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【小説】 紅銀(ルビー・シルバー)

 小説を書いてみました。
 以前からどんな形で公開するか悩んでいましたが、Noteに掲載してみることにしました。読んでいただければ幸いです。
 
 話は、高橋是清が明治時代に実際に関わったペルー銀山事件を元にしています。これは日本発の本格的海外投資ですが、開発投資は失敗に終わります。この時の関係者はそれぞれの道を歩み、是清はご存じのように銀行家として日銀総裁、そして総理大臣にまで昇りつめます。投資家の一人である三浦梧楼は、朝鮮全権特命大使として朝鮮半島に渡り、そこで閔妃事件を起こします。
 関係者の一人で、この開発投資失敗の原因とされた田島晴雄は、新橋の烏森で元芸者と結婚し、高級旅館を成功させますが、この高級旅館は、数々の政治の裏舞台にもなりました。この小説は以上のような事実をベースにしていますが、ストーリー展開自体は創作です。
 なお、小説なので、参考の文献を記してはいませんが、ペルー銀山事件の概要は、五味篤著・馬場勉編「銀嶺のアンデス -高橋是清のペルー銀山投資の足跡 La Primera inversión japonesa en el Perú 1889」(アンドレス・デル・カスティージョ協会(2014))の多くの部分を参考にさせていただいています。事件についてかなり詳細に記した貴重な資料ですので、ご興味のある方は、こちらをお読みになる事を推奨します。
 小説は前後半で分かれております。当初、今回、このNoteに掲載するのは前半だけとするつもりでしたが、Noteで全文掲載していこうと考えています。なお、他の小説投稿サイトにもペンネーム「RubySilver」の名前で同内容を投稿しております。

前半‐秘銀

「彼の運命は何と過酷なものか。彼はその責めを負うべきではなかった!この奇妙な世の中には宿命がある。そのせいで、人はしばしば、不当な悲運に見舞われる。」
ジョン・ヒューム「ダグラス」

ある葬儀

 人が一人死んでいくたびに、歴史は少しずつおぼろげになって行く。ちょうどジグゾーパズルのピースが一つ抜ける毎に、元の絵が何であるかわからなくなって行くように。
 朧化ろうかの過程で、歴史というものは、残った者の都合が良いように書き換えられる。公的な記録でさえ、しばしば正確では無いし、嘘も混じる。だから、後世の人間が歴史を公平に評価するためにも、死にゆく人間の側にいる者は、共感をもって、話を聞いて書き留めておかなくてはならない。その人間と対立した側の記録だけが残されたりしないように。
 
「息子は、高橋是清に虚妄の報告書を書かせられたんです。」
 その言葉はずっと僕の耳に残っていた。僕はそう聞いたのだ。後に義父となる田島晴雄という男の死を前にして、僕はその義父の話を直接、ちゃんと聞いておかなかったことを悔やんだ。
 知っていたのは、秘露ペルーの銀山に義父と高橋是清が挑んでいたこと、その事業は失敗したこと、そして真実はどうあれ、義父は投獄され、逆に高橋是清は総理大臣にまで上り詰めたことくらいである。
 田島晴雄の葬儀は、田島の家の菩提寺である麻布の寺で行われた。マサ、かつてはお吟と呼ばれていて、後に僕の義母となる女性は、さすがに花柳界に居たことがわかるような華やかさは影を潜めていたものの、びんをこじんまりさせ、低めの島田を結った髪で、気丈に振る舞っていた。晴雄と二人で経営していた旅館吾妻屋の建物は、自宅でもあったが、震災の後、まだ完全には再建されていない。恒雄には聞きたいことは山ほどあったが、その時には家族では無かった彼が聞ける状況では無かった。
 葬儀は密葬に近い形で執り行われ、親族以外は幾人かの親しい人間だけしか参加していないはずだったが、吾妻屋という高級旅館の主人の葬儀らしく、何人かの政治家や小山内薫おさないかおるらの文人達や演劇人と思われる者たちも参列していた。
 不思議なことに、こうした一流人士に寄り添うように、だらしなく髭を伸ばし、品もあまりよい感じでは無い者達、任侠のような者達が何人か混じっていた。それらの者をマサがはっきりと睨みつけたのを僕は見た。僕にはあの連中がここにいる理由もマサが毛嫌いしている理由もわからなかった。
 僕は、マサから義父の事件の話を聞いておきたいと思ったが、この日は到底無理だと思われた。しかし、マサが葬儀の参列者との間で故人の昔話に花を咲かせていた時、秘露の事件の話が出ていた。僕はそこですかさず口を挟んだ。そして自分も事件について一度詳しく聞いておきたいとマサに伝えた。マサは案外気軽な様子で、初七日の法要の時にでも話をすると言ってくれた。僕はそれを待つこととして、自分の記憶を辿ってみた。
考えてみれば、運命とは数奇なものである。義父や高橋是清がその事件を起こさなければ、僕は医者になることも無かった。僕の家族は今も赤貧洗うままだったかもしれない。事件は、僕と家族の運命をも変えてしまったのだ。だからこそ、僕には事件を聞いておく義務があると感じていた。
「うちの息子は高橋是清に虚妄の報告書を書かされたんです。」
 僕がこの言葉を最初に聞いたのは幼少の頃、今から三十年ほど前の事であり、それは晴雄の父からだった。
 
 麻布区と芝区の間あたりを古川という川が流れているが、その古川にかかる赤羽橋と一の橋の間にある中の橋を渡り、三田綱町の小高い丘へと日向坂を上っていくと、道の途中に神社がある。三田小山の鎮守の森と呼ばれていたが、実の父が宮司をしていて、僕はそこに住んでいた。当時そのあたりは、武家屋敷跡などが空き地になっていたこともあり、寂れた感を漂わせていた。
 渋柿が赤い実をつけていた季節のある日、境内の木の下で、尋常小学校の四年生だった恒雄が枯れ葉を木の小枝でいじくり回していたところ、柿木の向こうの階段を上ってくる上品な身なりの、初老の夫婦が見えた。初老の夫婦は、賽銭箱の前で立ち止まり、幾許いくばくかの小銭を入れると、柏手は打たずに手を合わせて一心不乱に祈った。その祈りの時間が余りに長く、僕にはそれは三十分くらいに感じられた。
 老夫婦は祈りが終わると、来た階段の方に向き直ってから、再び体を祠の方に向き直し、頭を下げ、そして今度こそ帰り道の階段をゆっくりと降りて、僕の視界から消えて行った。
 その老夫婦は、次の日も、そのまた次の日もこの神社にやって来ては祈り続けた。何を熱心に祈っているのだろう。僕は不思議に思っていたが、この老夫婦が社に来るようになってから二週間くらいたった時だっただろうか、老夫婦の方が僕に話しかけてきた。
「君はここの家の子ですか?」
「はい。宮司は僕の父です。」
「そう、小川の家のご子息ですか。さすがしっかりなさっている。君の御父上の事はよく存じ上げていますよ。」
 僕はやや警戒しつつ、なぜ父の事をこの老夫婦は知っているのか、この2週間、毎日やって来ては、何を長く祈っているのか、興味がわいたので思い切って聞くことにした。
「あの...お二人はなぜ、毎日来てお参りを続けていらっしゃるのでしょうか?何を願掛けされているのですか?」
 老夫婦のうち、白髪交じりで丸眼鏡をした、しかし品の良さを感じさせる六十歳くらいの男性は、ほんの少し、顔をこわばらせながら、ゆっくりと話しを始めた。
「私たちは田島といいます。」
 その名前に、僕は特に聞き覚えは無かった。
「実は、祈っているのは、息子の為なのです。」老夫婦は、目をそらし、境内に登る階段の方を虚ろな感じで見つめた。僕は、このような時に畳みかけて尋ねるのは子供心にしてはならないことのように感じたため、黙っていた。すると、男性が再び、口を開いた。
「息子は、今、濡れ衣を着せられて、監獄に入っています。一刻も早く、そこを出られるように、息子のために祈っているんです...」
 僕は確かにこう聞いたのだった。
 
 結局、マサから話を聞けたのは、晴雄の三回忌の時だった。その時には、マサはもう、僕の義母となっていた。麻布台での法要の後、僕は義母に吾妻屋に寄ることを伝えた。
 義父と高橋是清達が起こした秘露ペルー銀山事件について少しは知識があったと言っても、僕は当時の状況を全く知らなかった。事件はもうあまり語られることは無くなっていたので、知識としては、そういう事件があったという程度である。
 義父と是清たちは、秘露ペルーの銀山への投資話に乗っかり、理学士で鉱山技師である義父が秘露ペルーに調査に行ったが、現地の山師の話にすっかり騙され、懐に幾許いくばくかの金をつかまされて、義父は銀山が有望なる報告書を書いた。何人もの日本の事業家たちが集まって会社を起こし、資金を用意して鉱山の権利を買ったところ、それはほとんど掘りつくされた廃鉱であったため、義父は詐欺師として訴えられ、実際に三年ほど服役したという話だ。
「そうねえ、山の事をちゃんと調べなかったのはうちの人の落ち度だったのかもしれないけど、詐欺師呼ばわりはちょっとひどいわね。」マサがいきなり本題に入ったので僕も話に喰らいついた。
「そこなんです、お義母さん。僕は、お義父さんが是清さんに無理に報告書を書かされたという話を聞いたことがありますが、でも世間では、お義父さんがインチキな秘露ペルーの銀山の話を持ち出して、優良な鉱山であるという虚妄の報告書を書いた。是清さんたちを集めて資金を出させ、そして自分はその現地の山師から金を受け取った極悪非道の詐欺師ということになっています。」
 マサはかすかにため息をつくと、少し目をそらしながら、すぐにまた目線を戻した。あまり話をしたくなかったからなのかも知れないが、声を荒げるというほどでもなく、少しだけ強い口調で答えた。
「少なくとも、うちの人が誘い込んだんじゃなかった。あたしも良く知っている。だって、うちの人が秘露ペルーに行く前に、つまり報告書を書く前に、是清さんも参加した会合で銀山のことを話していたんだもの。私が芸妓として呼ばれていったお座敷に、うちの人の他に是清さんもその他の人もすでにそこにいたわ。みんな知ってのことだった。」
 高橋是清は、世間で信じられているように、銀山投資に後から担ぎ出され、そして騙されたというのではなかったという事、それだけでも十分衝撃的だ。義母はここからさらに重い口を開き始めた。
「晴雄さんとは、明治二十一年(1988年)の夏の終わりごろだったかしら、涼しかった記憶があるけど、まだ蝉は泣いていたわね。そのくらいの頃、結構早い時間に烏森からすもりの胡月という料亭のお座敷に呼ばれた時が初めて会った時だった...」
 マサが記憶をたどりながら語りだしたのだ。

儚い紅

 その頃、あたしはお吟という名の、吾妻屋という芸者屋お抱えの半玉はんぎょく、いわゆる雛妓おしゃくだった。十八の時で、髪も本格的な島田は結わず、いわゆる桃割れの、背中を膨らませないで結んだ帯に裾を端折った格好の娘で、子供のように見えたかも知れない。吾妻屋というのは、烏森からすもりにあった小ぢんまりとした芸者屋で、四、五人くらいの芸妓を抱えていた。
 その頃の烏森からすもりは新橋南地とも呼ばれ、すでに東京で一流の地位を占め始めていた新橋北地と合わせて一大花柳界を形成する一角だった。潮の匂いが烏森からすもり一帯に漂っていた夏のある日、あたしは、いつものようにうすい灰色に紅の入ったおめし縮緬ちりめんの振袖で、髪は桃割れに結って、二人のお姐さんと一緒にお座敷に上がった。この頃は、座敷にあがるのは多くても芸妓三人くらいだった。
「三浦さんたちも、この娘はお初でしたね。吾妻屋から来た雛妓おしゃくのお吟という娘です。以後ご贔屓のほどを。」
 箱持ちからそう紹介されると声がかかった。
「なんと銀とな。これはまた、こちらが銀の話をしているところ、なんという縁起の良い娘じゃ。」
 そう言ってくださったのは、元陸軍大佐の三浦梧楼さんだった。もちろん、その時は誰だかわからず、後で名前を教えてもらったのだけど、その頃は山縣有朋候にタテをついて干されていた時期らしかった。三浦さんは、軍人さんにしては上背は高くなかったけど、細面で眼光鋭く、怖い人かと思った。でも、あたしたちには優しかった。
 その時のその席に居た人の全員は覚えていない。たぶん、十人くらいはいたようだった。確かにお座敷に居たと覚えているのは、三浦さん、高橋是清さん、その是清さんの友人の城山静一せいいちさん、秘露ペルーから今回の話を持ち込んできた井上賢吉けんきちさん、あとは、三浦さんが熊本に居た時のつながりの元熊本藩士の人や、山梨の財界の人、第一高等中学校で校長されていた紫溟会しめいかい(筆者注:右翼的団体で後の熊本国権党)の古庄嘉門ふるしょうかもんさんと、そんなところだったかしら。あと数名はいたはずだけれども...
 是清さんは当時から今とそれほど変わらないあの風貌ですぐに顔を覚えたけど、他の何人かの人たちは今はもう顔も覚えてはいない。
「お吟さんは、そうとうな別嬪じゃのお。」
「綺麗な紅の着物がよう似合っとる。」
 みなさんに褒めていただいたけど、その席では初めて会う人たちばかりだったから、あたしはすごくはにかんだ。はにかみながらすり足で座敷の奥へ進んだ。
「歳はいくつになるかね。」
「十八にございます。」
 是清さんにお酌をしながら答えたのを覚えている。是清さんは丸顔であごひげを蓄えていたので、実際の年齢よりも老けて見えた。
 十八というとそろそろ雛妓おしゃくから水揚げされて、芸妓として一本立ちしていておかしくない年頃だったんだけど、あたしはこの世界に少し遅れて入ったので、水揚げはまだ話も出てなかった。
「ほお、吾妻屋と言えば別嬪ぞろいだが、失礼ながらお主のことは知らなんだ。」
「実は、吾妻屋の女将に請われて数年前に養女になり、芸の方を仕込んでいただきました。まだまだ未熟者にございますが、ご贔屓お願いします。」
 矍鑠かくしゃくとしていながら、気軽に話しかけてくださる紳士たちが多かった中で、うちの人、晴雄さんは私には話しかけずに秘露ペルーから来ていた井上賢吉さんの話を熱心に聞いていた。晴雄さんは、その会合の中で一番若かった。
 丸眼鏡をかけてどこか影があり、理学士と言うことだったけど、文学青年っぽい影を感じる人だった。一つ一つ、ゆっくりと言葉を選んで話をしていたのをよく覚えている。
 あたしは、一目惚れというほどではないけれども、他の殿方とは違う影の部分に、正直、かなり気を取られたのを今のことのように覚えている。
「いやなに、さっきも言ったが、ちょうど銀の話をしておったところじゃ。濃紅銀鉱ルビーシルバーと言って紅色に包まれた銀じゃ。ちょうど紅色の、そう、お主の着物とよう似た色じゃ。城山君、この娘に石を見せてやってくれ。」
 城山さんと是清さんは無二の親友のように仲が良くて、後で聞いたのだけど、是清さんが最初のアメリカ行きの帰りの船で一緒になって以来の仲ということらしかった。その城山さんと井上さんも元々知り合いらしく、その関係で話が持ちこまれたということで、奇遇な縁がいくつか重なっていたのが不思議だった。
「これがルビ・シルバじゃ。」
「おいおい、高橋是清大先生は、共立学校や予備門で英語の教師をしていたのだぞ。もうちっとちゃんとした発音をせいよ。」
「ルビイシルヴァオアじゃ。」
 誰かが是清さんの真似をしたので、皆、どっと笑ったのが楽しそうだった。見せてもらった石は、ごつごつして白っぽい灰色をしていたけど、所々その白っぽい表面を突き破るような、何とも言えない美しい紅色を放っていて、その石に閉ざされた妖しくも儚い紅に目が釘付けになったのを覚えている。
「これは、濃紅銀鉱ルビーシルバーというものだそうだ。」
「何度見ても美しいのう。」
 三浦さんたちも食い入るように覗き込んでいたわ。そう、あれが全ての始まりだった...


