かなしさよ
ふるさとに来て泣くはそのこと

「煙」より

啄木が初めて出版した歌集である『一握の砂』は「我を愛する歌」から「手套を脱ぐ時」までの5つの章からなります。その中から、特に有名だと思われる歌を6つ引いてみました。
一読して、すべての歌が異常にキャッチ―なことがわかると思います。例えば1首目の 「たはむれに母を背負ひてそのあまり軽きに泣きて三歩歩まず」では母親の老いを日常の中で不意に実感するさびしさが、4首目の「はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざりぢつと手を見る」では働いても報われない無力感が歌われていますが、パッと読むだけでそれが極めてリアルな感情として心の中に浮かんできます。
歌人の穂村弘がどこかで言っていましたが、明治から現在に至るまでの近代短歌で、最も人口に膾炙した歌の一つは確実に啄木のものでしょう(本題に関係ないですが、俵万智の『サラダ記念日』中のものが含まれるのも確実ですね)。歴史的に見ても、啄木の歌のキャッチ―さは特筆すべきものがあると思われます。
現時点で私はその理由は2つに分けられると考えています。1つ目は歌われている感情が共感しやすいこと、2つ目は表現方法が巧みなことです。

①共感しやすい感情

前者について。読み手が共感しやすい感情、というのは結局のところ、日常的に起こりやすいシチュエーションを詠んだ歌の中に存在する気がしています。そして、啄木はそのような場面を切り取るのがとても上手い。例えば、上の引用の3首目の「一度でも我に頭を下げさせし人みな死ねといのりてしこと」のように、自分の意に沿わない行動をさせられて、内心でそれを命じた人に対して悪態をつく場面は多いでしょうし、5首目の「ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」のように、現在は離れてしまった故郷のことが、そのシンボルを伴ってふと懐かしくなる場面も、同様に日常の中でままあることでしょう。

6つの掲出歌の中で歌われている感情が、すべて共感しやすい上で、それぞれ方向性が大きく異なる(=刺さる人の層が違う)のもポイントです。3首目の自暴自棄な感じにグッとくる人と、5首目の素朴な望郷の念が実感として存在する人は、若干人物が違うように思われます。もちろんどちらも同時に共感できる人(これは素直に詠み手の啄木のような人、と言ってもよいかもしれません)はいるでしょうが、それぞれ単体で鑑賞したときに得られる感情は異なるでしょう。このように啄木は様々な方向の想いを共感ベースで詠むことに長けているため、ある特定の層だけではなく、幅広い人たちに親しまれる歌たちを残すことができたのだと考えています。

当時の私の話をすると、先に書いたように精神状態が悪化していたため、『一握の砂』の中でも特に暗い雰囲気を持った「我を愛する歌」という一連の歌群を好んで読んでいました。当時とくに好きで、夜に家を抜け出して線路沿いを徘徊しながら、頭の中で反芻していた歌を何個か引用してみます。

大といふ字を百あまり
砂に書き
死ぬことをやめて帰り来れり

わが泣くを少女等をとめらきかば
病犬やまいぬ
月に吠ゆるに似たりといふらむ

剽軽の性なりし友の死顔しにがほ
青き疲れが
いまも目にあり

どんよりと
くもれる空を見てゐしに
人を殺したくなりにけるかな

わが抱く思想はすべて
金なきに因するごとし
秋の風吹く

今見ると、特に2首目の「わが泣くを少女等きかば病犬の月に吠ゆるに似たりといふらむ」で顕著な、自分への甘さというか、自虐しつつも現在の状態に安住しているような一種の嫌らしさが目につきますが、まあそんなものでしょう。たぶん当時も自覚はしていたし。
「死ぬ」「殺す」といった言葉が含まれる歌も多いですね。当時の私は近代短歌をほとんど読んだことがなく、短歌と言えば古文の授業で習ったような平安時代の相聞歌(主に恋愛を詠んだ歌)と同じようなものだろ、と勝手に思っていたので、これほど強い言葉を入れてアクチュアルな感情を提示してくれるような歌が存在することに対して、驚くと同時にたぶん心のどこかで嬉しかったのだと思います。

②表現方法の工夫

後者について。詠む対象とする感情の選択がいかに上手くても、それを短歌の詩形に落とし込んで表現しないと他の人には伝わりません。その表現方法において啄木が他の歌人と大きく異なるのは、一つの歌を3行に分けて書いていることです。

いのちなき砂のかなしさよ
さらさらと
握れば砂のあひだより落つ

「我を愛する歌」より

平手もて
吹雪にぬれし顔を拭く
とも共産を主義とせりけり

「忘れがたき人人」より

短歌の世界では1首を1行でおさめるのが普通ですが、啄木はあえてリズムのよい箇所で改行をして3行で区切ったのですね。『一握の砂』以前の初期の習作は1行書きなので、啄木は歌人としての円熟に従ってこの形式を意識的に選択したことがわかります。面白いのは、改行をしている位置がいわゆる句切れだけではない上に、歌ごとに位置が異なることです。
例えば、掲出歌の1首目は 5・7 / 5 / 7・7 という改行になっていますが、2首目になると 5 / 7・5 / 7・7 という改行になります。おそらくリズムや意味上の切れを考慮しながら、1首ごとに改行する箇所を選んでいたのでしょう。こうした3行書きを用いた工夫によって、歌意がより伝わりやすくなり、実際に脳内で読む際のリズムが良くなり、そして視覚的にもまとまりがつくように私は思うのですが、あなたはどう思いますか。少なくとも、大多数の歌人とは異なる「啄木らしさ」を醸し出すことには成功している気がします。

