見出し画像

何を努力と呼ぶのか。

いきなりの夏日なのに桜は少ししか咲いてなくてパラレルワールドの東京。

ごきげんよう、もくれんです。

挑戦はたくさんしてきた私だけれど、本当に得たかったものや得られると期待していたものは得られなくて、副産物的なものばかり得てきた人生だなと思っている。なぜなら努力しないから。
陸上部に入っても大してタイムは伸びなかったし吹奏楽部に入っても大して努力しないから全然吹けるようにならないし英語ディベートをやってたわりに論理力も英語力も中途半端。毎日コツコツやりきることができない私は、挑戦しても「モノにする」ところまで努力ができないので何もかもがハンパもんである。
ただ、挑戦をすると絶対に何か得られるものはあって、陸上部に入ったことで基本の走り方のフォームはなんとなくわかってるので大人になったら今も手の振り方や足の出し方を考えながら駅まで走ってるし(遅刻しそうだから)、吹奏楽部にいたことで音楽に全く興味なかったけど音楽を聴く楽しみを知ったし今も交流のある友人ができた(友人たちはポンコツ部員の私とも今も会ってくれるなんで本当にいい人たちである)。英語ディベートに触れたことで、英語への苦手意識はないしぼちぼち議論はできるしロジック偏重主義が嫌われることを知っている。
また挑戦すると付随してコミュニティが広がるので、知り合いが多くなった。(向こうが私を友人と思ってるかわからないのでこの書き方になるけど。)私はあんまり物怖じしないので、薄い繋がりの知人でも2人で遊ぼうと誘うことができる。そういえば昔は「私ばっか誘ってて誘われないんだよね」と卑屈になっていたが「誘って、来てくれるということは向こうも会いたいんだろうからそれでいいんじゃない?」と知人に言われてからは、もうそれでいいかなと思うようになった。
学生時代は「私のようなおかしな人間を受け入れてくれる人だけ友だちでいてくれたらそれでいい」などと傲慢なことを思っていたが、そのまま社会に放り出されたら思った以上に世間は私を受け入れがたかったようで、ありのままの私じゃダメなんだなと痛感した。あと大人になると狭く深い関係性を築くのは難しいので、薄く広く繋がる方がポートフォリオとして組みやすい。私のように独身で生きていく人間は、薄く広く繋がっているって大事だなと思う。家族みたいな濃くて近くて深い関係がないので、数年ぶりに会ってお互いの近況(しかもいつも会ってる人間関係では話せない)を話せるつながりの知人枠として、私は社会の中で生きている。人とのつながりというものは、時に相入れないと思ったとしても切らないことが肝要だ。20年後はまたマブダチになってるかもしれないんだから。

あいかわらず本題に入るまでが長いな。
昨日グロービスの3ヶ月間の講座が終わった。重い身体を背負って苦しい気持ちの3ヶ月だったのだが、やっぱり挑戦したことは良かったなと思う。例によって努力すれば10のスキルが得られるところ、2くらいしか得られない努力しかしてないので、目標が「できること」だったら、私は「できないことがよくわかった」止まりで終わった。途中休んだし勉強も放棄してた。noteにも書いたが、グロービスに通うことで知らない世界の人と混ざり合ってカルチャーギャップを感じてストレスだっし意識高い人の中に意識低い私が混ざってる感が辛かった。辛かったけど、出会った人たちがみんないい人たちだったので色々相談にのってもらったり相談にのったりする関係性を作れたのは良かったなと思う。努力ができる人たちの前で同じ生徒を名乗ることが恥ずかしい気持ちがあったし、今もある。メンターさんが「元々能力高い人が努力して到達できるところに自分はいけないし自分は敵わない。でも自分自身の成長曲線の角度は優秀な人たちより急角度だと思ってるから、それで僕はいいんだ。」という話をしていた。私は能力も努力の量も成長曲線も誰にも敵わないのだが??

その一方で、曲がりなりにも挑戦する前の私よりは努力はしたわけで、少しは進歩したのだと思う。挑戦しない人もいる中で、挑戦したこと。他人と比べて卑屈になると不健康で良いことがなんもないと気づいた。私にしては頑張った、を積み上げていけば、私がどんどんバージョンアップしていくので私1.0ver.の努力と私1.56ver.の努力はちょっとずつ変わっていくんじゃないかな。それは努力できる人が同じ期間に1.0ver.から5.0ver.に変わることと比べても仕方ない。

そんなわけでこの3ヶ月の私は大変努力したと、自分で認定することにした。今の私は1.02ver.なのでこれからの私が楽しみだね。辛い気持ち先行で自分を責めるのをやめて、不器用な私が日々生きていることのまばゆさを寿いで生きていきたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?