蠱惑こわく

 この席に濃紅銀鉱ルビーシルバーの石を持ち込んだ井上という男は、秘露ペルーでオスカー・へーレンというドイツ人に仕えていた。へーレンは、母方がスペイン系であったためスペイン語に堪能だったが、父方の家系はハンブルグの裕福な商人の家だった。へーレンは、実はかつて日本に住んで居たこともある。
 明治二年(1869年)に日本に来たへーレンは最初、横浜のドイツ商社で働き、その後築地の鉄砲洲に移り、独立した後、秘露ペルーの総領事のような存在となっていた。しかし、日本での商売は思わしくなく、築地の家も引き払い、五年後の明治七年には、欧州経由で秘露ペルーに渡ったのだった。
 へーレンは、端正な顔立ちの、エレガントで知的な人物として人から好かれた。それを利用して、人に取り入ったり、自分のビジネスに誘い込んだりするのが上手かったようだ。
彼は秘露ペルーに行ってすぐに、マヌエル・パルド大統領夫人の妹カルメンと結婚し、そこで人脈を築いた。パルド大統領の政府からチャンチョマヨの農場が払い下げられ、不動産、金融、貿易、鉱業など手広く経営していたので、秘露ペルーではかなり知られた事業家だった。
 しかし、へーレンは農場経営の事で悩んでいた。のんびりした秘露ペルー人気質では農場での作業に向いていないと感じていたのだ。このままでは農場経営がうまく行かず、どうしたものかと考えあぐねていたところ、突然、築地で暮らしていた頃のことを思い出した。
「そうだ。勤勉な日本人を使うのだ。」
 実は、すでにこの農場でも、片腕として日本から来た井上賢吉という男を使用人として雇っていた。へーレンは、農場の脇の自宅のバルコニーから、働いている者たちに井上に来るように伝えてくれと命じた。井上が来るとレモネードを差し出し、尋ねた。
「イノウエサン、何とか日本から農民を呼べないものだろうか。」
 へーレンの農場経営についての悩みを理解していた井上は即答した。
「日本では食うに困った農民が大勢居ます。それらの貧しい農民の中には、外国、特にアメリカなどに移住している者がかなり居ます。日本から秘露ペルーに農民を呼び寄せるのも不可能ではないと思いますが、如何せん、秘露ペルーのことは日本では全く知られておりません。」
 へーレン自身、無理もないことだと思っていた。日本と秘露ペルーには国交自体がまだ無かったのだ。
「イノウエサン、頼む。日本に行ってくれないか。秘露ペルーの農場で働く日本人を集めては来てくれないか。」
 二つ返事ということではないが、日本に帰朝すること自体は井上にとっても嬉しいことだった。ただ、どれだけ農民を集めてこられるか井上には自信が無かった。するとヘーレンは石を取り出し、井上にこう言った。
「これを持って行くが良い。」
 へーレンがこの時に、日本人の出資者たちを最初から鉱山投資に誘い込む意図もあったかどうかはわからない。しかしへーレンは、日本人の間にあった鉱山ブームを覚えていたし、実際、その頃の秘露ペルーでは、鉱山の一大ブームが起こっていた。ドイツなど欧州各国も秘露ペルーに積極的に投資しており、秘露ペルーの鉱山の価格は高騰していたのだ。へーレンは、日本人がそうした秘露ペルーの実情を知れば、秘露ペルーで事業を展開することにも興味を持つだろうと考えた。
 へーレンは、鉱石を取り出して井上の前に置いた。へーレンが所有している土地の中にある鉱山で採れた濃紅銀鉱ルビーシルバーの石だった。へーレンは、この井上賢吉という男に濃紅銀鉱ルビーシルバーの銀鉱石を持たせて日本に派遣することにしたのだ。
「農場経営に興味を持つものをまず探してくれ。共同経営をする者が見つかれば、その者が農民を集めてくれるだろう。鉱山にも興味があれば、協同で開発する考えがあることも伝えておいてくれ。」
 井上は日本に着くと最初に、かつてからの知り合いだった城山静一に助力を求めた。城山は、かつて板垣退助の自由民権運動に参加していた事があり、人脈を持っていた。
 城山は早速、事業家である藤村紫朗しろうに話をしてみた。藤村は秘露ペルーでの農場経営にはほとんど興味を示さなかったが、井上がもちこんだ銀鉱の見本である石に強い関心を示した。
「興味深い。早速、その石を鑑定してもらおう。農商務省に持ち込むのが良い。」
 藤村は前田正名まさなにも声を掛けた上で、一緒に農商務省に行って高橋是清を鉱山投資に引っ張り出すよう説得することを頼んだ。前田も乗り気になり、藤村と一緒に農商務省まで出掛け、特許局の新設に奔走していた高橋是清を捕まえた。
「高橋君、君はかねがね言っていたね。日本人は言葉もろくにしゃべれずに闇雲に欧州などの一等国に商談に行くが、全く相手にされていない。日本人は、経済も文化もレベルの高い欧米よりも、これから発展が見込める南米の国のようなところを相手に商売を進めるべきだと。」
「いかにも」
 是清は、前田が何を言おうとしているのかを探るような眼をしながら、前田の話を聞き続けた。
「実は、よい話があるのだ。この石を見てくれ給え。」
 前田は、高橋に持ってきた濃紅銀鉱ルビーシルバーを、茶色の大き目の鞄からうやうやしく取り出して見せた。石は、相変わらず白っぽい灰色のごつごつした岩のようでいて、なぜか奥が覗き込めるくらいところどころ透明だった。その奥から放たれる妖しくも美しい紅色に是清は一目で魅せられた。前田はこの石がここまで運ばれてきた経緯を説明した。
「なるほど、それであればこの石を鑑定する必要がありますな。鉱山局を通じて、巖谷先生に見てもらうこととしましょう。預かり証を出すので、鑑定が出るまでこの石は農商務省で厳重に預からせてもらいましょうか。」
 一週間後、農商務省の鉱山局で前田と高橋も同席して、巌谷いわや立太郎りゅうたろう博士の鑑定結果を聞いた。
「つまり、この石は非常に銀の純度が高いということなんですな。」
 藤村が巖谷博士に確認を求めると巖谷は説明した。鑑定の結果、石は濃紅銀鉱ルビーシルバーと呼ばれる種類の鉱石であり、含銀品位二十七から二十八パーセントということで、純銀に近いものということであった。
「これは是非話を進めるべきだろう。だが、我々だけでできるような事業でもないから、出資者を募る必要がある。」
 藤村が是清に熱を帯びた口調で提案した。是清はすぐに前のめりになった。
「巖谷先生のお墨付きなら、もう今すぐにでもこの鉱山事業に着手すべきじゃないか。」
 藤村は逆にやや苦笑気味に、だが予想通りという顔をしながら、是清に更なる提案をした。
「まあ、現地に行って実地の調査も必要だろう。鉱山事業はそんなに簡単じゃないからな。巖谷先生を現地に派遣するわけにも行かないだろうから、誰か現地に行ける人間を紹介してもらうのが良いだろう。」
 すると話を聞いていた巖谷が答えた。
「私の教え子から何人か紹介することはできます。ただ、みな研究や仕事で鉱山の現場に張り付いていますからな。秘露ペルーまで行ける人間がいるか、ですが。」
 是清がそれに反応した。
「巖谷先生、私の予備門時代の教え子で理学士となったのを一人覚えています。名前は確か田島と言ったと思います。英語はかなり出来たのを覚えています。」
「田島君は優秀ですよ。田島君なら適任でしょう。ただし彼は今、秋田の院内に居るはずです。果たして、そこを辞めてこの事業に参加できるでしょうか。」
 巖谷からそれだけ聞くと、前田、藤村、高橋等はすぐに田島晴雄を秋田から呼び寄せることに手をまわし、晴雄の外堀を埋めに掛かった。彼らはもはや、農業経営を飛ばして鉱山開発に一気に前のめりになっていた。
 
 こうして彼らは、烏森からすもりの胡月に集まった。この種の事業の相談をする時は、待合か料亭と相場は決まっていたのだ。その胡月で、井上は滔々とうとうと説明していた。「この石は秘露ペルーのカラワクラという鉱山で採れたものです。」
 井上は鉱石も持って来ていた。鞄から鉛筆と秘露ペルーの地図を取り出してから、実際の鉱山の場所を指し示し、丸で囲み、Carahuacraと書いて見せた。
「この鉱石が素晴らしいのは本当です。巖谷先生の分析ですから、間違いありません。」晴雄も自信満々に井上の説明を後押しした。
「これは凄い事だ。とても大きな巡りあわせだ。人生でそんなに何度もこのような機会があるものではない。早速、銀山の経営に乗り出そうではないか。もちろん、事前にさらなる調査が必要だが。」三浦がそう言うと、城山が提案した。
「田島君、是非とも秘露(ペルー)に行ってはくれまいか。そのために資金は工面しよう。鉱山を見てきてくれたまえ。そして、この鉱山開発のための権利を手に入れようではないか。」
 晴雄が秘露ペルーに調査に行くにあたって、藤村は事業家らしく、三浦梧楼や小野金六らから集めた金で、事業組合を作ることを提案した。


契約

 井上が持ち込んだ銀の鉱石を目の当たりにして、鉱山開発にすっかり前のめりとなった城山静一、藤村紫朗、三浦梧楼、高橋長秋、高橋義恭、佐竹作太郎そして小野金六らによって、すぐに事業組合が結成された。そして組合から託されて、晴雄は秘露ペルーの銀山の実地調査をすることになった。
「銀山の全容を詳しく調べて報告書を作成してほしい。」
 組合を代表して三浦が出したこの依頼に対して、晴雄は質問した。
「現時点で銀山の規模が判らないので、相当時間がかかる可能性があります。しかも、実地の検分と専門書など既存の調査を突き合わせてみる必要もあるので、報告書が完成するのは日本に帰ってからとなります。時間的にはそれで間に合うでしょうか。」
 藤村は、三浦や是清等と顔を見合わせて答えた。
「調べて判ったところから、手紙や電報で知らせてもらう以外あるまい。」
 藤村は是清に頼み込むような顔をして加えた。
「電報だと、和文ローマ字では面倒だろうから、英文で送ってもらおう。そうすると、高橋君に連絡してもらうのが一番良いのではないか。」
 是清は少しだけ眉を吊り上げて見せたが、すぐに欧米人のするウィンクのような笑顔を作って承諾した。
「それで良い。善は急げということもある。電報でやり取りをしようじゃないか。」
 
 こうして晴雄は、明治二十一年(1888年)十一月二十八日に井上とともに日本を発ち、翌年一月二十三日に秘露ペルーに到着した。
 晴雄は秘露ペルーのカジャオに着いてから、井上に案内されるがままに鉄道に乗り、リマ市内のへーレン邸を目指した。港は殺風景で横浜と変わる所は無かったが、リマの市内が近づくにつれ、スペイン風の建物が増え、あらためてここはかつて植民地だったのだと思い出させられた。
 へーレン邸に着き、晴雄はそこで初めてへーレンに会った。建物はかなり立派なスペイン風のものであり、建物に沿って椰子の木が植えられており、かなりの羽振りの良さがすぐに伝わった。
 へーレン邸の建物の中では、井上の他に伴竜、大関、岡山という日本人が居て働いていた。日本からかなり遠い南米の地にこんなにも日本人がへーレンのために働いていることを不思議に思ったが、さらに松本辰五郎たつごろうという庭師がヘーレン邸の庭園の仕事までしていて大変驚いた。
「なぜ、日本人の庭師まで居るのだ?」
 晴雄が井上に尋ねると、井上は無表情で答えた。
「造っているのは日本庭園です。へーレン氏は、築地に居た頃のことが忘れられないらしいのです。」
 このような状況を添えて、へーレン氏が信頼できそうな人物であることも是清に電報で伝えたが、是清からはすぐに、極めて簡潔な返事が返ってきた。
You cannot be too careful.
(油断を怠るなかれ)
 交渉事に疎い晴雄は、是清が何を警戒しろと言っているのか良く分からなかった。日本が好きで日本人を雇い、日本庭園を造るくらいの日本通で、日本と商売をすることに期待している人物に警戒するようなところがあるのだろうか。
 是清はもちろん、笑顔を持って近づいている人間、特に自分たちのことを良く知っているという者は、自分たちの弱点をも周知しているから、手玉に取られる恐れがあることを警戒せよと伝えたかったのだ。是清自身がアメリカ時代に痛い目にあっているのだから。
 是清の忠告にもかかわらず、晴雄はへーレンには歓迎されていると思い込んでいた。へーレンは大変協力的で、銀山の調査にすぐにでも行きたいと伝えると、すぐに汽車などの手配をしてくれた。
 
 二月二日、晴雄は、伴竜とヘンリー・ガイヤーというアメリカの鉱山機械の会社の代理店を経営していた男を伴って、カラワクラ銀山を目指して出発することとなった。ガイヤーは、何度かカラワクラに来たことがあるという。案内役にも適していると思われた。
 汽車は乾燥した大地を丸二日走り続けた。時折、車窓から民族衣装を着てリャマを引く現地人が見え、遠く異国の地に居ることを思い起こされるのだった。
 車中でガイヤーは常に陽気で、晴雄に盛んに話しかけ、夜も眠れないほどであった。晴雄は、アメリカ人のこともビジネスマンのこともあまり知らなかったので、ガイヤーの、やや話が大げさなところを最初胡散臭く思ったが、仕事のことを熱心に語るのが好きなのだと合点がいった。
 ガイヤーが寝ている間に、伴竜とも話をした。伴竜の家は四国の士族だという。伴竜自身、ドイツ語にも堪能で、野性味ある風貌に似合わず知性を感じさせる男だった。
 汽車がアンデスの麓の町、ヤウリに到着したので、一行は汽車を降りてヤウリの町に出た。来る途中の乾燥した大地と違い、ヤウリは雨が降っていた。ショールを纏ったチョリータと呼ばれている原住民の女性やチョラと呼ばれている男性が行き交い、また建物の陰で雨宿りをしていた。
 晴雄と一行は、この町からさらにアンデスの山高く登って行かなくてはならない。しかし、鉱山は大きすぎた。カラワクラの鉱床は標高で四千メートルから四千八百メートルのところにあったので、晴雄を含めた日本人がみな、カラワクラが近づくにつれ、次々と高山病になってしまったのだ。
「このような調子で、歩き回って四千メートルを超える山全体を調べることは不可能だ。実測もしてみたいんだが...」
 晴雄のつぶやきに対して、ガイヤーが助言した。
「ドイツの鉱山雑誌に、カラワクラのことは載っている。権威ある雑誌なのだからそれを参照すれば良いのではないですか。」
 ガイヤーが鉱山の機械商人であることに晴雄は無頓着だったかもしれない。晴雄が何の気なしに「ありがとう。それは見てみよう。」と言うと、ガイヤーは事務所にあるはずだから、持って来てくれると言った。
 
 晴雄等の一行は、現地ではやたらと饗宴でもてなされた。へーレンが現地の者たちに連絡していたようで、晴雄はこの事も特段不思議には思わなかった。地元の人たちとしては、鉱山事業で沢山人が来ればそれだけ潤うのであるから、むしろ当然の事のように感じていたのだ。
 しかし、この饗宴で時間を取られた。日中も含めて、あちこちの家からお呼びがかかり、無碍にもできないので、誘われるまま応じていたのだ。
 とりあえず晴雄は、何とか空いている時間で、現地の山の地層を調べた。これは基本であり、実際、大層な機械も無く人足も足りなかったので、限界がある中では最善の方法に思われた。晴雄にとっては、このような調査方法は当然の事と思っていたので、状況を細かくは是清達に報告はしなかった。
晴雄は現地の地層を調べたが、石灰石と玢岩ひんがん(筆者注:マグマが地下深くでゆっくり冷えて固まって出来た深成岩と火口近くで急激にマグマが冷えて固まって出来た火山岩の中間的なもののうち、斑状組織をしたもので、斑晶が斜長石で、カリ長石を含まないものを指す。)の接したところに厚さ三十メートルもの鉱脈を発見し、またこれが長く続いているのを見て数十英里マイルは続いていると判断した。
 リマに戻り、改めてガイヤーから渡された鉱床サンプルを分析し、渡された鉱山雑誌で確認した。その結果、晴雄はカラワクラ鉱山はその隣接鉱区を含めて千七百六十四万トンの埋蔵鉱量であるという推測を行った。日本には、鉱山は有望だと打電した。
 へーレンは、ドイツや他の欧州の国もこの鉱山に目を付けており、今すぐにでも鉱山の獲得をするべきだと主張した。あるいは今、仮契約でも良いから手付を払うための契約を行うべきだと主張した。この点についても、晴雄は是清に電報を打った。
『I have not executed a trial boring due to limited circumstances, but the Mountain looks good and promising. We should sign the provisional agreement immediately, otherwise we will lose this opportunity.(限られた状況のため、試掘をしていないが、鉱山は有望のようである。手付の契約を締結しなければ、この機会を逃してしまうこととなろう。)』
是清からは再び、簡潔な返事が返ってきた。
『Take it! (獲得しろ!)』
 
 晴雄と井上は相談し、アルパミナ、サン・イグナシオ、カラワクラの三銀山のうち、カラワクラだけ、一万六千五百英ポンドで購入し、半額をへーレンが負担するという提案を日本の組合に電報で送った。その際、その銀山から取れる石の銀品位が粗鉱千分の一(千g/t)、精鉱三百分の一(三千三百三十g/t)と報告した。かなりの純度の銀鉱石が採れる鉱山であると推測し、これも報告に付け加えた。
 晴雄からの連絡を受けて日本組合のメンバーが胡月に集まったが、完全に浮足立っていた。
「チャンスだ、是非獲得するべきだ。」
「いや、もう少し見極めが必要だ。」
 難しい話になり、他の芸妓と一緒に席を外そうとしたときにも、胡月に集まったメンバーが興奮気味で口角泡を飛ばしていたのをお吟も見ていた。
 話から晴雄が秘露ペルーに着いて活動しているのだとわかった。お吟は晴雄が頼もしく、そしてその回りの紳士もみな、大きな夢のために、必死になって議論しているのが羨ましくもあった。
 その一方で、水も食べ物も異なる異国の地で奮闘する晴雄のことを想い、心配にもなった。是非、無事に帰ってきて欲しい、そしてもう一度会いたい、そういう想いが不思議と高まった。
 