そして歌で用いる言葉の選び方(これが肝心!)ですが、う~ん、これは他の歌人と比べて客観的に評価できるものなのかわかりません。だいたい『一握の砂』全体で551首もあり、それぞれの歌の傾向も違うので、全体として評価することは私の手に余りすぎます。ただ、歌全体で表現したい感情が明確なものについては、啄木は平易で違和感のない言葉を選んで、その感情を全力でわかりやすく伝えようとしているように思います。

具体例;過去と現在の対比

ここまで、『一握の砂』について総論的にあーだこーだ述べてきましたが、ここから、高3の初読時に私がいちばん魅力を感じた部分について具体的に書いて終わりにしようと思います。
それは、啄木が歌集の中で過去をある種の理想として捉え、現在をそれとは遠く離れた惨めな状態として描いていることでした。過去と現在の対比。
それは以下のような歌を読めば一目瞭然でしょう。

砂山の砂に腹這ひ
初恋の
痛みを遠くおもひ出づる日

「我を愛する歌」より

己が名をほのかに呼びて
涙せし
十四の春にかへる術なし

「煙」より

不来方のお城のあとの草に寝て
空に吸はれし
十五のこころ

「煙」より

殴らむといふに
殴れとつめよせし
昔の我のいとほしきかな

「忘れがたき人人」より

単純に、当時の私は「それなりに勉強していて趣味も充実していた1年前」と「なぜか勉強できず鬱々としている今」という自分の境遇をこれらの歌に投影していたのですね。もっとも、啄木の場合は「故郷」という概念が過去と結びつき、過去の理想化を補強する鍵になっているのですが、所詮は実家暮らしの高校生だった私にそれは理解できませんでした(今もそれほど実感できない)。
ともかく、歌集全体に通底する過去と現在の対比がものすごく心地よかったのは確かです。自分の今の心情・現状をこんなにもぴたりと表してくれる歌がこの世に存在して、しかもそれが明治時代に書かれたとは!という感動というか。それによって、惨めな現状をわずかでも肯定されたように感じて、自己嫌悪のループから抜け出せたのかもしれません。別にそれで現実が変わるという訳でもなく、私は順当に一浪したのですが、気に入った歌を頭の中で唱えることで受験期の精神状態は確実に良くなりました。その意味でも、この『一握の砂』という作品に出会えたことに感謝しています。

おわりに

最後にこの記事のタイトルについて。総論のところで書いたように、『一握の砂』の中には短歌という形式に様々な感情が埋め込まれています。
それはふるさとへの郷愁であったり、過去の自分への憧憬であったり、虚無感であったり、友人や妻への思慕であったりします。ネガティブな感情も多いですが、ポジティブな感情も(いくぶん控えめな形ではありますが)埋められています。あなたがどの感情に共感するかは、きっとあなた次第です。
ただ、私は上に書いてきたように、自分の先行きがどうなるのか全くわからない時期に啄木を読んで惹き込まれたので、このようなタイトルにしてみました。あなたが自分の現状に悩んでいて、将来に不安を感じているのなら、いちど啄木の歌を読んでみることをおすすめします。きっと盛大に共感できるはずです。共感しても現実は変わりませんが、何らかの形で現実に立ち向かうための力になってくれると思います。

また、歌に込められた普遍的な感情ばかりが啄木の短歌の魅力であるわけでもありません。ここまで引用しませんでしたが、『一握の砂』は後ろに行けば行くほど情景歌が増えてきます。

路端の切石の上に
みて
空を見上ぐる男ありたり

「我を愛する歌」より

手套てぶくろを脱ぐ手ふと休む
何やらむ
こころかすめし思ひ出のあり

「手套を脱ぐ時」より

銀行の窓の下なる
敷石の霜にこぼれし
青インクかな

「手套を脱ぐ時」より

このような情景歌も確実に一つの魅力でしょう。また、犬などの動物を詠んだ歌になんだか素朴で良い歌が多い気もしています。

路傍みちばたに犬ながながと欠伸しぬ
われも真似しぬ
うらやましさに

「我を愛する歌」より

我餓えてある日に
細き尾を振りて
餓えて我を見る犬のつらよし

「秋風のこころよさに」より

陳腐な言い方になりますが、『一握の砂』は本当に詠み手の数だけ魅力がある作品だと思っています。引用していない歌は膨大な数あるので、ぜひお気に入りの歌を見つけてみてください。

また、この記事では触れませんが、啄木の後期歌集(未完)である『悲しき玩具』も面白い作品です。歌の生活感が強くなり、家庭を持つ実感みたいなものがモチーフの一つになっていますが、その中にも『一握の砂』で頻出したようなペシミズムや自虐があって独特の世界を形作っています。表現形式についても、啄木は『一握の砂』で確立した3行書きをさらに進めていて、「———」や「。」、「!」などの記号が頻繁に出てくるため、なんだか短歌というより散文詩のような不思議な感覚を読んでいて覚えます。

長々と書いてきましたが、ここまで読んでくれたあなたが啄木の短歌に興味を持ってくれたら嬉しいです。本当にそれに尽きますね。
(全縁)

(木曜会会員の皆さんへ:noteを書くのが遅れてしまいすみません)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?