作文
書き出しは、こんな感じだったと思う。
全校生徒の前で、読まされたし覚えている。
「あなたは、死にたいと思ったことがありますか。私はあります。」
中学生のとき、書かされた人権作文というものだ。
その作文が校内選考の結果、全校の前で読まされることになったのだ。
題名は、『自分の人権』。
作文を要約すると、何より1番身近な、自分の人権を大切にしましょう、ということだったと記憶している。
死にたいなんて思わずに、自分の人権を大切に、って。
作文は、先生からそれなりの評価をされたから選ばれたんだと思う。
「死にたいなんて、思わずに」という考えが評価されたんだ。
「死にたいなんて、思わずに」生きていくことは、きれいな考えで、正しいから、それをみんなの前で発表。
死にたいという思いを、人の前で発表するのは、悪いことじゃないと思うと同時に、一方で、読むたび、孤独が増したのを覚えている。
今なら、どうしてか分かる気がする。
誰も、死にたいと思っていいとは、言わなかった。
どちらかというと、やんわりと、「大切な存在なんだから死にたいなんて思わないで」というような言葉をかけてもらった。
皮肉にも、あの作文を書いた私は、その後、死にたい思いと共に生きている。
今、私が人権作文を書くなら、なんと書くのだろう。
少なくとも、「死にたいなんて、思わずに」という言葉は使わない。
死にたい気持ちと生きている私は、人権を粗末にしているとは思わないから。
人権を、人が、人らしく生きる権利だとしよう。
死にたいと思うことは、人らしいと思う。
人以外の生き物は、死にたいとは思わないだろう。
そうであれば、死にたい感情を抱かず、無いものとして、生きていこうとすることが、人らしいと言えるのだろうか。
人権を大切にすることなのだろうか。
死にたいという感情を背負い、一緒に生きている方が、よっぽど人間らしくはないか。
私は、あの作文で、死にたいと思うことがあると冒頭で述べ、締めくくりに、死にたいと思うことを否定した。
自分で、自分の首を絞めあげた。
自分の人権を無視していたのは、『自分の人権』を書いた、他ならぬ私自身だった。
それに気づけた私は、当時の私よりも、自分の人権を大切にできていると思いたい。
人が人らしく生きる権利を盾に、明るく快活に陰りなく生きることを強いるのではなく、その権利が、暗闇の広がる夜空に、人の醜さ、弱さ、陰りを、人間らしいと言って、光らせるものであってほしい。
私に書かせ、発信させるのは、あの作文なのかもしれない。
自分の首にかけてしまった手を、緩めるために。