 是清が承諾したとして、晴雄と井上は全鉱区の獲得のために、へーレンと独自の契約を締結した。この報を受けて、日本側組合は、慌てて八千英ポンドを払い込むこととなった。
 
 五月八日、晴雄は、有限責任日本興業会社(sociedad industrial japonesa limitada)の契約をへーレンと締結した。この契約には有限責任日本鉱業会社を設立することが定められており、その出資比率や対象資産なども定められていた。
 内容は、日本組合とへーレンが五十万円を出資して資本金百万円の有限責任日本興業会社を設立し、会社がへーレンの保有するサン・カルロス農場、アルパミナ、サン・イグナシオ、カラワクラからなる三銀山資産、サン・ペドロ炭山、カンデラカンチャの地上権と水利権をへーレンから購入し、さらにドローレス、サン・ホセ、サン・アントニオ・デ・カジャバからなるカラワクラ銀山三鉱区を二十五万円で買収するというもので、日本組合は十一月までにへーレンに十二万五千円を支払うこととなっていた。
 この上さらに、晴雄はサン・フランシスコ・デ・カラワクラ、リマック、リマの三鉱区を購入することをへーレンに打診した。これらの三鉱区は、カラワクラでの採掘のために必要な隣接地区であった。 


起業

 晴雄が仮契約として三鉱区を押さえ有限責任日本興業会社を設立する契約をへーレンと結んだことで、事は急を要した。契約に従い資金を追加する必要があったため、晴雄は六月十九日に井上とともにリマを発って日本へ向かい、八月上旬に日本に着いた。
 この事業の資金をどのようにして集めるか、前田、城山、藤村、三浦、是清らと晴雄は、早速、烏森からすもりの待合である桝田屋に集まった。お吟は、その席にも何も知らずに何人かの芸妓と一緒にすり足で部屋に入り、顔を上げて少し嬉しくなった。晴雄がいたからだ。
 芸妓は、自分から気があるそぶりはしないものだった。露骨には晴雄の顔を見ず、うつむいたまま、各席に酌をして回ったが、晴雄と目が合った。
「君はこの前も来てくれたね。」
 晴雄が覚えていてくれたことに嬉しくなったが、宴会はすぐに会議になった。「秘露ペルー」、「銀山」、「投資」というような言葉が自然に耳に入ったが、それが何かわくわくするような類の、冒険のような話だとお吟にも思えた。
 話が核心に入りすぐに、是清が芸妓らに席を外してくれと言い、お吟たちが部屋を出ようとしたときに、晴雄は外国語で書かれた紙を取り出し、それを是清らに説明し始めた。お吟には、それが何を意味する紙なのかは全く分からなかったが、彼らがやろうとしている「会社」や「事業」にとって重要な証文のようなものであることは十分理解できた。
 部屋の中からは、かなり激しい言葉遣いも聞こえてきた。聞き耳を立てても話が分からない程度に離れた部屋で、中庭の酔芙蓉すいふようの桃色の花を眺めながら再び呼ばれるのを待った。
 中では、古庄が外務省からの情報を伝えていた。
「諸君、聞いてくれ給え。外務省を通じて、へーレンの人物照会をかけてみたところ、ニューヨーク領事からは、『へーレン氏は、十分信頼すべき人物にして、資産もまた裕福なり』という返事がきた。」
「それは良かったじゃないか。」
 みんな胸を撫でおろしたようだった。
「ところがだ。」古庄は続けた。「サンフランシスコ領事である河北俊粥としすけ少佐(筆者注:女優河北麻衣子さんの高祖父)から、『もしへーレンという者の計画が安全なものであるならば、欧米各国からの資金に充溢じゅういつなはずである』という心配の声が上がってきている。」
 一同は一瞬、緊張したように顔を見合わせながら固まった。
「『なぜ、わざわざ苦労して極東から資金を調達しようとしているのだ?』と聞いてきている。」
 是清が思わず、声を上げた。
「おお、河北さんか。会ったことはないが、アメリカ時代に色々、お世話になった。」そう言うとどこ吹く風で是清は、手酌で酒を煽り、一気に飲み干していた。
「河北さんの心配はもっともだと思う。ここは一つ、慎重の上にも慎重を期さねば、碧眼連中にやりたいようにやられるだけだろう。」古庄は全員の目を確認しながらさらに続けた。「高田商会というところに、既に秘露からヘンリー・ガイヤーという者が連絡をしてきている。掘削の機械の販売や精錬所運営などに長けているらしい。そのような商売人の恰好の餌食にされているのではないのか。諸君は、第十八代アメリカ合衆国大統領ユリシーズ・シンプソン・グラント将軍の言葉はご存じか。」
「それは何の話か?」
 何人かが怪訝な顔をして尋ねた。
「『ヨーロッパはアジアを侵略しようとしている。特に外国資本を警戒せよ。』というやつである。」
「いかにも。警戒してし過ぎることはない。」
 古庄の警戒に三浦は賛同していたが、是清は反論した。
「ならば、この好機に何もしないということとするのか得策なのだろうか。それが諸君のお望みなのか。そうではあるまい。我が国は、もともと銀の国であった。そして銀は貿易の通貨としてなくてはならないものだ。日本には今も世界中が羨む量の銀があるが、今後も良質の銀貨を産出していくためには、もっと多くの銀鉱が必要なのである。日本国内の銀の生産はこのままでは頭打ちになるのが見えている。座して死を待つよりも、このような期に乗じて海外に新たな銀鉱を求めて行くべきなのである。」是清は自分の弁にすっかり興奮して、身を乗り出し、立ち上がって続けた。「ここにいる諸君はみな、元々士族の家の出であろう。版籍奉還で武士としての矜持に折れかかっていたところ、政府は銀鉱山の開発を進めた。銀こそが、我々士族にとっての最後の砦である。秘露ペルーの山からもたらされる濃紅銀鉱ルビーシルバーは、我々にとって、そして日本にとっての希望の星である。へーレンの言うところによれば、諸外国がすでに秘露ペルーの鉱山にも触手を伸ばしているということである。日本にだけ声を掛けたのであればともかく、そうではあるまい。だから何としても、他の国に抑えられる前に、我が国がこれを押さえなくてはならないのだ。」
 ここまで聞いていた古庄が突然立ち上がり、我慢がならないという紅潮した顔で激高した。
「ならば私は降りさせてもらおう。このような杜撰な計画に大金を出すわけにはいかない。」
 皆が立ち上がったが止める間もなく、古庄は障子を蹴破らんばかりの勢いで部屋を出ていってしまった。お吟たちもそれを見てびっくりして顔を見合わせた。
「少し落ち着こう。」
 是清は、皆に席に着くことを促した。皆がもう一度腰を下ろしたところで、三浦が口を開いた。
「古庄君の言うことももっともな点はある。一つ一つ確認して行くべきだ。田島君、鉱山についての調査報告書をすぐにでも仕上げてくれ。君の感触としても、巌谷先生の分析でも非常に有望であることは確かなわけで、報告書も鉱山が有望であるというものになるので良いのだな。」
「ドイツの鉱業の業界誌でも紹介されています。有望であることは間違いありません。報告書はすぐに纏めますが、とにかく、試掘権がない中で制約があったのは確かです。だから、報告書もすべて業界誌の調査が前提となります。」
 是清が口を挟んだ。
「契約書はどうなっている?田島君、契約書をもう一回見せてくれ。」
 是清が晴雄に契約書の原文を求めたので、晴雄は鞄から有限責任日本興業会社の契約書を取り出して説明を始めた。
「この契約は、日本組合とへーレンの出資により、へーレンの農場と、アルパミナ(Alpamina)、サン・ペドロ炭山(la mina de carbón)、そしてカンデラカンチャ(Canderacancha)の地上権と水利権(los derechos de superficie y servidumbre de aguas)を押さえるものとなっています。ただし、へーレンが立て替えた十二万五千円を日本組合が十一月まで支払うことによるという停止条件(condition precedent)が付されています。」
「田島君、契約書はスペイン語なのか?」
「英語訳もあります。」
 晴雄が英語訳を渡したが、是清は難しい顔を続けていた。
「原文がスペイン語だと、この英訳が正しいのかどうかわからんな。この次からはスペイン語の専門家も探しておかなくちゃならないな。」
「問題は、実際にこの三鉱区を掘り進めるためには山の南側の権利も必要になることです。このためには、サンフランシスコ・デ・カラワクラ(San Francisco de Carahuacra)、リマック(Rimc)とリマ(Lima)の権利も押さえなくてはなりません。」
 晴雄の提案に是清は頭を悩ませた。
「さらに金がかかることとなる。日本側もそれなりに資金を用意せにゃならん。会社がさらに株式を発行して資金を調達する必要があるな。」
 三浦が資金調達の不安を口にしたその時、是清には疑問が沸いた。
「そもそもへーレンは、鉱山事業をやる気があるのだろうか。我々にして見れば、農場経営こそ不必要だ。へーレンは鉱山からは手を引くつもりなのではないか?なぜ、農地にこだわっているのか。会社に追加の鉱山の権利を高く売りつけて、自分は会社の事業から距離を置くつもりなのではないのか?そこが気になる。」
 是清の不安に、晴雄は口を挟んだ。
「ただし、ドイツなど他の国が秘露ペルーの銀山に触手を伸ばしているのは本当です。へーレンから追加で買い取る鉱山の権利は、へーレンがその鉱山を買った時の原価とするのでどうでしょう。」
 そう聞くと、是清は手酌で今一度猪口に酒を注ぎ、口へ運んで一口飲むと、やや眉を上下に動かしながら、答えた。
「もちろん、鉱山に他国が触手を伸ばしているということは嘘ではないだろう。また、この機を逃したら、二度とこんなチャンスは巡ってこない。」
 晴雄は念を押す意味で話を加えた。
「ただ、鉱山の実際の質はやはり掘ってみないとわかりません。現時点でわかることだけだと、ここから先はどうしても賭けになります。」
 晴雄は躊躇を見せたが、是清は答えた。
「ここは決断の時だ。我が国はかねを必要としている。欧米の大国に対抗し、産業を近代化するためにもかねが必要だ。そのためにはまず銀だ。何としても、この銀の鉱山を手に入れる必要がある。株主を募って、日本で新たに株式会社を起こすための資金が必要だ。賭けになるのは当然だ。これに賭けなければ機会を生かすことはできない。鉱山事業はもともと大きな賭けの事業なのだ。この賭けに乗らないと我が国の未来もない。」
 これだけ大演説してその場のメンバーを説得すると、さらに加えた。
「そのためには、へーレンを逃がしてはならない。我々の鉱山事業と一蓮托生とするのだ。へーレンの農場と邸宅を現物出資させる。それと日本側で調達した資金で新会社を設立して、日本鉱業を買収する新契約を何としても結ばなくてはならない。」
是清の腹は決まった。この決断を受けて、明治二十二年(1889年)十月四日付で、株主二十四名を集めて日秘鉱業会社という株式会社がスタートしたのだ。


お吟と晴雄

 お吟たちが再び、部屋に呼び戻されたところで、入れ替わりに高橋らが席を外して部屋を出て行ったため、中には晴雄だけが残されていた。
「あらお帰りですの?」
 芸妓たちは困惑して再び部屋を出て行ったが、お吟は部屋に残った。晴雄は、低い卓袱台ちゃぶだいのようなテーブルの上に出されていたスペイン語と英語訳の契約書、それにいくつかのスペイン語や英語の書類を片付け、鞄にしまおうとした。お吟はふと口にした。
「お兄さんたちの読んでるその書はフランス語?」
 晴雄は、フランス語だという想像自体に驚いた。多くの日本人にとって英語もフランス語も、ましてやスペイン語だって見た目で区別なんかできないはずだ。
「なぜ、フランス語だと思ったんだい?」
「いや、英語じゃないのは文字の感じでわかったから。英語の文字には、そんなにょろにょろしたのついていないじゃない?あたし、本当にちょっとだけだけど、英語を習いかじったことがあるのよ。昔、ほら築地に異人さんたちの居留地あって、異人さんたちいっぱいいるじゃない?」
「にょろにょろか、そりゃあいい。」晴雄は心の底から笑った。「なるほどね、確かに。いや、にょろにょろはアクセントの記号でね。これはスペイン語で書かれているんだ。」
 お吟はふーんと言った顔で、興味津々に続けて質問した。
「そっちの書は私もわかる、って言っても意味まで分からないけど、英語よね?」
 お吟は、私だって捨てたもんじゃないというようなすこしばかり得意げな顔をして、質問を続けた。
「そのスペイン語の文字、それはアーチクロって読むの?」
 晴雄は心底驚いた。
「やっぱり読めるじゃないか。いやスペイン語だと、アルティークロ(Artículo )と読むらしい。僕もスペイン語に堪能なわけじゃないんだ。しかし凄いじゃないか。」
「英語のアーチクルと同じ?記事?」
「英語のアーティクル(Article)と同じで、確かに記事という意味があるが、この書類はね、契約書って言ってね、証文みたいなものさ。約束事を書き連ねていくんだ。契約書上でアーティクルって言うのは、条とか章という意味になる。いやあ、芸妓にも教養があるのがいるのは知っていたし、時たま驚かされることはあるが、外国語がわかる半玉がいるとは思わなかったなあ。凄いよ。」
 晴雄に褒められて、お吟はうれしくなって得意げな顔のまま、晴雄にお酌した。
「大したものだ。英語とラテン系の言葉の違いがわかる雛妓おしゃくなんて、粋だね。」
 晴雄が猪口ちょこの酒を一気に飲んだので、お吟は続けてお酌した。
「英語は元々、ドイツ語とフランス語から来た言葉だって宣教師の人が言っていたの。だからね、フランス語かなって思ったのよ。」
 言った後に、お吟は少しだけ顔を曇らせて、口を尖らせた。
「英学校とか女学校っていうの、女でも行ける学校があるじゃない?あたしも行きたかったんだあ。」
 晴雄は一瞬、目をそらして下を向いた。
「お兄さんは学士さんなんだってね。学があるんだねえ。あたしは学のある人がうらやましいよ。」
「英語くらいならいつでも教えるよ。」
 晴雄はどう答えていいのかわからなくなったので、適当なあいそを言ったつもりだったが、お吟は目を輝かせて晴雄の顔を覗き込んだ。
「ほんと?」
「もっとも、今出て行った達磨みたいな人、高橋是清って言う人だが、東京大学の予備門の英語の先生だったんだよ。俺も英語はあの人に習ったんだよ。」
「へえ、人は見かけによらない、って言っちゃあ失礼だけど、丸顔でやさしい感じの、普通のお父さんみたいだったけど、学があるんだねえ。」
「ああ、でも、その親父さんに英語を習ってるとき、他の学生が質問したんだ。先生、この場合の文法からすると、そこは先生のおっしゃった意味じゃなくて、斯々然々かくかくしかじかじゃないですかって。するとあの親父さんは、『諸君、諸君はこれからこの国を背負って行こうという若者です。そのような人たちがそんな細っかいことにこだわってどうするんですか』って言うんだ。終始、そんな感じな人だったけどね。」
 晴雄の話にお吟は無中になっていて、すっかり晴雄の目を覗き込むように見つめていた。晴雄は慌てて目を逸らした。
「ねえ、英語もなんだけどさ、あたし、お兄さんに仕事のことも教えてもらいたい。」
 お吟の言葉につくづく変わった芸妓だと晴雄は思い、今度は晴雄の方がお吟を覗き込むように尋ねた。
「なんでそんなことに興味を持つ?芸妓らしくないな。」
「いいじゃない。お兄さんたちは何をやろうとしているの?銀の山を掘りに行くの?外国に?」
「ああ、秘露ペルーって南アメリカにある国なんだが、南アメリカってわかる?」
「アメリカの南よね。」
 笑いながら答えるお吟は、純粋無垢で、まだあどけなさの残る感じだった。
「アメリカがどの辺にあるかわかるかい?秘露ペルーは、日本から見たら地球の裏側みたいなもんさ。」
「へえ。でも、どうしてそんなところまで行くの?日本にだって銀山はあるって聞いてるけど。」
「ああ、銀はね、元々日本は沢山採れるんで外国にも有名だったんだよ。だから、国は銀山の開発に力を入れたけど、外国との貿易で国を富むようにするにはまだまだ銀が欲しいんだよ。秘露ペルーの銀は、ものすごく純粋なもので、日本のものの何倍もの価値があるんだよ。」
 晴雄がそう答えると、お吟は思い出したように強請ねだった。
「ねえ、さっきの濃紅銀鉱ルビーシルバーって言うの?前も見せてもらったことあるけど、もう一度、よく見てみたい。」
「ああ...」
 晴雄は軽くうなずくと、濃紅銀鉱ルビーシルバーを鞄から取り出すとお吟に差し出した。
「綺麗...白っぽい石の中から閉じ込められた光が、その隙をついて外に飛び出そうとしているのね。透明だけと、外には出られない、でも中では輝き続けている。芸妓の世界と似ているわ。」
 晴雄はやや困惑した。
「外へ飛び出したいのかい、花柳界の外へ?」
 お吟は、少し虚ろな表情をしたまま、晴雄の質問には答えなかった。
「この石はね、結晶化したものを閉じ込めていると言えば言えないこともないが、実際にはこの鉱石は固いものではなく脆い。簡単に崩れる。この輝きは解き放たれるのを待っているようでもあるが、実際にこの紅色は内部反射と言って、入り込んだ光が中で反射して透き通っているように光ってるんだ。芸妓は輝いて、そしていずれ、誰か偉い立派な金持ちに見初められ、落籍ひかれるのを待っている。この銀の石も反射して輝いて、いずれ銀として取り出されるのを待っている。」晴雄は一呼吸おいて続けた。「芸妓は、そうやって見染められて、本妻か妾になるという夢がある。それは花街(かがい)の女にとっての幸せというものではないのかい?」
 それを聞いて、お吟は少し口を尖らせた。
「それって、誰かに自分の人生を委ねるってことよね。」お吟は濃紅銀鉱ルビーシルバーの石を突っ慳貪つっけんどんに晴雄に返しながら話を続けた。「男の人が羨ましい。自分の夢を追いかけられて。女だけが、なんでそんな男の夢に自分の人生を任せなくちゃならないのかしら。」
 晴雄は笑った。
「君はやっぱり変わった雛妓おしゃくだな。そんなことを考えている女が花街かがいにいるとは知らなかったよ。芸妓っていうのは、着飾って、芸を磨いて、そうやって誰かから見初みそめられるのをみんな待っているものと思い込んでたよ。君は面白いね。」
 それを聞いてお吟は、すこしいたずらな顔で晴雄の顔を覗き込んで、微笑みながら告白した。
「ねえ、お兄さんだったら、あたしを身請けしても良いよ。お兄さん、あたしはお兄さんみたいな人に身請けしてもらいたいよ。ただし、お妾さんはごめんだけどね。」
「僕はね。一応、許嫁みたいな人がいるんだよ。」
 お吟の顔が明らかに曇った。
「会津のね、家は元々山形藩だから、会津に親しくしている家があるんだけど、戊辰戦争でめちゃくちゃになったお家を建て直すために、養子縁組を親同士が考えているようなんだ。僕も会ったことはある。まだ何も正式に約束したわけではないんだけどね。」
 お吟は、明らかに不貞腐ふてくされた。
「それに今度、もう一度秘露ペルーに行くんだ。行けば一年くらいになるかもしれん。」
「そんなに」
 お吟はため息をついた。そんな寂しそうな顔を見せられて、晴雄の気持ちが初めて揺らいだ。素直に可愛らしいと思ったのだ。
 晴雄は、派手に女遊びをする方ではない。これまでも学問と鉱山の仕事一筋だった。色恋に興味がなかったというわけでも無いが、多くの士族の家がそうであるように、親が決めた許嫁といずれ所帯を持って家督を継ぐことになるのだろうと漠然と考えていたのだ。
 しかし、自分への感情、それが色恋なのかどうかまでは分からなかったが、少なくとも少しは持っていてくれる好意というものを、ここまで素直に表現する十八歳の雛妓おしゃくに、無関心では居れなくなったのだ。
「あたしも行ってみたいなあ。」
「そりゃあ無理だ。」
「男の人たちはいいわよねえ。幕府が倒れて、あたしたち士族の家は大変な目にあったけど、でも、その分鉱山だとか貿易だとか、いろんな商売をやれるようになったわよね。誰でも身分に関係なく、自由にいろんなことができるようになったわよ。でも、女は相変わらず。芸妓だって、だれかいい旦那に見初められて身請けされるのを待っているだけ。昔よりも不自由よ。男の人たちは勝手気ままだけど、女はそうはいかないわ。」
 お吟は、まるで晴雄がそこに居ることを忘れたように、婦人運動家のように自説を唱え始めた。
「でもね、あたしはいずれ商売を始めるわ。ね、商売なら男女は関係ないはずよね。誰だって、同じものなら安い方が良いはず。物を買う相手が男か女かなんて関係ないわよね。そうね、何か物を売るより、あたしたち花柳界の人間だったら、人をもてなす商売が良いわね。料亭も良いけど、それじゃあ花街かがいと変わらないわね。何か人々が寛げるような、そんなものを提供できる、そういう商売が良いし、それなら女であることは全然不利にならないはずよね。」
 お吟は独立宣言の演説を終えると、一瞬、ため息をつき、その後、踵を返すように晴雄の方に向いて、突然、一つの提案をした。
「ねえ、出発の日、新橋の停車場まで見送りに行ってもいい?」


