見出し画像

自分に愛が注げなくて、雪ふりつむ。

相変わらず孤独の三日月が心を照らしている。

ごきげんよう、もくれんです。

幸せと不幸せは、目標でもなければ、連続もせず、一瞬一瞬変化するし環境にも大いに影響を受けると知ったので、きっと1分後は笑ってるかもしれない。今日は営業メールの宛先が「もくれん様へ」ではなく「もくれんへ」で来て、その後しばらくしてからお詫びメールが届いていたのを夜気づいて笑ったし、その後、会社で飲み会の話をしているのを聞いて羨ましいなと思って寂しく思った。忙しい。ずっとずっと後回しにしていたメールを送りゃいいだけの話をやっとメールを送って、私の中では本当に偉かったけど傘は忘れて帰った。なんなら最近入社した後輩に「このビルは21時すぎたら、でたらもう入れないからね。忘れ物とか気をつけてね。」と注意した直後に忘れた。オフィスの出入り口のドアしまったあとの絶望たるや。しかも明日は雪。後輩に開けてもらうのは恥ずかしすぎるし、お気に入りの傘を置いて帰るのは忍びないけど家のビニ傘を使おうと思ってすごすご帰った。落ち込みすぎて、電車は乗り過ごした。ビニ傘で見上げる空は久しぶりだから、明日は新しい発見と景色が見られると自分を鼓舞しながら、心のなかで泣いている。

人のことは一生懸命愛せるし癒やしたいと思うし救いたいくらいの気持ちがあるのに、自分にそのパワーを発揮できない。渇いた私が人を潤そうとしているなんて、嗤える。逆になんで人は愛せるんだろうな。愛するというか助けたいと思う気持ちはどこから生まれてくるんだろう。義務感ではなく、助けたいと思うんだよな、心から。と、ここまで書いて最寄駅で珍しくホームレスさんがいたのを横目に今日帰ってきたのを思い出した。私が住んでるエリアでは本当に珍しいことなのだが、改札の外の柱のそばで横たわってフルグラを食べていた。フルグラ食べてるな、裸足だな、と思ったが、傘忘れて帰ったから小雨の最寄駅から足早に家に帰った。ほんで、これを書きながら「人を救いたい」と書いてるくせに、今日ホームレスさんを見過ごして帰ったことを思い出した。渋谷や新宿などにいるホームレスさんはサバイブしているホームレスさんな気がするが、最寄駅のはぐれホームレスさんはどこからきたかわからない謎ホームレスさんである。フルグラ食べてて裸足だったので現代の涅槃図のようだなと思わんでもないが、明日はみぞれである。本当に仏になったら相当夢見が悪い。「凍死 何度から」で調べてみたら意外に11℃から死ぬ可能性があるらしい。帰宅直後の私んち10℃だったな。屋内と屋外の11℃は意味が違うんだろうし、どうしよう、と思った。通報する、が一番最初に思いついたこと。私はかれこれ今の街に数年は住んでいるのだが、これまでに少なくとも3回は近くの警察に電話したことがある。認知症のおばあちゃんが道でひっくり返ってきたとき、ガス会社を名乗る怪しい訪問があったとき、あともう一回も訪問販売だったかな。今回も通報するか。でも通報してどうなるんだろう。むしろ駅構内から追い出されるんだろうか。そんな。高校時代の現国で習った、安部公房の「赤い繭」が思い出される。ある男が自分の居場所がわからなくなってしまって、自分の居場所を訪ね歩き、ちっとも見つからず疲れて公園かどっかで休んでたら、おまわりさんに「ここはお前の場所ではない。公共の場所だ。」と言って追い出され、最後は赤い繭になってしまう話。赤い繭になったことで子どもに拾ってもらって子どものお道具箱かどっかに居場所が見つかるのだが、赤い繭になったことで男自身がいなくなってしまう、そんな寓話。私は鬱で休職しているとき、この赤い繭状態だった。どこに行っても私の場所はなくて社会に席がなくてどうしたらよいか宙ぶらりんな気持ちになった。そんなわけで、時々赤い繭を思い出す。あのホームレスさん、通報したら赤い繭になってしまうかもしれない。かといって、このままほっとくと白い遺体になってしまうかもしれない。困った。しかも、私は「人を救いたいという気持ちが溢れ出てくる」なんてクサいセリフを書いてしまったばかりだ。このまま温い布団で寝るわけにはいかなくなってしまった。さてどうするか。

結局、私は貼るカイロを持って、もう一度駅に行った。最近買ったスリーコインズのゴミ捨てに行くときのサンダルをあげたほうがよっぽど便利なのは知っていたが、サンダルは惜しかった。買ったばっかりだし。貼るカイロを持って「もういっそ動いてて、いなくなっててくれないかな。」と思いながら駅の柱をそっと覗いたら、ホームレスさんはいた。寝ていた。裸足の足にも布をかけて目深に帽子を被ってぐぅぐぅ寝ていた。寝てる…と思った。ますます凍死の可能性が…でも起こすの?寝てるのに?ここで寝ると凍死しますよ、って???家に連れ帰る度胸もないのに??ジャン・バルジャンを受け入れた神父さまはほんとすごいな。ちなみにわざわざホームレスさんを見に行ったことで気づいたが、ほとんどの人がホームレスさんをチラ見して通り過ぎていく。気づいていて、傍観者として去っていく。教育学科で「いじめは加害者・被害者・傍観者がいます。傍観者が傍観していることでいじめが成立します。」と習ったのを思い出す。彼をホームレスたらしめているのは私含めた社会なんだなと思った。ぐぅぐぅ寝ているおじさんの手元に貼るカイロを滑り込ませて帰った。帰りながら、カイロ貼らなかったら凍死の危険性は1ミリも減ってないなと思った。自己満じゃん。

一方で、おじさんに貼るカイロを持っていけたのは、私はおばさんになったからだなと思った。もっともっと前の、就活中に、駅で切符を買おうとしていたらホームレスさんと思しき男の人に声をかけられたことがある。「100円貸してくれませんか?」という内容だった。びっくりして怖くて「小銭の手持ちがないんです。」と怯えながら答えて、足早に改札を抜けて電車に乗った。電車に乗ってから「あ、あれは神様だったかもしれない。」と気づいた。学生時代、キリスト教教育に浸かっている私は「貧しいものにしたことは神様にしたことと同じである」という聖句を覚えており「わっ!千載一遇の貧しいものに出会ったのに足蹴にしてしまった!!!!」と大変なショックを受けた。それは貧しいものに施さなかったことへの後悔よりも「これで天国行きの切符は失ったわ。電車の切符買ってる場合じゃなかった。」という自己中極まりない後悔であったのだが、天国に行けるかどうかは別にして、あの時困っていた彼を助けなかったことは私の心に大きな杭となって刺さった。あの日から、ホームレスさんを見ると何かする勇気はないくせに、あの時の罪悪感がほんのり脳裏をちらつく。でも当時の私は若い女だったので、普通に怖かったのだ。今やおばさんになったので性被害対象者にはならないだろうという気持ちもあり、貼るカイロを渡そうと思えたのだと思う。性被害対象者にならないだろうと高をくくっていたのに、去年痴漢に遭って泣いたけど。

貼るカイロとホームレスさんのことが気になる。明日の朝生きていてほしい。
何の話を書きたかったんだったかな。ホームレスさんのことで忘れてしまった。タイトルは一番最初に書いたのだけど、羊頭狗肉にならず中身はあってるのではなかろうか。

明日は早起きして散歩に行こう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?