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どこまで許されるのか

“自分のため” というのは、どこまで許容されるのだろう。

私は、いつでも “自分のため”に生きているみたいなんだけどね、これはどこまで許されるんだろう。

基本的人権は、公共の福祉に反しない限りという制限の中で、尊重されると理解している。
自分には基本的人権があるからといって、他の誰かに構わず、好き放題していいわけじゃないってことだろう。

そういう制限は必要だろう。
けれど、その枠よりも、もっと狭い枠にはめ込まれ、その中で、みんなのために、個人が我慢することを善とする傾向があると思う。
 “自分のため” を美しくないとするやつだな。

昔よりは、ましなんだと思う。
「なんで、誰かのために自分が我慢しなくちゃいけないんだ」と気付き、勇気をもって「自分のため」をできて、言える人が、芋づる式に増えてきたと思う。

「♯Me Too」運動だって、様々な圧力や、世間体よりも、自分のために、自分たちのために声を上げた人々の連鎖によるものだと思う。

自分がどんな人を好きになるのか、好きにならないのか、自分の性(ジェンダー)をどんなものだと感じるのか、
ということについて、少数派だと感じながらも、公言できたり、自分の内や外に表現できたりする風潮ができたのも、世間からの偏見や固定概念に惑わされずに、自分のために、自分の感じ方を大切にする人たちの存在を、知りやすく、そして、その後に続きやすくなってきたからだと思う。

公共の福祉という範囲内に、より小さく設けられた圧力、世間体、社会の目、偏見、常識、普通、固定概念という枠。
そこから、はみ出さないことが美徳だとする人が一定数いるのではないだろうか。

被害者が黙っていれば、掘り返されることはないのだから「♯Me Too」運動をするのはおかしいとか、男と女とが結婚して、子どもをつくるもんだ、とか主張する人。

でも、公共の福祉の範囲内で、“自分のため” にできることを否定されるなんて、生きることを否定されているように思う。
枠の中で、磔(はりつけ)の刑。
小さく殺される。

そういうことを許したくないと思うし、狭く縛られた枠から逃げ出そうと声を上げる、賢明な人の存在を知ることができ、身近に感じられる時代で良かったと思う。

そんな私は、生産性がないとか、我慢が足らないとか、和の心を捨てたとか、なんとか言われるのかもしれない。

それでもいいと思える。
生産性があって、お互いに我慢して、和の心を備えて、
誰かの “自分のため” を生け捕りにして、継続し続けるシステムなんて、生きてないと思うから。

誰の人権も傷つけない公共の福祉を遵守する “自分のため” によって、破綻する組織や、社会、人類なら、もう仕方ないと思う。
滅びてくれ。

毒づいてしまったが、そんな組織や社会に縋(すが)り、お互いの命綱を握り合って、牽制(けんせい)し合い、自分の立ち位置を必死に守ることで生きている人に言いたいんだ。

そんな苦しい場所を捨てて、 “自分のため” に生きてみないか、と。

もう仕方ないよ。

“自分のため” に生きてたいよ。
どこまで許されるのかな。

“自分のため” に。
生きた世界をつくっていこうよ。

もう、許されようなんて、さらさら思っていないのかもね。


#雑記