秘露ペルー

 明治二十二年(1889年)十一月十六日、晴雄と是清、そしてスペイン語に堪能である通訳として連れてこられた医師の屋須弘平やすこうへいは、秘露ペルーに向けて出発することとなった。
 出発に先立って是清は、晴雄らにも内緒で、秘かにへーレンに電報を打っていた。日本側で株式会社を設立したが、株主を納得させるためにも契約内容の大幅な改定が必要だという旨の連絡だった。
 へーレンからは、元より有限責任日本興業会社の契約は手付のためのようなものであるから、契約の改定は理解できるとしつつ、日本側から、鉱業、農業という事業に精通した有能な、ビジネスに長けた人材を投入して欲しい旨の返事が来ていた。このようなやり取りについて晴雄には全く知らされていなかった。
 
 朝靄の残るような時間帯であるにもかかわらず、是清の乗り出した一大事業を壮行するために、千人規模で新橋の停車場に人が集まり騒々しかった。そんな中、お吟は本当に晴雄の見送りに来た。
 晴雄は、出発が朝早くの汽車であったから、もしやとは思っていたが、お吟が来たことを素直にうれしく思った。
「本当は横浜まで行きたかったんだけどね。お座敷の支度は早い時は、お昼すぎくらいから始めるから。」
「来ると言ってたから、来るんだろうとは思ってたんだけど...」
 晴雄はややぶっきらぼうに言うと、何やら荷物を調べ出して小物を取り出した。
「ええっ!」
 お吟ははしたなくも大声を上げてしまった。晴雄が桜色のかんざしをお吟に差し出したからだった。
「北地に吉の家さんって小物の店があるだろ。他の芸妓たちに聞いたら、そこでの買い物なら喜ばれるんじゃないか、って言われたから。」
「あたしがもらって良いものかしら。」
お吟はかんざしを握りしめて、叫ばんばかりに礼を言った。
「他にあげる人はいないよ。」
 晴雄は珍しく笑顔を見せた。
「ありがとう。雛妓おしゃくになって、こんなにうれしいことは今まで無かった。二度と会えないってわけじゃないけど寂しいわ。ねえ、手紙をおくれよ、絶対よ。あたしも頑張って英語で書くから。」
 お吟は笑い転びだしそうなくらいに笑って見せた。本当は目に涙が滲んできそうだったが、堪えてみせた。
「お兄さんが秘露ペルーから帰ってくる頃には、お兄さんは大金持ちだね。そしたら、あたしを身請けして妾にする気?言っておきますが、あたしはそんなのはごめんですよ。」
 ねた様に頬を膨らませたお吟のことがたまらなく愛おしく感じられた。
「ただ、また会いたいわ。」
 是清の一行は熱狂的な声に包まれながら列車に乗り込んでいくのが見えた。晴雄もそろそろプラットフォームの方へ向かおうと荷物を持ち上げた。お吟も手伝おうとしたが晴雄にさえぎられた。その瞬間、お吟は急に素直な気持ちになって...泣きそうな顔になってしまった。
「絶対にまた会いたい。帰ってくるころにはさあ、あたしももっと綺麗になってるよ。約束する。」
 晴雄が汽車に乗り込んだので、お吟は晴雄が席に着くまで客車の側を追いかけた。晴雄の席はホーム側では無かった。お吟は賢明に手を振った。晴雄は静かにお吟を見ていた。
「ねえ。手紙頂戴ねえ。」
 他の席の乗客がみなお吟の方に振り返るほど、お吟は大きな声を出していた。
「あたし、もっと綺麗になって待っているから。お兄さんに気に入られるようにね。」
 さらに多くの乗客がお吟の、やや湿った大声に驚いたが、お吟の姿が花街かがいの人間であることが一目瞭然だったために、みな納得したような顔になり、晴雄の方を見て、お安くないという顔でにやついた。
 汽車が動き出した時、お吟は追うことはしなかった。代わりに最後の大声を出した。
「来年、帰ってきたら、すぐに会ってね。」
 しかし、お吟が実際に晴雄に再会したのは、この後三年以上も過ぎた後となったのだった。
 
 横浜へ向かう汽車の中で、晴雄は色々なことを考えた。お吟のことももちろん考えた。しかし、晴雄はお吟のことについて気持ちの整理がついていなかった。気持ちは揺さぶられたが、直情的に行動するには色恋に関して慎重過ぎる性格であることを自分自身で自覚していた。かんざしを贈ったのが精一杯で、これだってこの頃の男子一般からすれば型破りである。十分に恥ずかしいことだったのだ。
 お吟のことはあれこれ考えても答えが出ないのを自分でも知っていたので、考えることを止めた。晴雄は気持ちを切り替えて、秘露ペルーの事に色々、思いを巡らしたところ、出発前に受けた新聞などの取材のことを思い出した。世の中はちょっとした騒ぎになっていた。
 開国してから、まだそんなに年数が経ったわけではないのだ。その日本で、これほど大きな海外の事業に投資するための会社を興したのであるから無理も無い。
「なぜ日本の資金が必要なのですか?有望な鉱山であれば、欧米からいくらでも資金を呼び込めるでしょう。なぜ、欧米はその鉱山に手を付けないのでしょうか。」
「現地はアンデス山脈の中にあって、非常に険しいところで、つい最近まで鉄道も無かったような所です。現地を見れば、なぜこれまで手付かずだったのかお分かりになるでしょう。事実、今となっては欧米も多大な関心を寄せています。ですから、先を越されぬようにしなくてはなりません。」
 晴雄は記者の質問に答えた内容を思い出しながらも、若干の不安を感じないでは無かった。何しろ、現地を見たと言っても巨大な鉱脈なのであり、測量自体が一大事業なのだ。一人技師が行ってどうなるものでもない。この事は日本の組合の連中がどれだけわかっているのであろうか。
 
 三人の渡秘のひと月ほど前、すなわち十月四日に、前田正名せいなを発起人とし、高橋是清が代表取締役となり、これに晴雄を含む二十四名の株主によって資本金五十万円で日秘鉱業会社は設立された。
 
『日本の資本、初めて国外に投じられんとす、南米開拓=日秘鉱業会社設立、其成否如何は後來日本の海外雄飛に影響』
 
 晴雄たちの出発の前、このような見出しが新聞各紙に踊っていて、世間は湧きだっていたのだ。
 
 是清と晴雄を乗せたゲーリック号は、サンフランシスコに向けて横浜港を出帆した。もう一人、背の低い、口髭を蓄えた、細顔の男、屋須弘平が乗船していた。
 旅程では、サンフランシスコから船を乗り換え、アカプルコやパナマなど細かく経由することになっていて、最終的には秘露ペルーはリマの外港であるカジャオを目指していた。
 十一月も終わりの頃で、横浜の湾の中は明鏡止水のように静かだった。港の岸壁の方には枯れ葉が多く浮かんでおり、船が岸壁から離れると、それらの葉が船の作る波にまとわりついてきた。
 晴雄は右舷スターボード後方で、船の作り出す渦に巻き込まれて沈んでは再び浮かび上がる枯れ葉を確認しながら、行く末に思いを巡らせていた。
 晴雄は一旦船室に入ったが、気持ちが落ち着かず、再びデッキに出た。船が出帆して数時間経ち、秋深い日の早い暮れは空が茜色に染まり、感傷に浸るには十分過ぎるほどの景色だった。
 
 夜になり、晴雄は船室に戻ってその感傷を続けていた。船窓からは下弦の月が見えたが、夜の海を照らすには十分だった。風もなかったが、晴雄は黒い海の静けさを凝視しながら、気持ちを落ち着かせようとしていた。
思えば、秘露ペルー行きが決まってからというもの、晴雄は是清から急かされ続けていた。
「何度も繰り返しになりますが、確かなことは試掘をしてみないことにはわかりません。私は鉱床が露出しているところを見ましたが、鉱床がどのくらいの規模なのかは、ドイツの鉱山雑誌を頼りに推測したに過ぎません。」
 烏森からすもりの桝田屋で、晴雄と是清の二人だけで議論になったこともあった。
「鉱山の事業とはそういうものではないか。当たるも外れるも運次第なのだ。しかし、株主を募って資金を集めなければ、そもそもこの話は先に進まないのである。だから、株主を集めるためにも鉱山が有望であるという報告書が必要なのだ。」
「株主がみなそういう事情を理解されているのであれば良いのですが。」
 晴雄は是清にそうした報告書を纏めるよう促された。そうしたことを思い出していると、晴雄には、幾千、幾万もの船や船乗りを飲み込んできた海が、その幾多もの死体による腐臭を放ったまま、三人を飲み込もうとしているかのようにさえ見えたのだ。
 
 太陽が大海原を照らしていた何日目かの朝、晴雄は屋須にデッキで聞いてみた。
「スペイン語に堪能だということですが、どういう経緯でこの秘露ペルー行きに参加することになったのですか?」
 スペイン語の通訳としてこの秘露ペルー行きに参加したが、元来真面目な医師でもある屋須は、厳しい顔をしながら海を眺めていた。
「どうもこうも、無理やり高橋さんに引きずり込まれたのです。」
 屋須は、年老いた母と姪の三人で築地で静かに暮らしていた。長い事母親を放っておいた負い目もあって、今は母の面倒を見るために側にいるべき時だと思っていた。そこに是清から連絡があり、是清の大塚窪町の家に呼び出された。秘露ペルーで事業をするから、スペイン語ができる者が必要だ、一緒に秘露ペルーに行ってくれないかと。
「母を置いては行けないからと固辞したんです。それでも、この事業はこの国の将来のために必要だからと。さらに、強引に母を説得するために、とある偉い人から母に根回しまで済ませてあって、とうとう私はその母から秘露ペルー行きを説得される始末です。」
 屋須は、苦笑することもなく、厳しい顔つきのまま淡々と語った。
 
 十二月一日、船はサンフランシスコに着いた。サンフランシスコの領事館員が出迎えに来てくれて、一行をホテルまで案内してくれた。是清はその領事館員に、明日領事館に出向く旨を伝えて、その晩はもうひたすら眠ることとした。
 翌日、是清が領事館に出向き、初めて領事である河北俊弼としすけ大佐と面会して握手を交わした。河北は是清に会った早々、懸念事項を伝えた。
「それほどの有望な鉱山であれば、なぜ欧米各国から資金調達しないのでしょう?莫大の資金が必要としても、有望であれば資金調達はそれほど難しくないはず。なぜわざわざアジアの端にある遠くの国に資金を求めるのでしょうか」是清が答えようとする間もなく、河北は続けた。「秘露ペルー政府は、国内の鉄道建設のために英国系のグレイス商会から借入れを起こしたようですが、そのために関税収入や鉱山を抵当に入れたと聞いています。貴君らが資本を投下し事業を始めたところで、グレイス商会が抵当の権利を行使してしまえば元も子もなくなるのではないですか。極めて危険な取引のように思えるのですが。」
 是清は十分調査した上でのことなので大丈夫だと自信満々に答え、逆に尋ねた。
「河北さんは、一体、英国の抵当に入った鉱山はいくつくらいだとお考えですか?」
「詳しくは知りませんが、多分、五百くらいではないでしょうか。」
 その答えに是清はますます自信を深めた。「それならば秘露ペルーの鉱山の数百分の一に過ぎないですから、我々の鉱山が抵当に入っている可能性は万に一つもないことでしょう。」さらに是清の、物事の良い方しか見ない性分が顔を出した。「英国から借入れをして鉄道を敷くということであれば、我々にとっても事業がやりやすいことこの上ないのです。」
 是清にはこういう楽観的なところがあった。とにかくこの銀山投資はチャンスなのだ。チャンスは逃してはならない。そして是清には成功しか見えていないのだ。
 
 十二月三日、一行はサンフランシスコをアカプルコ号で出発した。船はアカプルコやグアテマラのサン・ホセに寄港したが、そのサン・ホセで屋須は、かつてここで暮らしていた時の友人などと挨拶を交わすことが出来て、船の上では見せなかった笑顔を振りまいていた。
 
 船はいよいよ秘露ペルーに近づいていった。船上でクリスマスを迎えると、キリスト教徒の、それもカトリックの多い乗客は、真剣に祈りを捧げるとともに、大いに祝った。是清はアメリカ滞在の時に見たクリスマスが船上で再現されていることに懐かしさを感じていた。
 そしてそのまま三人は、船上で元旦を迎えた。その元旦初日、是清は海風を楽しむために船のデッキに出た。いよいよ秘露ペルーが近くなったのだ。
「高橋さん、潮風は体に障る。船室に戻りましょう」
 屋須はそう促したが、是清は意に介さなかった。
「今度の旅は、この国の命運がかかっていると言っても大袈裟ではない。富める国となり、貿易で三等国と見くびられないために、また、外国との大きな商談の経験を積んでいくためにも、諸君らはどのように感じているかわからぬが、わしは国を背負っている心持である。」そして、船室から持ってきたシャンパングラスにシャンパン注いで屋須と晴雄に渡した。「秘露ペルーに!」そう言って、乾杯を上げた。
 
