私の愛した数字
倍数と素数なんて、役に立たない。
だから愛せるようになった。
生活の中で倍数も素数も使わない。
1人で車に乗るときを除いては。
1人で車に乗る時に、よくするゲームがある。
(あくまで、安全第一で運転しております。)
ルールは簡単。
“ナンバープレーの数字ですっきりしろ”
数字を並べ替えてもいいし、多少、無理のある語呂合わせでも、友だちの誕生日でもいい。
すっきりしさえすれば、何でもあり。
例えば、今日見たやつだったら
24–67
この並びを入れ替えて
6×7=42すっきり。
それから、21–29
21+29=50
十の位は2で、足すと50になる組み合わせで、且つ、その中で一番小さい数と一番大きい数の組み合わせだあ。
すっきり。
いつもこんなふうに、上手いこといくわけじゃないし、考えているうちに前の車が、自分とは違う方向に曲がってしまうことも多々。
そんな無作為な数字との戦いで、限られた時間の中で、倍数や素数ですっきりすることがよくある。
32-14
まず、並べ替えたら1234!すっきり。
次に倍数の出番だ。
3の倍数の数字を4つ発見。
3,12,21,42
さらに素数は7つも。
1,2,3,13、23,31,41
出会ったときから、そして今に至るまで、倍数や素数が分かるからって役に立たないと思っていたが、やっぱり役に立たない。
誰の役にも立てないし、こんなこと分からなくたって誰の迷惑にもならない。
でも、だから、私は倍数や素数を面白いやつだと思える。
もし、倍数や素数が、生活していく上で、とても必要で、なくてはならないものなら、煩わしくって、面倒くさくって仕方なかっただろうに。
確実に役に立つことよりも、無駄なことの方が、人は愛していられるのかもしれない。
役に立たないであろう、新しいこと。
歳を取るにつれて、経験にものを言わせ、役に立たないだろうと思われるものを切り捨ててしまいがち。
仕事に対しても、趣味に対しても、人に対しても、自分に対しても。
特に人間に対して、利便性ばかり求めるのは、もったいのかも。
愛するチャンスを手放しているのかも。
もちろん、利便性や有用性を優先させるべきときはあるんだろうけどさ。
無駄なことを知ることで、自分の中で、その人の存在は広がっていくのだと思う。
その人は犬派なのか猫派なのか、その人は何のシャンプーを使っているのか、コーヒーには砂糖・ミルクを入れるのか。
そうさ、どうでもいい。
だけれど、知ることで、その人への愛は深まる。
理由もなく、その人のことを、それも無駄なことまで、知りたいと思うのは、どこまでも愛していたいよ、という恋の始まりなのかもね。
自分にとって意味があると思われることには目がくらむ。
それに比べれば、無駄だと思われることは何だか劣って目に映る。
そんなときにも、“愛していられるのは?”という目でものを見られる余裕をもっていたいねえ。
私が愛したのは、役立たずの倍数と素数。