白状する

いつだって居場所が欲しかった。自分のために。

最近まで、誰かのためだと思っていた。
思い込んでいた。

部活動に明け暮れていた日々。
夏休みの練習。誰よりも早く体育館へ行き、窓を開け、夜のうちに死んでしまった夏の虫を掃除した。

みんなが気持ちよく練習できるように。
みんなのためにって思い込んでいた。
今、思い返せば、紛れもなく自分のためだと思う。

誰もやりたがらない仕事をすることは、自分にしかできないことだと思える。自分がそこにいてもいいと思える。
それは私にとって居場所だと感じられた。

だから誰かに見てもらって褒めてもらいたいような気はしていたけれど、この仕事を取られないように、誰にも見つからず遂行していた。
みんなですれば、きっと楽な仕事だったんだけど。

自分のために、自分の居場所を失わないために隠し通した。

大学生のとき、私は車を持っていた。
不便な立地で、駅からは遠い。

車を持っている私は、足として重宝された。
というより、足になることを買って出ていた。

誰かのためになることをしたいって思い込んでいた。
そんな気持ちは、実は二の次だった。
自分が必要とされる居場所が欲しかったんだ。
結局は自分のため。

人がみんな幸せであってほしい。
そんなふうに感じた、カンボジアでの一週間。

その気持ちは嘘ではないと思うんだけど、根っこにあるのは、自分のためという気持ちだろう。

自分が幸せだと感じる瞬間を思い浮かべてみると分かる。
まわりにいる人たちの不幸せな表情など1つも浮かんでこない。

言い方は悪いけれど、他人の不幸せは、自分の幸せを邪魔する。
自分が幸せなら、なんの後ろめたさもなく幸せを感じていいとは分かっているんだけどね。

地球上の誰もが幸せという前提で、自分も幸せを感じられるなら、そりゃもう幸せだろうと思うんだ。

人の役に立ちたいと思って、進路選択、就職をした。

働いて充実感を得たとき、気付いてしまった。
私は、人の役に立つことで、自分の居場所を手に入れたかったんだと。

でも、悪いことじゃないと思うんだ。思いたいんだ。

私が全力で自分の居場所を作っていくことは、誰かの居場所を作っていくことにもなると思うから。

このnoteだって、自分の居場所の確保に他ならないんだろうけど、自分がここに居場所を求めれば求めるほど、それは誰かの居場所のようなところへ近づけるんじゃないかなと思う。
誰かの居場所になれるから、自分の居場所になるのかな。
まあ、どっちが先でもいいか。

私は結局、自分のために一生懸命になっている。

自分のためでしか、他人のためを思えないのかあ。
何だか悔しい気もするけれど、それが本当なら、潔く、自分のために私は頑張るんです、って開き直るのも悪くなさそうだ。
認めることで、誰かの幸せを全力で願えるなら気持ちがいいかもしれない。

自分のために、世界平和を願う。

かっこ悪いけど、何よりも、まず誰かのために、とは思えないようだ。

不格好でもいいや。
自分のためだろうと、誰のためだろうと、思っていることは正義の味方と同じ。

ただ正義の味方は、自分の正義が絶対だと履き違えてはいけない。
自分の正義は、誰かにとっては残虐な悪である可能性を忘れてはいけない。
自分の正義は間違いないと押し付けるほど、皮肉にも、誰かを救いようのない暗闇に追いやるのかもしれない。

はあ、苦しい。
世界平和がいいと言いながら、正義は悪であるだって。

考えがぐしゃぐしゃしてきたので、終わりにしよう。

今日も自分の居場所を見据えるために、
誰かの喜ぶ顔が見たくて、
誰かの一生懸命を応援したくて、
誰かの幸せを願っている。

全部、自分のためだ。
白状する。


#雑記