 秘露ペルーのカジャオ港につく前日、サラベリー港を発った後の晩、ひどい濃霧に襲われた。船は無事に進んではいたが、一夜にして船の白ペンキの色がまるで鉄が錆びたように剥がれ落ちていた。
「何があったのか?」
 是清と屋須が心配したが、晴雄は理学士らしく船体を調べて回った。
「硫黄のような匂いが残っています。船体の錆は硫化ガスに対する化学反応のように見えます。ガスが発生したのではないでしょうか。海の上で硫化ガスが発生することがあるのかどうか知りませんが、近くに海底火山でもあるのかも知れないです。だが、船の運航に支障があるような損傷は無く、問題無いようです。」
 船員に聞くと、この現象はカジャオ・ペイントと呼ばれている硫化ガスの発生によるものということで、この辺りの海ではしばしばあるということだった。是清や尾須はとりあえず胸を撫でおろしたが、肝を冷やされた現象だった。何とはなしに悪い予兆のような気もしたのは事実である。
「地獄に足を踏み入れたかのようだな。」
 是清は笑ったが、晴雄は笑えなかった。晴雄には元々、やや神経質なところがあったが、顔は強張こわばり青白さが一気に増したようだった。


交渉

 年が変わって、明治二十三年(1890年)一月七日、一行の船はカジャオの港内に入った。すると、一人の浅黒い、現地の者と思われる男が船に乗り込んできて、スペイン語で話しかけてきた。屋須に通訳させると、へーレンの使いだという。
「へーレン氏の言いつけによりお迎えに上がりました。へーレン氏は今、休暇で別荘に行っておりますが、今、こちらに向かっております。」
 へーレンの名前が出てきたのだから、怪しい者ではなさそうだ。そう言われて、一行は、荷物をこの男に預け、船を降りようとした。その時、小さな蒸気船が近づいてきたのに気付いた。その船から、端正な顔をして、濃いグレーのスリーピースをしっかりと着こなした白人の男が一行の船に乗り移って来て、晴雄の姿を見つけると、手を上げて微笑んだ。そして、是清に近づき、尋ねた。
「Mr.Takahashi?(高橋様ですか?)」
「Yes, I am.(いかにも)」
「Very Grad to see you.(お会いできて嬉しいです。)」
 へーレンだった。
「ここからリマ市内まではすぐですが汽車になります。私の家もリマ市の中心から近いところにあります。是非、お寄りいただき、今日は泊って行っていただきたい。歓迎会の用意もしてます。」
 一行は言われるままに汽車に乗り、そしてリマに着いたが、是清は歓迎会については固辞した。
「そんなことを仰らないでください。家が気に入らなければ、すぐに市内のホテルを手配致します。まずは長旅の疲れを取っていただきたいです。皆さまは私の大事なビジネスパートナーとなるのですから、そのくらいの持成しをさせてください。」
 是清はすぐさま反応した。
「ビジネスパートナーとなるとしても、まずは契約改定の交渉をしようという段階ですから、その相手方から便宜を受けるわけにはいかんです。我々には後ろに株主が居ますから。」
「そう仰らずに...すでに食事も用意してしまっています。来ていただかないと私も困ります。」
 是清はまだ考えていたが、最後には折れた。「そこまでおっしゃるなら...」
 一行らが案内されたへーレンの別邸は、キンタ・へーレンと称する大邸宅であった。建物はヨーロッパ風の石作りで、オーストリア=ハンガリー調だということであったが、建物の前には椰子の木が規則正しい間隔を開けて植えられていて、写真で見た南アジアの英国の植民地にある建物のように感じられた。その建物は新館であり、是清等一行が秘露ペルーに来るということで、建築を急いで完成させたということであった。
 また、その建物の裏庭が庭師松本が整備した日本庭園になっていた。日本風の山水の庭であり、その築山の上には四阿あずまやというには大きすぎる二階建ての小屋があったが、展望台だということだった。そこに登ると、広大な敷地の全貌が判った。池からは噴水が勢いよく出ており、池の向こうには日本家屋も見えた。松本らしき者と秘露ペルー人の見習い庭師が揃いの法被を着ていたが、背中には月桂樹で飾った大文字Hが書かれていた。へーレンの商標らしかった。
 一行は展望台を降りて、寺にあるような飛び石の道を歩いてその建物に近づいた。中をよく見ると、なんと縁側までこしらえているではないか。
「ほお、立派なもんじゃのお。」
 是清は、へーレンの日本趣味に半ばあきれたように呟いた。
 一行は建物の中の食堂に案内された。その部屋には、様々な絵画や日本の墨絵らしきものが飾られていたが、その中に若き日の、日本時代のへーレンの写真があった。へーレンは洋装ではあるが、日本人の人夫の弾く人力車に乗って満悦な様子だった。
 是清たちは、感心しながら眺めていたが、やがて準備が出来たので席に着くよう促された。かなり立派な晩餐会が準備されていて、欧州から取り寄せたワインが振る舞われ、またピスコと呼ばれる酒も振る舞われた。葡萄から作られる蒸留酒と説明されたが、色は透明だった。
「これは...」
 葡萄の香りも微かに残るが、ワインのような渋みはなく、蒸留酒特有の、舌にピリッとする感じの口当たりの酒だった。葡萄の酒と聞いてブランデーのような味を想像していたものの、むしろ、ウォッカや焼酎に近い感じがした。
 料理は魚主体であり、また味付けもあっさりしたものであったため、日本人の口にも合った。一行はワインやピスコを勧められるままに飲み干し、すっかりと出来上がってしまった。食事が終わって、心地よい雰囲気の中、是清が切り出した。
「ミスター・へーレン、かねてからお願いしていたように、我々が落ち着いたら契約の再交渉を願いたい。ここ二,三日は、日本に電信を打ったり、荷をほどいたりと何かと忙しいので、十日からくらいでどうですか。」
「ミスター・タカハシ、どのような条件になるかは存じませんが、まずは何でも仰ってください。また、契約の話をする前に、まだまだ私の歓待を受けてください。別邸にも案内します。そこで家内にも会っていただきたい。これから、大きな事業を一緒にやって行こうというのです。契約は契約として、もう貴方と私は家族同然ともなりましょう。それにしても、ミスター・タカハシはアメリカにおられたことがあるということで英語が御上手だとは聞いていましたが、これほどまでとは思いませんでした。ミスター・マエダからも誠実なお方であるということは手紙で報告を受けていましたが、頑固な面もあるということまでは聞いていませんでした。」
 これには一同大笑いした。
「既に私の性格をお知りになったということで、ビジネスをする上では良かったことでしょう。一方、契約の交渉相手としては、こちらの手の内を知られたようで、むしろ私どもの方がこれから貴君を手強いと感じることでしょう。」
 是清も大笑いしながら、これからの契約交渉相手に社交辞令を使い、牽制をした。
 是清は、二十四名の株主の人となりについても説明した。そして、この事業は今後の日本の海外事業などの先駆となるもので、この成否は単なる事業の失敗に止まらない、そういう覚悟で事業を経営していく所存である旨を伝えた。
 話は大いに盛り上がり、二人は結局、その日は夜中近くまで、酒を飲みながら話しこんだ。
 
 約束通り、十二日にはへーレンの別邸を訪ねた。別邸はキンタへーレンほど大きくはなかったが、裏庭からはサン・クリストバルの丘が見えた。アンデス山脈が町の近くまで迫っているはずのリマでも町の中からは意外と山の景色が見えないのだが、ここから見える景色は気持ちの良いものだった。
 カルメンと言う名のへーレン夫人にも面会したが、カルメンは上品な顔立ちのラテン美人だった。ただ夫人は是清には一応の愛想笑いを見せてはくれたが、どこか不満げな表情も見せていた。ヘーレンがこれから是清と取り掛かろうとする鉱山事業が気に入らないようであった。鉱山事業は、農場経営に比べれば極めてリスクの高い事業だ、無理も無かろう、是清はそう納得していた。
 その翌日、午前十一時くらいから、契約交渉はキンタ・へーレンで始まった。先日、宴会をやった部屋の隣の、マントルピースのあるやや小さめの部屋で、二人は向かい合った。晴雄も同席した。
「Now, let’s get down to business!(早速、本題に入りましょう)」
「Fine!(結構です)」
 是清は持ってきた紙を取り出した。英語で様々な条件が書かれていた。
「有限責任日本興業会社をリストラクチャリングしたい。」
 是清のしょっぱなからの先制攻撃にへーレンは明らかに動揺していた。是清は構わず、提案の趣旨を説明した。
 
『一 定款上の会社目的を「鉱業」と定めること
一 会社の資本金を十五万英ポンドとして、秘露(ペルー)の法律に従い、有限責任とすること
一 会社の資本金は、五十%を日本組合の負担とし、残りの五十%をへーレン氏の負担とすること
一 株式を原則譲渡禁止とすること、但し、一回でも利益配当を行った後は、譲渡が認められること
一 株式の譲渡は会社が承認し、登記したものでなければ効力を発しないこと
一 鉱山の坑夫は日本人とし、その他の事務員、技師等の使用人は、会社利益の最大化の妨げにならない限り、日本人を任用すること
一 会社設立時の計算は以下の通りとすること
起業費計 十五万英ポンド
鉱山、石灰山および地所購入費
八万一千英ポンド
器械および建築費 四万三千英ポンド
労役者渡航費 七千四百六英ポンド
役員渡航費 三千六十五英ポンド
渡航者前貸金 三千七百四十九英ポンド
準備金 一万四千四百八十英ポンド』
 
 是清から提案を聞くや、へーレンは声を荒げた。
「会社目的が鉱業とはどういう意味です?農場経営はどうするのですか。」
 是清は事も無げに、当然のように答えた。
「農場は会社事業から外したい。鉱山開発に専念したい。」
 へーレンの顔はすぐさま紅潮し、まるで今にも机をひっくり返さんばかりに声を荒げた。
「You must be joking! (冗談でしょう) Absolutely ridiculous!(全くばかげている)」
 へーレンはすぐに冷静になるべきであることを悟り、軽く呼吸を整えると静かに話した。
「そもそも、私は農場経営をするために日本へ井上を遣ったのです。私は鉱山の事は素人です。秘露ペルーという国の事を知ってもらうために井上にあの石を持たせましたが、私の意に反して、貴殿たちが鉱山事業をしたいというので、ビジネス上の付き合いとして手伝っているに過ぎません。ここは再考を願いたい。」
「この国の土地、気候が農業にとって良い環境であることはわかった。しかし、日本において農地が不足しているわけでもなく、また、この地で農作物を育てても、日本に輸入するには距離と時間の関係で難しいであろう。そうすると、農場経営に関して日本の株主にとっては中々興味の湧かないところなのは仕方があるまい。このことは理解されたし。」
「何も日本に輸出するだけではないです。また、野菜のままではそれは腐り果ててしまうでしょうが、まさに皆様に振る舞った蒸留酒など、日本で商売になるものが生産できるでしょう。」
「残念ながら、ワインなどの酒はまだ日本には根付いておらず、またワインは欧州から来るものと相場が決まっている。秘露ペルーのワインや葡萄の蒸留酒など、物好きしか買い求める者はおらんだろう。」
 へーレンは最後に懇願するように訴えた。
「鉱山の運営上にもプラスとなるはずです。山の上では、農作物はほとんど取れませんが、この農場で作ったものを鉱山に届けることができます。また、疲れた坑夫がこの農場まで降りてきて、体を休めることもできるでしょう。農場はこの事業における、まさにリマの拠点となり、様々なものを提供することができるのです。」
 へーレンから、そう聞いて、是清も考え込んだが、その日は結論が出なかった。
 翌日、翌々日も、ずっと水掛け論が続いた。時に激高し、また時に相手を懐柔させようと双方が交渉に策を巡らせたが、進展は無かった。
 その翌日、その日も話が全く進まずに、昼食の時間となった。是清と晴雄はキンタへーレンの庭が見渡せる食事の部屋に案内された。晩餐ほどではないが、かなりのボリュームのある食事だった。
 出されたワインで食べ物を胃に流し込みながら、是清は庭を眺めていた。日本庭園が見える側では無かったが、アンデスにもつながある丘が庭の向こうに見える位置が気に入った。その風景を眺めながら、あることを思いついた。午後からの折衝で是清は考えを改めたのだ。
「よろしい、貴殿がそこまで熱心に言うのであれば、農業を会社事業に含めることに同意致しましょう。」
「ご理解いただけましたか。有難い。」
 へーレンが握手を求めてきたが、是清は冷静にこれを拒み、話を続けた。
「農場の価格と様々な費用についてお互いに計算が必要でしょうから、価格については明日にしましょう。」
 その日の交渉を終了させることで二人は同意し、是清は投宿先であるリマ市内に向かった。
 
 市内を歩いている時、是清は晴雄に話しかけた。
「契約の交渉というものは、時間がかかればかかるほど、お互いが錯覚に陥るものだ。交渉に時間がかかるのはお互いに譲れぬところがあるからだが、時間がかかるうちにここで契約交渉打ち切りとなって話がご破算になれば全ての苦労が水の泡になるという思いがもたげるのだ。お互い、そこまでいがみ合って、角突き合わせて、交渉決裂の一歩手間までに行くと逆に、契約の一字一句にこだわりがあったのが嘘のように、何としても協力して契約を纏め上げなくてはならないという気持ちに陥るものだ。そうなるともういかん。後で契約を見て、なんでこんな条件を受け入れたのか後悔することとなるが後の祭りだ。」
 是清は、この事を自分にも言い聞かせていたのだが、晴雄は知る由も無かった。
 
 リマの市街は、活気に満ちていた。ホテルのあるセントロ地区は、欧州、特にスペイン風の建物が並んでいて、是清達と同じように、欧州や北米から一攫千金を求めて、慌ただしく活動していた。
 英国人が多いのに是清は気付いたが、1887年に英国と結んだ条約のために、鉱山事業だけでなく、農業などの多くの分野で英国の進出が進んでいるのだと聞いていた。
 また河北氏が言っていたように、この国の経済は今やスペインに変わって英国が牛耳っているかのようだった。この頃は、特に砂糖の事業が有望ということで、英国人が商売に励んでいるということだった。
 
 ホテルの部屋で、是清と晴雄は農場の機器類、日本人農夫への給与、その他費用を計算し、翌日の交渉の準備をした。
 翌日、一月十五日、お互いに持ち寄った費用計算を確認した。へーレンと是清達でそれほど開きはなく、昼前に、農場を一万三千英ポンドとし、費用を六千四百十二英ポンドと計算した上で、日本組合が六千英ポンドを負担、へーレンが一万三千四百十二英ポンドを負担することで同意した。
へーレンは大いに喜び、是清と晴雄と何度も握手をした。しかし、本当の交渉はここからだった。鉱山だ。
 
 次の会合から、鉱山事業についての折衝を始めた。へーレンは晴雄の進言通り、サン・フランシスコ・デ・カラワクラ、リマック、リマの三鉱区を押さえていた。
「この三鉱区について、進言通り購入しているので、これを会社に引き渡すこととしたいです。進言に基づき購入したものですから、これはその時の購入価格で買い取ってくれれば結構です。」
 そこには全く意見の異なるところは無かった。
「問題は、私が押さえたカラワクラ銀山の隣接の六鉱区ですが、こちらは、少々、苦労して手に入れたもので、会社が購入するかどうかわからない中、リスクを負って購入したものですから、一万三千英ポンドで農場を差し出す代わりに購入していただきたい。」
 へーレンの申し出について、是清は晴雄に日本語で尋ねた。
「どうなんだ?鉱山事業に必要な土地なのか?」
「必要な鉱区です。しかし、一万三千英ポンドは高すぎます。」
「ふむ。」
 是清はへーレンの方に振り返り、強い口調で言った。
「そもそも貴殿は農場を共同事業としたいということで、先日来この契約を交渉してきたはずであるのに、今の段階になって、会社に対して農場ではなく鉱区を売りつけようと言うのはまるで筋が通らないではないか。その鉱区だって、我々日本組合との契約の前に貴殿が購入したものであるならば、多少高い値を吹きかけてくるのも理解はできる。しかしながら、貴殿は既に日本組合と契約を結んだ後でそれらの鉱区を購入してこれを会社に売りつけようというのであるから、利益が相反している話である。全く、誠実な取引とは言えないではないか。」
 へーレンは顔が少しばかり青ざめていた。
「しかし...この鉱区について、多くの商談が来ているのは本当です。その点も考慮に入れていただきたいです。」
 この事がネックとなり、この日は物別れに終わった。
 
 翌日、へーレンは一つの電信を持ってきた。
「これをご覧いただきたい。かように英国の会社からこの鉱区の購入の打診が来ています。条件も良いですし、私としてはこちらに売っても良いのですが、折角、こうして日本と事業をしようと言うのですから、是非、有限責任日本興業会社で購入していただきたいのです。」
 是清が晴雄の方に振り返ると、晴雄は無言で首を横に振っていた。
「少し、二人で話をしたい。」
 是清はへーレンにそう言って席をはずそうとしたが、へーレンの方がうなづいて席を外した。
「完全に足元を見られています。」
「あの英国からの引き合いというのも本物かどうかわからんな。典型的な山師のやり方じゃないか。しかし、六鉱区が必要なのは間違いないんだよな。」
「そこは...必要であることは間違いありません。」
 是清は少し上を向いて考えていたが、すぐに腹は決まった。
「よし。いい考えがある。」
 晴雄は外で待機していたへーレン邸の下僕に、へーレンに部屋に戻るよう伝えてくれと頼んだ。へーレンは部屋に戻るからには話は決まったのだろうと、にこやかな顔をして部屋に戻ってきた。
「農場の代わりに六鉱区を会社が購入する件、お受けしよう。」
「それは良かった。」
 へーレンが喜んだのも束の間、是清は条件を提示した。
「このキンタへーレンを会社資産に組み入れることが条件だ。つまり、キンタへーレンを会社に現物出資するということだ。」
 この提案によってもへーレンの出資額が七万五千英ポンドということに変わりはなく、払い込む現金が少なくなるだけだ。
 リマの中心地に近く、不動産としての価値の高いこのキンタへーレンを会社の財産として現物出資させることで、銀行などからの融資を受ける際の抵当としての会社財産を増やすことができるし、ここを会社本部とすることもできる。
 へーレンにとってもそれほど不利益になるものではないが、是清としては何よりへーレンを事業から逃さないようにするために、最善の策に思えたのだ。
「少し考えさせてくれ。」
 ヘーレンがそう言うとその日の折衝は御開きとなった。
 
 翌日、へーレンは条件を承諾した。
「妻とも話したがキンタへーレンを会社財産に組み入れることに同意しよう。」
 元々、鉱山事業に反対だったへーレンの妻にしても、農場を差し出すよりもずっと良い条件だと思えたのだろう。
 ここに契約は成立した。へーレンと是清は握手した。秘露ペルー有限責任日本鉱業会社が誕生したのだ。
「契約書の調印は、一月二十日としましょう。これで晴れて事業はスタートなる。大変、喜ばしい。高橋氏におかれては日本から早速、坑夫を呼んで、一日も早く開山することとしましょう。」
「ああ、その事なら心配には及びません。坑夫は既にこちらに向かっており、もうじき到着します。すぐに開山し、拠点となる事業所と精錬所を建設します。できるだけ早くに採掘を始め、三年以内には精錬を始める所存です。」
 へーレンは是清の手際の良さに唸るばかりだった。
 
秘露ペルーで商売をするのであれば、英国人商人達とも交流を持っておいた方が良いでしょう。」
 へーレンの提案でアンコンというリゾート地にある英国人商人のガルランド氏の家を訪ねた。そこでの歓待が秘露ペルー有限責任日本鉱業会社の設立記念パーティを兼ねたかのようなもので、一行に取ってはとても楽しい催しであった。
 ガルランドは長い口髭をはやした、ずんぐりむっくりした体形の男で、何となく親しみの持てる男だった。是清は街で英国人を見かけた時に思ったことをガルランドにぶつけてみた。
「貴殿の国イギリスや、フランス、ドイツといった欧州の一流国では、極東の小さな国である日本から来た商人などバカにされて相手にされていない。そこで私は、かねてから日本人商人は欧州の一流国とは異なる、この秘露ペルーのような南米の国との交易を広げていくべきではないかと思っておったところです。しかるに、かように秘露ペルーに英国人が多いのは何故です?英国は南米をも手中に収めようとお考えなのか?」
 ガルランドは大いに笑った。
「確かに外国に軍隊を送り付け、力で権益を広げるというのも英国の伝統でしょう。そのような考えの者がまだ多くいることは事実です。しかし、時代が変わりつつあります。貿易です。今世紀初頭くらいから、人々の考えも貿易重視に傾いてきています。日本からだっていろんなものを輸入するはずです。日本の商人がうまく行かなかったのは商品の見せ方が上手くなかったか、語学力の問題でしょう。貴殿のような方が商人になれば成功間違いなしでしょうな。」
 是清は考え込んだ。そして少し話を変えてみた。
秘露ペルーにもこうして英国が進出しているのには驚きましたが、鉱山にも触手を伸ばしているのですか。投資熱が起きていると聞いていますが?」
「確かに秘露ペルーの鉱物資源は魅力です。興味を持っている者が多いのは事実です。私もちょうどみなさんが開発しようとしているカラワクラの近くにも鉱山を持っています。何なら、お寄りになって見学して行ってください。でも、銀山投資は今後、慎重に考えないとならないでしょう。というのも貿易における銀本位制とも言うべき状況が崩れつつあります。今、銀の相場は軟調です。投資に見合う採算を得るのが難しくなりつつあります。また、鉱山事業は難しいです。リスクが高いし、詐欺まがいの連中も大勢います。騙されないようにするには相当の情報収集が必要です。みなさんは大丈夫ですか?」
「その点は、そこの田島君が去年、実地で鉱山を見ているので大丈夫でしょう。」
 晴雄は何か責任を押し付けられているような気がして不快であったが、口を挟むことはしなかった。
「そうですか。何しろ詐欺師もそうですが、山の麓の住人が曲者でして、とにかく金を落とさせようとそれはもうやたらと歓待してくるのです。要するに、鉱山をきちんと調査させない魂胆なのでしょう。彼らにとっては地元に作業場の一つも作らせればそれだけで当分の間は潤いますからな。」
 晴雄は黙って聞いていたが、昨年の調査の時に山の麓の町で歓待攻めにあったことを思い出して、さっきの是清の責任転嫁と合わせてかなり不快になった。それは自分にも思い当たるところだったからだ。
 ガルランド邸での歓迎会では、美しい令嬢によるピアノの演奏などもあって、非常に楽しい時を過ごせた。それなのに是清の胸にも晴雄の胸にも一抹の不安が芽生えたのだった。
 
 翌日、案内されてアンコンにあるインカ帝国以前の遺跡をみんなで尋ねた。広大の墓地の遺跡ということだが、ところどころ建築物の遺構もある。
 みんなが陶器などの埋葬品を掘り出すのに熱中している間、是清は眺めながら晴雄に話しかけた。
「立派なもんじゃのお。ここに眠っている者達は何を考えていたのかのお...」
 晴雄は真面目に答えようとしたが、是清が笑いながら遮った。
「何も考古学的な見解を聞こうというのじゃない。わしの勝手な解釈ではこうだ。ここの者達はみんな自由を求めて、自由を熱望しながら、それを手にすることなく死んでいったのだ。」
「自由ですか...」
「そうだ。この者達が奴隷だったというのではない。身体的な拘束だけではなく、人は飢えから逃れたい、病から逃れたい、そう思って生きていたのではないか。」
 晴雄はなるほどという顔で是清に応えた。
「そして、それは人間の宿命でもあるが、しかし豊かに成れば、薬が買える、食べ物を買える。つまり豊かになることことこそが自由への道なのだ。無論、金だけあれば幸せになれるというものではない。それは当然だが、しかし金が無ければ病に倒れ、飢えに苦しむのだ。だから、それらの苦労から自由になりたいと思えば、豊かになることだ。俺はそういう思いでこの事業をやっておる。日本はまだまだ貧しい。わしもかつては日本は保護貿易によって金貨の外国への流出を防ぐべきだと考えておった。しかし、この銀山の事業を成功させ、国に富みをもたらせば、外国との貿易へ打って出ることができる。少しでも自由に近づくんだ。そうは思わんか?」
 晴雄は特に口にはしなかったが、大きく頷き、賛意を示したのだった。


アンデスの幻

 抗夫達が日本から到着して、いよいよ鉱山を目指して出発できる体制が整ったが、昔から鉱山で働くような者たちは荒くれ者と相場が決まっていた。坑夫達は秘露ペルーに着いてからも、坑夫達同士や、あるいはへーレンの使用人たちとの間でいざこざばかりを起こし、騒ぎが絶えたことが無かったくらいだった。
 山口慎という是清と旧知の中の男が是非とも自分も秘露ペルーに行きたいと言って、坑夫達と同じ船で秘露ペルーにやってきたのだが、坑夫連中はその秘露ペルーに来る途中の船でも常にいざこざを起こしていた。そこで結果として、山口がこの荒くれ男たちの面倒を終始見るはめとなっていた。
「日本人というのは、皆礼儀正しい者たちだと思っていたんだが。」
 へーレンが屋須にこぼした。
「へーレンさん、築地にいらしたことがあるなら覚えてらっしゃるでしょう。毎年、花見の季節になれば、酔っ払いがそこかしこで乱闘騒ぎを起こしていたのを。」
 屋須は珍しく笑いながら、へーレンに思い出させようと日本の乱痴気騒ぎの話をした。
「それにしても、確かに、この連中は特段に元気が良いようです。」
 屋須の話に晴雄が納得できる説明を加えた。
「鉱山で働く人間には、元々荒くれ者が多いんです。やくざ者と言って良いです。だいたい、いつも酒飲んで暴れていてやくざ者の巣窟となってしまっているんです。いくら言っても酒と博打を彼らから取り上げることなどできませんでしたよ。」
 へーレンがやっと納得し始めたところ、またもや、酔った坑夫同士が大喧嘩を始めてしまった。山口は何人かの抗夫を投げ飛ばし、やっとこれを治めた。晴雄は酔って暴れたままの男を取り押さえた。しかし、一瞬気を許した時に再び暴れて、これを取り押さえる時に足に怪我してしまった。かなり深く切ったのと、捻挫のような痛みが出てしまったのだ。屋須が心配した。
「田島さん、大丈夫ですか。これでは登山できないのではないですか?」
 晴雄は痛みを堪えてはみたものの、これでは登山など到底、無理に思われた。この話を聞いて是清は激怒して坑夫達を叱りつけた。
「諸君らがそのような乱暴狼藉を働くのであれば、今すぐ日本に帰ってもらいたい。ここで今後、行動を慎むことを誓約できぬものは、この事業には参加させない。」
 是清はこうは言ったものの、山口からこの連中の船中での狼藉ぶりを聞かされていたので不安ばかりが高まっていた。晴雄の怪我を見て是清もあきらめ顔になった。
「田島君は無理だろう。日本人の案内も欲しいし、鉱山を調べてもらいたかった。残念だが致し方あるまい。」
 
 二月十二日の朝、是清、屋須、山口と何人かの坑夫達とでカラワクラへ向けてリマのモンセラーテ駅から中央鉄道に乗り出発した。サンフランシスコ領事の河北氏が指摘した、グレイス商会からの借款によって作られたペルー中央鉄道だ。
 カラワクラ鉱山は四千メートルを超える高い地帯にあるので、時間をかけて行かないと高山病になるという医師の忠告も受けて、近くの町チクラまで丸三日間かけて行くこととした。
 列車は日本の山間と似たようなところも走ったが、多くの山は岩肌が露出しごつごつしていた。さらに列車がアンデスの山に入っていくにつれ、急峻で肝を冷やすような崖やとんでもない高い位置に架けられた橋をいくつも渡っていった。
 列車は何度もスイッチバックして山を登って行く。その度毎に一気に高度が上がり、空気が薄くなっていくのを実感した。周りの景色もどんどん変わっていく。チクラに近づくと木が少なくなり、高原特有のハンノキなども見られなくなった。
 汽車が中央鉄道の終点、チクラに着いたが見事に何もないところだった。このチクラが三千七百三十四メートルである。カラワクラはここからまだ登っていかなくてはならない。富士山に着いてからさらに上に登っていくようなものである。
 この高地特有の空気の薄さで、是清は高山病になってしまった。仕方がないので体を慣らすためにチクラで二日間泊まった。是清も三十五歳になっていた。年齢的に体力の落ち始めの頃ではあったのだ。
 二月といっても、ここは南半球であり、今は夏なのだ。アンデス登山には良い季節に思えたが、この辺りは雨期に入っていた。チクラでは、午後になると必ずと言って良いくらい雨が降った。標高が高いので夏といっても気温が低く、雨に濡れれば、ただでさえ疲れた体からさらに体力を奪って行く。体力の回復のために二日間必要だった。
 そうは言ってもいつまでも何もないチクラの町には居られないので、高度に体が慣れたところで、一行は再び山を目指して出発した。ここチクラからヤウリという町までは鉄道もない山道だった。もっとも、建設予定の中央鉄道延伸のため切り開かれた道が既に出来上がっていた。そこをつたってヤウリを目指して歩き始めた。この辺りにはもはや草木もなく、荒涼とした地獄のような景色が壁のように広がっていた。
 ヤウリは標高約四千二百メートルである。そこに辿り着くためにまだまだ山を登っていかなくてはならない。是清は国家の為に命を賭する覚悟だと言っていたが、多くの抗夫にとってそこまでの気概があるわけもない。ヤウリに着くなり、現地人とまたいざこざが起きた。いや、起こしたと言うべきだろう。何もない山の中で、喧嘩騒ぎが彼らにとっての唯一の娯楽なのだ。
ヤウリに着いて、さらに多くの者が高山病で動けなくなった。仕方がないので、ここからカラワクラの鉱区へは、屋須と小池という技師と何人かの坑夫だけとなった。
 ヤウリに残っていた是清のところをガイヤーが尋ねてきた。
「I’m very pleased to meet you, Mr.Takahashi. (高橋様、お会いできて嬉しいです。)」
 ガイヤーは、日本では高田商会がフレイザー&チャーマーズの代理店をしていること、既に高田氏が日秘鉱業会社の株主となっている事を是清に告げた。是清はもちろん知っていた。また、鉱山の事についてもガイヤーに色々聞いておくべきだと考えた。そこで、ガイヤーに翌日の開山式に参加して欲しい旨を伝え、ガイヤーも了承した。
 翌日、是清たちはカラワクラのサンフランシスコ坑区で開山式を行った。日本のしきたりに従ってお神酒も配られるなどの神道式で行われたが、ガイヤーにはもちろん神道の知識は全く無かったので色々戸惑っていた。
 ガイヤーにもお神酒が振る舞われるとガイヤーはそれを飲み干したが、一気に表情が険しくなった。日本の酒など飲んだことが無かったガイヤーにとっては、口元に妙な甘たるさが残る異様な味に思えたのだ。酒をなんとか飲み交わしながら是清はガイヤーに話しかけた。
「精錬機械についての見積もりを頼みたい。」
 是清は、フレイザー・チャーマーズが秘露ペルーの二鉱山で実績があることを知っていた。ガイヤーはすぐに作成してキンタへーレンに送ることを約束した。
 坑夫達はすぐに仕事に取り掛かり、鉱石を掘り出し始めていた。是清は安心した。
「いよいよ、始まったか。」
 是清は作業が始まったことを見届けると、一人先に下山した。リマのホテルに戻ってから三日ほどでガイヤーからの見積もりが届いた。見積もりの金額は妥当であるとすぐに判断し、ガイヤーに精錬機械を注文しようと返事を書いている所にへーレンが飛び込むように訪ねてきた。
「是清さん、一体日本人はどうなってるんだ?」
 何のことかわからず、是清はへーレンに落ち着いて話をするよう諭し、まずは手前にあった椅子に座らせた。
 へーレンが言うには、カラワクラの鉱山宿舎で連日乱闘騒ぎが起こり、中の一人が短刀で現地の秘露ペルー人を切りつけたということだった。幸い、怪我は浅かったが、切りつけたその男が今度は短銃で撃たれた。実を言うと、男は短銃で撃たれたのではなく、短刀で切り付けられた報復をしようと秘露ペルー人が部屋に入ってきた場合にそれを待ち構えて撃つつもりで拳銃を用意していたのだが、それが暴発したのだった。
「是清さん、こんなに扱いにくく、しかも工賃も高い日本人をさらに金を出して日本から呼ぶなんて馬鹿げている。秘露ペルー人ならもっと給金も安く済むし大人しい。日本からこれ以上、坑夫を呼ぶのを止めてもらいたい。」
「何を今さら。既に日本から、追加の抗夫を呼んである。第二弾、第三弾と次から次へとここに向かっておる。」
 へーレンは泣きそうな情けない顔をして、是清の顔を黙って見ていた。是清にしても、これ以上坑夫達にいざこざを起こさせてはならないと考えた。
 
 一方、カラワクラに残っていた小池達の泊まっていたところは、石だけでできた覆いも無い、非常に寒いところで、気の荒い工夫達は、ここでも常にペルー人といざこざを起こしていた。屋須は、そうしたごたごたの後始末に追われながらも、採掘を始めるための測量を開始していた。小池が測量のためにサンフランシスコ坑区を巡回していると、奇妙なことに気付いた。荷車や、掘削道具が錆びて放置されているものが少なからずあったのである。
「かつて採掘を試みた者が居たのだろう。」
 小池は、山口、屋須と何人かの坑夫達とで顔を見合わせたが、採掘を試みた者が居たこと自体は別段、不思議では無かった。
「四千メートルを超える山で、しかも鉄道が無かった時代に、大勢の抗夫がやってくることも難しかったろう。手掘りを試みた者たちもあったかも知れないが、そんなに多くの事はできなかったのだろう。」
 山口が口にした楽観的な想像は、次に目に飛び込んできた風景によって打ち消されるのであった。
「これは石を積んだ跡ではないか。」
 山の肌と思っていたところに人工物があったのだ。小池は鶴橋でその石の垣を叩いてみた。かすかに残響音が聞こえた。
「この中に、洞があるんだな。」
 坑夫達と石垣を崩そうと鶴橋を何度も打ち付けたが、さすがに簡単に崩せるほどの人工物ではなかった。
「ダイナマイトを仕掛ける。すこし下がってくれ。」
 小池が小屋から作業用の鞄を持ってきて、中からダイナマイトを取り出して、手慣れた手付きで、石垣の数か所にダイナマイトを仕掛けた。一同が下がって様子を見ていると、激しい音と共に石垣の一部が崩れて、その先に穴らしきものが見えた。坑道の様であった。手で崩れた石垣をかき分けてみたところ、想像していたのよりもずっと大きい坑道の入り口があった。
「なんてことだ。」小池は茫然とした。
「何かおかしい。」
 小池、山口と屋須の三人にだけ笑い声が聞こえた。山が...銀の山が笑っている。秘露ペルー人に馬鹿にされたような、恥ずかしい気持ちが込み上げてきたのだ。
「入ってみっか。」
 坑夫の一人が中に入って調べる事を提案したことで三人は我に返った。一抹の不安、鉱山が既に何者かによって掘られてしまっている物だという不安を何としても打ち消したかった。きちんと調べて、鉱山自体はまだ多くが手つかずだと証明したかった。
 小池は坑道に入るような準備がなく、危険であるため躊躇したが、気が付くともう坑夫は坑道の入り口から奥へと入り込んでいった。仕方がないので小池は黙って待っていたが、坑夫はいつまで経っても帰ってこなかった。事故が起きたのであろうか。やはり十分な準備無しに中に入れるべきではなかったと小池は後悔した。
 何度も坑道の中に呼びかけてみたが応答はなく、夜も十時になったので捜索を打ち切って小屋へ戻ろうとした時、中から音がした。
「いやあ、腹が減ったので、もう終わりにすっかと思って戻ったよ。」
 坑夫が坑道から出てきたので、他の抗夫と一緒に無事を喜び、とにかく小屋へ戻って休ませることとした。この小屋へ戻る道すがら、坑夫は中の様子を話し始めた。
「いや、びっくりしたよ。とにかく、洞はかなりの大きさで、所々、水もたまっていて歩き辛かったんだ。でも、自然の洞窟のような狭さじゃなくて、大勢の抗夫が石を運ぶには十分な広さだった。」
 坑夫を小屋の中に入れて他の抗夫にお茶を入れさせた。
「それと何か食べ物を用意してくれ。」
 他の抗夫は、二度炊きして握り飯にしておいたものをいくつか持ってきた。すぐに湯が沸き、日本から持ってきた急須でお茶を入れ、穴に入った坑夫の湯のみに注いだ。
「さっきも言ったが、とにかくでかい穴だ。中は伽藍洞がらんどうの様だった。そして無数の小さな坑道があって、竜頭りゅうずのようだ。」
「とにかく、明日夜が明けてから調査をしてみよう。斯かる予想外の事態である以上、中を調査しいくつか採掘して、一刻も早くにその石を分析にかけてみないとならない。」
 山口の提案に小池も頷いた。翌朝から再び、坑夫が坑道に入って行った。できるだけ深い部分からも石を採取して、どの程度掘られたものなのか調べなくてはならない。数人の抗夫が時間をかけて、一トンくらいになる量の石を、主に最深部近く、中央当たりで採取した。
 早速、小池が分析にかかった。結果が出て、小池は愕然とした。どの部分から採取した物ももちろん銀が含まれていなかったわけではないが、いずれも低品位鉱であり、大量に掘り出し精錬しないと銀として売ることなどできない。つまり、この銀山はその主要部は数百年に渡ってほとんど掘りつくされていたのだ。
濃紅銀鉱ルビ―シルバーどころじゃない!」小池がその場で声を荒げた。
 小池は翌日、一人でチクラまで下山し、リマ行きの列車に飛び乗った。そしてリマに戻るとすぐに是清に報告した。これを聞いて是清は、顔が紅潮したのが自分でわかるほど激怒した。銀山は既に掘りつくされた廃鉱であることを知り、すぐに晴雄を自分の部屋に呼びつけた。
「どうなってるんだ。君が調査をしたと言ったから、我々は大金集めて事業に乗り出したんだぞ。」
 晴雄は必死に弁解した。
「お忘れですか。私は、現地に行って表層を調べましたが、試掘も認められておらず、調べることにも限界がありました。その事は先生にもお話したはずです。」
「それにしたって、君の報告では、鉱床から推測される含有量はこんな低品位ではなかったはずだ。」
「先生、試掘が出来ない以上、私はへーレンから与えられた鉱石見本を分析してみただけです。また、鉱床全部を測量するのは無理なんです。権威ある鉱山雑誌を頼る以外ありません。それを疑っては学問にはなりません。」
「我々は学問をしているのではない。事業をしているのだ。」
 声を荒げたところで後の祭りであることは是清にも十分わかっていた。是清はすでに次の事を考えていた。晴雄の昨年の調査報告が全て間違いであることが株主に知られたら、この事業は金詰りを起こすだろう。何としてもその前に日本に帰り、応急処置をし、新たな会社を設立した上で資本を増強しなくてはならない。それと、へーレンとの契約も何とかしなくてはならない。
 
「へーレンさん、このままでは事業は取りやめとする以外にないと思う。」
 是清が唐突に話した内容にへーレンも驚愕した。そしてへーレンの赤みがかった頬がさらに強い赤に変わった。
「そもそも、小池が何と言っているのか知りませんが、カラワクラが廃鉱であるなどというのは何かの間違いでしょう。」
「それなら再調査をしようではないか。」
 是清の提案にへーレンは気色ばんだ。
「何をおっしゃりますか。それに、小池はなぜ許可もなく下山してきたのでしょうか?本社の許可もなく、勝手に移動するような統率の取れないことは、ドイツでは考えられません。また、あの山は現時点で私の所有となっています。再調査をするというのであればきちんと契約を結び、日秘鉱業会社の所有物としてからにしてもらいましょう。」
「へーレンさん、あなたはそう言って去年の調査でも試掘を認めなかった。もしや、最初から事の次第を知っており、その上で我々を誘い込んだのではないのか?」
 是清がへーレンを詐欺師呼ばわりしたのも同然だったので、へーレンも気色ばんだ。
「そもそも、私は鉱山事業を提案したのではないです。今の言葉は取り消してもらいたいです。農場経営について日本人の力を借りようと井上を日本に派遣したところ、そちらが勝手に鉱山事業にのめり込んだのではないですか。それに釣られて、私だって既に二十五万英ポンド出資しています。誰が好き好んで自分も損する詐欺など働くものですか。」
「よろしい、へーレンさん、再契約をしましょう。」
 是清は契約条件の提案をする前に、秘露ペルーの鉱山事情に通じているガイヤーを呼んで、話をしたいと言ってその日はへーレンと別れた。
 是清があの山は廃鉱ではないのかとガイヤーに質問したところ、ガイヤーは事も無げに答えた。
「元々、あのあたりは、数百年、散々採掘された山だというのはかなり広く知られた事で、そんなことは知った上で事業化にチャレンジしようとしているのだと理解しておりました。数年前にたまたま近くで銀鉱床に当たり、少し掘ったところで高品位の銀鉱が見つかったことがありました。貴殿らが見たという濃紅銀鉱ルビ―シルバーというのはそれの事でしょう。それであのあたりを調査したことがあったのですが、銀品位が千分の一以下の銀鉱石しか出てきませんでした。この事は当社のニューヨーク本社に知らせていますので、日本の高田商会にも知らせてあるはずです。」
 是清は追求した。
「嘘だ。貴君は昨年、田島君と一緒に調査に同行して山に登っているではないか。」
「いえ、私も最初から変だとは思っておりましたが、人の事業に口出しするのも憚られますので...」
「そもそも、貴君が見積もってきた精錬機械は高品位鉱を前提としたものではありますまいか。少なくとも貴君が持っている情報を我々に提供しなかったのですから、信義則に反した行為であることは間違いありますまい。」
 是清が執拗に追い詰めたため、ガイヤーは旗色が悪くなり、冷や汗を滲ませたが、のらくらと責任回避を続けた。是清はこれ以上は口で何を言っても始まらないと考えた。裁判などで信義則にもとるとして追い詰めることも考えたが、ここ秘露ペルーの地で裁判を起こして、何等かの有利な判決を導き出すことができるものかどうか自信が無く、また得策にも思えなかった。


再契約

 次の日、キンタへーレンを訪ねると、へーレンが先に提案をして来た。
「貴殿の心配は山の価値が棄損してしまうことでしょう。そこで、事業が上手くいかなくなっても私が元の値段で買い取るという誓約をしましょう。その上で、会社財産に組み入れたこのキンタへーレンも買い戻しましょう。さすれば会社の手元現金に余裕ができ、また将来の事業への心配も減りましょう。」
 そういって誓約書案を出してきた。是清はその誓約書案を一通り読んでみたが、すぐに気付いた。
「こんなコンディション・サブシークエント(condition subsequent‐解除条件)だらけのオファーなんて何の意味がある?こんな条件は飲めない。」
 誓約書案にはへーレンが山の権利を買い取る義務が規定されてはいたが、一定の条件に当てはまる場合にはその義務が免除されるという解除条件付きの誓約だったのだ。しかも、その一定の条件というのが列挙されており、へーレンの義務としては意味を為さなかった。
 しかし、へーレンは食い下がった。
「貴殿は、なぜ日本の事ばかりをお考えなのですか。鉱山は低品位鉱しか取れないとしても、採掘を始め精錬機械を取り付ければ、利益を生むようになるのは当然ではないですか。貴殿は今、株主の方ばかりを気にされているのではないですか。株主の顔色ばかりを窺って、事業をないがしろにするかのような態度は解せません。」
「事業を続けて行くには低品位鉱を採掘して銀鉱を大量に精錬していく必要がある。今、無理をして事業を始めても利益が上がらず、株主に損失を与えることになる。最初からそれが判っていながら、事業を続けるというようなことは私の道徳心からできない。利益を生むためには、多量生産のために精錬能力を増強しなくてはならない。そのためにはさらに株主を募って資本を強化せねばならない。株主を集めることに失敗したならば、この事業にかかる日秘鉱業会社の権利は全て放棄しよう。そのために次の条件を飲んで欲しい。」
 是清がカウンター・オファーを出した。
 
『一 日本組合がへーレンの権利を六万英ポンドで買い取ること。その代金として、日本組合は現金で五万英ポンドを支払い、残りは新たに日本で設立する会社の株式とすること。
― 株主募集を六か月間行い、へーレンへの支払いをその間に行うこと。もしその間に支払いが無ければ、日本組合は鉱山に関する権利を全て失うこと
― 本契約の締結を持って、有限責任日本興業会社の契約を無効とすること
― へーレンに対する支払いがなされないことが日本側から通知された場合には、カラワクラにいる日本人坑夫に通知し、下山および帰国にかかる費用を会社財産から支払うこと。』
 
 とにかく、最初に晴雄たちが締結した契約が無効となることが重要だった。その上で、株主が集まり事業が継続できれば、へーレンにとっても悪い条件では無かった。へーレンは、渋々契約条件を飲んだ。ここにやっと新契約が成立した。有限責任日本興業会社の契約は無効となった。
 是清はすぐに支度を始め、日本へ帰ることとした。カジャオの港には、へーレンはじめ、鉱山事業に関係する者ら数人が見送りに来たが口数は少なかった。是清は動き出した船から見えたアンデスの山に別れを告げた。二度とこの地を踏むことはないだろうと知っていたのだ。
 一方、是清が帰国したという報を受けて、カラワクラに残っていた山口と屋須は大いに激怒した。
「坑夫を山に残したまま、事業がうまく行かないからと言って、日本にそそくさと帰るとは何て奴なんだ。」
 温厚なクリスチャンの医師である屋須らしくない、語気を強めた言い方だった。
 
 六月五日、是清は日本に着いた。横浜の港には、藤村ら日秘鉱業会社の株主が数名迎えに来ていた。
「どうだった秘露ペルーは?」
 取り敢えずの挨拶もそこそこ、新橋へと向かう汽車の中で是清は無言を貫いていた。ところが、藤村が新たな技師を秘露ペルーに派遣したところだと言ったので、是清はやっと口を開いた。
「すぐに呼び戻してくれ。新たな技師など無用だ。」
 是清があまり説明をしないので、藤村等も一体全体どうなっているのかがわからなかった。
 新橋では、新聞記者が是清に秘露ペルーのことを尋ねてきた。是清は言った。
「鉱山は非常に有望だ。事業は順調に計画を進めている。」
 翌日の新聞には是清の言のとおりの記事が掲載されたが、何日か経って秘露ペルーの状況がすっぱ抜かれた。
 
『秘露銀山は空穴なりと』
 
 記事には次のようなことが書かれていた。
「またもや、碧眼奴にしてやられた。鉱山技師田島晴雄が昨年調査した時には塞がれていた穴が今回の調査で発見され、掘りつくされた鉱山であることが分かった。理学士田島氏の調査が不十分であったとの批判は免れない。」
 新聞はまだ晴雄を詐欺師呼ばわりしてはいなかった。しかし、腹が収まらない株主たちはどうしても主犯を探したかったのだ。三浦梧楼ら株主は、田島晴雄を詐欺により告訴した。当然、追加資金の募集は不調に終わり、日秘鉱業会社は破綻した。
 資本増強の不調がへーレンに電報で伝えられへーレンは大いに落胆したが、最後に交わした契約に従い日本人坑夫等の下山に協力した。屋須や山口等は冬になって荒れ狂う天気の中、アンデスからの下山を強行した。坑夫らを励ましながら、やっとの思いでリマに戻り、そしてカジャオから帰国の船に乗った。是清も眺めた同じアンデスの風景を船から眺めながら、屋須はいくつもの峠を越えながら下山した、その苦難から無事に乗船できたことを心底神に感謝した。そして、今度こそ神の道を歩むことを決意した。屋須はグアテマラで下船し、二度と日本へは戻らなかったのだ。


投獄

 秘露ペルーの事件は、多くの人々の人生を変えてしまった。晴雄が帰国で横浜に着き税関を通ると、警察が待ち構えていた。晴雄には何のことかわからず、何か夢の中の出来事を見ているような気分だった。大勢の取材の記者などに囲まれる中、晴雄は詐欺取財の容疑で逮捕されたがまるで現実感が無かった。晴雄は汽車に乗せられ、長い事揺られながら仙臺せんだいに送られた。そこでは西南戦争の捕縛ほばく者を収めたことで有名な宮城集治監に未決獄として収監されたのだ。
 宮城集治監は二階建ての六棟の房が放射状に広がる「雪形ゆきがた六出りくしゅつの構え」と呼ばれる建物で、パノプティコン(Panopticon‐全展望監視台)を備えた近代的な監獄施設だったが、それだけ、始終監視の目が光っているということだ。晴雄はここに閉じ込められると思うと屈辱で自然と涙が溢れだした。
 
 晴雄は重大事件の未決囚という事で独房に入れられたが、これは精神的にかなりきつかった。晴雄は断じて人を騙そうとはしていなかったのだ。それがどうして、このようなことになるのか、その理不尽さに納得が行かず、腹も立っていた。
 晴雄の両親が手をまわしたのか、弁護人として、刑法改正案起草委員を務め、第一回の帝国議会選挙で衆議院議員に当選して議員となっていた刑法の専門家である宮城浩蔵がやってきた。
 宮城はインテリ風で背も高く、スリーピースが板についていた。同じくインテリではあるが、鉱山の現場に張り付いていた晴雄には見慣れないタイプの人間だった。
 晴雄は宮城が弁護人となった経緯も全くあずかり知らなかったが、宮城は早速、晴雄から事情を聞き始めた。宮城はもちろん、事件の経緯は既にあらかた知ってはいたが、晴雄から改めて話を聞いて、法廷での戦略のイメージが湧いて来た。
「宮城先生、法律の事は良くわかりませんが、これだけは言っておきたいです。僕には本当に欺罔ぎもうの意図など有りませんでした。へーレンから金を受け取ったのは迂闊うかつでした。ですが、詐欺師がその対象となる案件に自分でも金を出すなどということがあるでしょうか?僕は日秘鉱業会社の出資者であり、株主でした。詐欺を働くつもりならそんなところに自分で出資するはずなど有りません。実際に、僕は事業をやろうとしたんです。鉱山学が専門で商売や事業というものに疎かったがまずかったのでしょう。でも、僕はあのようにすることが正しいと信じていたんです。詐欺呼ばわりは我慢がなりません。それに第一、報告書を急がせたのは是清さんです。なぜ、僕だけが詐欺の罪を着せられるのでしょうか?」
 晴雄の話を聞いて、宮城が弁護の方針を伝えた。
「田島君、君の言う通り、君に欺罔ぎもうの意図があったとは考えられない。また君が受け取った手数料とは告発者から支払われたものでもない。出資額の損失は事業失敗の結果であって、君が詐取したものではない。詐欺取財罪に当たるとは思えない。こういう主張をしていくつもりだが、それよりも前に、そもそも本件は外国での事件だ。仮に詐欺罪に該当するとしても日本国において犯した罪ではない(筆者注:現在の刑法には、日本人の国外犯の規定がある。)。まずは、日本の刑法が海外での行為について何も規定していない以上、君を裁く裁判の管轄権が日本の裁判所に無いことを主張しよう。」
「宮城さん、裁判のことはお任せしますが、何卒、よろしくお願いします。」
 刑法の大家である宮城弁護士は、刑法に国外犯の規定がないことを理由とする公訴不受理の申請を行った。
 下級審による審理開始の決定に対しても不服を申し立て、一時は大審院が控訴院に差し戻すなど善戦したが、結局翌年の明治二十四年(1891年)四月十三日に公判を開く決定が告げられた。
「刑法に規定がないという主張が通らず不満だが仕方がない。これでいよいよ裁判となるが、検察側は欺罔ぎもうの意図は証明できないであろうし、鉱山購入の手数料を受け取ったということだけでは詐欺収財にはならないはずだ。」
 晴雄は公訴不受理が認められなかったことに納得してはいなかったが、それよりも、裁判が開かれるというこの決定までに一年近くかかったことにかなり消耗していた。
「田島君、中々大変だがね。ここは一つ、気持ちを落ち着かせて、体調を整え、準備しておいてくれ給え。私もできるだけの力を貸すつもりだ。何としても無罪を勝ち取ろうじゃないか。日本の刑法は今も改正が議論されている時で過渡期とも言える状況だ。状況が流動的な中で、そんな無理が通って道理が引っ込むような判決は出しようがないと私は思っている。頑張って行こう。」
 宮城の主張は、もちろん根拠がない話では無かったが、田島の精神面が崩れないように励ます意味もあった。実際、ここから長い裁判は続いたのだ。
 
 ある日、東京から来たという新聞記者が事件の事を聞きたいと言って面会に訪れた。短い時間だが、外の人と話せるのは晴雄にとって気分転換になった。しかし、この新聞記者は人の話なんかまともに聞くタイプでは無かった。記者が事件の事について通り一遍の質問をしてきたので、晴雄はとりあえず答えた。
「報道にある通りですよ。僕が詐欺を働いたというところ以外は。」
「つまり君は、欺罔ぎもうの意図をもって皆を秘露ペルーに誘い込んだというわけではないと。しかるに、銀山が有望であると報告してしまったのは事実というわけですよね...」
「そこは...確かに...」
「なるほどねえ。他に無罪の証拠でもあれば良いんだが、特に証拠がないとなると記事にはし辛いなあ。」
 記者にきちんと話しても無駄だろうと言う気はしたが、晴雄はこれだけは言っておきたいと思い付け加えた。
「ともかく疑いがあるとしても、このような扱いは酷いではないか。日本は近代国家として刑法も整えるのであれば、収監者をもう少し人間として扱って欲しい。」
「なるほど...」
 その新聞記者は、面倒くさそうに形だけメモに取り、特に感想も言わず、面会室からそそくさと出ていってしまった。
 その後、本人のかかわる事件に関しての記事は見せてくれないのが慣例であるにもかかわらず、看守が記事が掲載された新聞を特別に見せてくれた。そこには次にような見出しがとあった。
『田島晴雄理学士、予として猿に化せしめんとする乎、と怒る。』
 晴雄は怒りで狂いそうになった。
「人を猿に貶めているのは誰なんだ?」
 晴雄は看守には礼を言ったが、怒りで発作が起きてしまいそうなくらい胸が苦しくなって、冷たい床にそのまま横たわったのだった。
 
 そしてさらに一年後、逮捕から二年後の明治二十五年(1892年)七月十一日、東京地方裁判所で一審の判決が出た。
「鉱山購入に代金一万六千ポンドを三浦梧楼らに請求し、これをへーレンに交付して応分の手数料を受けるという密約があり、実際に六千ポンドを受け取ったのは、鉱山の対価を詐称したものであるが、刑法にこれを罰する条文はなく、無罪とする。」
 判決を聞いて、宮城と晴雄は握手を交わし、無罪を喜んだ。
「宮城先生、感謝します。」
 しかし、それも束の間、検察はすぐに控訴した。
「田島君、先日の無罪は喜ばしいが、上級審での審理はまだ予断を許さない状況だ。一つ、提案なんだが、高橋是清氏に謝罪文を書いてはどうだろう。素直に謝罪の意を示し、できれば高橋氏個人との間で和解したい。そうすれば、上級審での裁判にも影響を与えられる。万が一有罪となっても、情状の余地が出てくるんだが。」
「先生、裁判の事は良くわかりませんが、どうして詐欺など働いていないのに謝罪しなくてはならないのでしょうか。」
 晴雄は声を荒げたが、宮城はこれを制して諭した。
「気持ちはわかるが、謝罪は詐欺を認めるということを意味するものではない。君自身にもあった不注意を認め、意図と反して損失を与えたことを詫びるということだ。裁判というのは、一か百かではない。非があった部分につきこれを素直に認めれば、刑期の短縮など、必ず実を取れるものだ。」
 晴雄は完全には納得しなかったが、致し方なく筆と墨を看守に要求し、独房の中で筆を取った。
 
『秘露の件にて、お詫び聞こえさせたく思ひたてまつり候。
現地にての調査に於いて、手づから抜かりあひしことは認めぬ得はべらずにて候。
いさふに、全て国際経験の不足と、商慣習への無知より来るものにて、決して欺罔働きしものにてはありはべらずにて候。
現地にての調査にては限界もありはべりき候にて、正式契約まへの、鑽井調査などあたはざりし為に、文獻のみ、調べたにとどまるものなり。
今思はば、仮契約の段階にて現地調査の權利確保共べきであひけるに悔やまれはべりなり。小生、契約といふものに疎く、又、盛んに急かすへーレンの策にまんまと嵌め共れたもの思ひまはしはべり候。
小生の未熟ゆゑにご迷惑お掛けしことは、此處に深くかしこまりきこゆるにともに、萬、悪意はなく、過失にて、あのごとき結果となりしことは、何卒、ご理解たまはりたく、御あらまし聞こえさせはべりにて候』
 
 是清は秘露ペルーから帰ってすぐに、伊香保、碓氷峠、水上(天沼)と立て続けに鉱山投資に失敗して、いよいよこの大塚窪町の家屋敷を売ろうとしていたところだった。博奕ばくち打ちが負けを取り戻そうと言う心持と同じで、そういう時はさらに冷静な判断ができなくなっているものだ。是清は何かと目を掛けてくれていた内務大臣の品川弥二郎から、直々に秘露ペルーの後始末についての苦言を受け取っていたところだった。
 
『...何等一点の塵なしに立派に陣払いの始末を付け他の事業に御着手奉折候、この塵を残しつつ他に手を着ける事は万々御不得策と存候...』
 
 日秘鉱業株式会社の株主へは会社整理で残余財産をいくらか分配したが、是清はこの上、何ができるか考えていたところだった。
 そのために、新たな鉱山に投資し、その収益で迷惑を掛けた株主、秘露ペルーまで行きながら給金をろくに受け取れなかった坑夫などに私的に賠償しようと考えていたのだが、その目論見もあてが外れ、いよいよ家屋敷を売りに出そうと考えていた。そんな時、是清は晴雄からわび状を受け取った。
 是清は晴雄のわび状を何度も読み返し、手紙を手前に置くと、しばし沈思黙考した。そして意を決したかのように目を見開くと、妻の品を呼んだ。
「知っての通り、わしは秘露ペルーの失敗について、多くの関係者に金銭的な賠償をする心算である。必ず全額とは言わないまでも、このようなことはあと腐れなきよう、多くの者にそれなりの償いをして満足してもらうことが肝要であると考えている。」
 品はわかっていますという顔で、声を出さずに頷いた。
「やがてこの家も売り払い、少しでも関係者の満足のために差し出す所存である。」
 品は微笑んでさえいた。
「これから、しばらく貧乏暮らしになるが、堪えて欲しい。ついては本日、その前の最後の垢落としで、これから烏森からすもりに出かける所存であるが、これについてもこらえてもらえるか?」
 是清の真剣な申し出に、品は吹き出さんばかりの笑顔で言った。
「あなた様がそれほどお急ぎになっているからには、お考えのあることでしょう。そのことで詰問したりは致しません。どうぞ、お好きになさって下さい。」
 是清は品の許しを得て、烏森からすもりへ足早に向かった。
 
 同年十一月五日、結局、晴雄は詐欺取財の正條に依り重禁固三年罰金三十円監視六か月と逆転有罪の判決を受けた。
「事実と異なる被告の書いた報告書は、奸計的策略に該当し、架空の成功についての期待を抱かせるために,財産の一部を騙し取った」との判断だった。
「残念ながら、君が受け取ったという手数料六千英ポンドというのが鉱山購入代金の一部を構成していると判断された。確かに鉱山代金に手数料分が上乗せされているという見立ては不合理なものではない。しかし、鉱山が有望とする報告は奸計的策略などではなく、君が欺罔ぎもうの意図をもってあの報告書を書き上げたというような証拠はないはずなのだ。」
 晴雄は宮城の慰めにも怒りを露わにした。
「先生、そんなことより、なぜ我々が証人申請した是清は証人として呼ばれなかったのでしょうか?なぜ是清が裁判の外で株主にした説明だけが罷り通り、私の裁判所での証言は全て無視されるのでしょうか。もう最初から有罪と決めてかかっているようなものではないですか。不当だし茶番です。不当な裁判によって僕は抹殺されようとしているのですよ。」
 宮城にももはやどうすることもできず、晴雄の叫びも公平に聞いてくれる者は居なかった。晴雄は上告を断念し、そのまま宮城集治監に収監された。


再出発

 晴雄は獄の中で何度も眠れない夜を過ごした。また、何度も悪い夢を見た。
 霧のかかった山を一人登る。霧が晴れてきた時、岩の合間に金が見えた。晴雄は金を掴もうとして岩の合間から手を伸ばした。しかし届かない。体をよじり、手をさらに奥まで伸ばした。手を伸ばせば届くはずのところに金があるにもかかわらず、手を伸ばしても金の感触を得られない。
 こんな夢を見た日は朝から気分が憂鬱だ。外の気配を伺うと、雨が降っているのに気付いた。そういえば、外は何日も雨が続いていたことを思い出した。かろうじて明かりの入ってくる小窓の外にかすかな雨だれの音がずっと聞こえていたのだ。時折、雨漏りなのか、かすかに水の感触があった。
 晴雄は孤独を苦手としてはいなかったが、このような冬の雨の日々は寒さと外の暗さが身に堪え、逮捕されてから二年半もの間、罪人として閉じ込められていることの実感を嫌がおうにも感じざるを得なかった。
 
突然、戸を開く音がして看守が入ってきた。
「おい、仮出獄だ。」
 晴雄が唖然としていると看守は続けた。
「『情状詳細しょうさい』の上申が認められた。身受け人は旅館経営者だということだ。」
 看守がやや下品な笑みを見せたことの意味は晴雄にはわからず、また、情状詳細など身に覚えも無かった。
「身受け人が既に面会に来ている。出獄の手続きが済むまで、身受け人と面会室に居ろ。」
 
 身受け人とは、当然に東京にいる父か母だろうと思っていた。しかし、収監されている晴雄を訪ねてきたのは若い女だった。格子の向こうに見える女性は、ひさしに造花のついた帽子を目深にかぶっており、最初、顔は良くは見えなかった。白い肌が覗いて見え、清楚な感じだった。
 この頃は女性が和装に戻りつつあった時で、洋装は少し廃れつつあったのに、彼女は洋風のコートを着ていた。コートを脱ぐとその下に肩の膨らんだ白いワンピースを着ていて、どこかの令嬢のようにも見えた。
 晴雄は最初、何かの間違いだと思っていた。獄に入ってまだ二年半、刑期を終えるまでにはまだ半年、さらに監視期間が半年あった。ましてや、自分を身受けする若い女性というのは想像もつかなかった。
 娑婆しゃばにいた時も、特に女性との交流が多かった方ではなく、知っているのは花柳界の女性くらいだった。銀山投資のために日秘鉱業株式会社を立ち上げた頃、烏森の料亭に出入りをしていたのと、秋田の鉱山にいた頃、宴会で何回か町の料亭で芸妓を呼んだことがあったくらいである。誰だろうと思いを巡らせていた時、その女性が自分の前に進んできて、間近で顔を見て、晴雄はやっと思い出した。
「お吟か...」
「久しぶりですね。」
 新橋の停車場でお吟が晴雄を見送ってから、もう三年以上会っていなかった。このような形の再会になるとは想像もできなかったし、正直、今は自分の身に降りかかったことに忙しく、お吟の事を思い出すことはほとんどなかったのだ。
 お吟に見送られた時も、晴雄は確かにかすかな甘い思いを感じはしたが、その後の縁のことなどは全く想像もできなかった。
「惨めなもんだろ。」
 晴雄はお吟と格子で隔てられた向こう側で、ふてくされた顔を隠そうともしなかった。
「なにが惨めなものですか。近頃の大官紳商なんて、みんな一度は監獄に入っているじゃないですか。」お吟は笑い転げんばかりに大笑いした。「晴雄さんもはくが付いたようなものですよ。」
 晴雄は外国人が良くするように、軽く肩をすくめて見せた。
「本当はもっと早くに会いにくるつもりだったのですけど、裁判も続いていて、中々、面会の許可も降りなかったですし...」
 お吟が面会に来たがっているということは、全く思いもよらなかった。
「僕は、君はもうとっくに誰かに落籍ひかれて、お偉いさんのお妾さんか何かになっていると思ってたよ。」
「少しはあたしの事を気にしていてくれたんですねえ...」
 お吟は少し悪戯っぽい表情で晴雄の顔を覗き込んだので、晴雄は少し怯んで目を逸らした。
「あたしはねえ、お偉いさんの妾になるとか、そんなことには興味がないんですよ。前にも言わなかったかしら。」
 覚えている。自分で商売をやりたいと言っていた。
「あたしは自分で自分の道を進みたいのです。」
「その時も思ったけど、凄いことを考えているよね。でも、女が一人生きてくのは大変だろ。」
「一人じゃないわ。もうその準備は済んだの。」
 晴雄には何のことか分からなかったが、そう言えば、お吟が自分の身受け人というのはどういう意味なのだろうと不思議に思った。
 お吟は、晴雄に説明した。芸者屋の経営をお義母さんから引き継いで、吾妻屋の屋号をそのままとしながら、芸者屋稼業はやめて、烏森からすもりで旅館を始めるということを。
 既に宿屋の建物は完成し、人を泊め始め、営業を開始したというのである。そして...「旅館を一緒にやっていく人とは晴雄さんのことですよ。」
 お吟は、おそらく晴雄がこれまで見てきたどんな女性の笑顔よりも、最高に悪戯な、それでいてとても抗しがたい魅惑を持った、そんな笑顔を晴雄に見せた。晴雄は自分がまだ獄の中にいるということを忘れるほどだった。
 もちろん、驚いた。晴雄は心底驚いていた。これ以上に寝耳に水な事など無いようなものだ。第一、旅館の事など自分は何も知らない。
「僕には旅館経営なんかできないよ。」
 晴雄が言うと、お吟は笑いながら何やらバッグから一枚の紙きれを取り出した。
「ね、見てみて。仮出獄情状詳細の上申書に書いたの。貴方はあたしと所帯を持って、旅館経営にあたるって。それが仮出獄の条件なの!」
 
 宮城集治監を出る時、晴雄はパノプティコンをしみじみと眺めた。監獄の門にいた看守は、何かを晴雄に話しかけていたが無視して、足早にその場を去った。逮捕され収監されたことも現実の事のように思われなかったが、今、仮出獄で監獄の外にいることもまるで実感が無かった。
 その後、乗合馬車で日本鉄道奥州線の仙臺せんだいの駅まで出たが、瓦屋根の平屋風の駅舎が目に飛び込んできた。極めて日本的な建物風景であったにもかかわらず、晴雄はリマのモンセラーテ駅の石作りの駅舎を思い出した。
 元々口数の少ない晴雄であったが、駅舎を眺めながら黙りこくる晴雄を見て、お吟は気持ちを察して特に話しかけなかった。
 夜行列車の出発までまだ時間があったので、駅舎の中の食堂で軽く食事を済ますと、また待合室に行き、列車の出発を待った。晴雄はお吟に起こされるまで眠りこけた。夢を見ていた。秘露ペルーの中央鉄道に乗ってカラワクラに向かう夢を。
 夜行列車に乗ると、晴雄は逆に寝なかった。時折、横で窮屈な姿勢のまま眠りこけているお吟を見やりながら、ずっと考え事をしていた。
(この女性と旅館稼業などやって行けるものだろうか。)
 暗闇を走り抜ける汽車に揺られている自分は、この暗闇から抜け出せないのではないか、とずっと考えていた。夜通し起きていたが、さすがに夜が明け始めるころ、うとうとし始めた。
「上野に着いたわ。」
 お吟に起こされて、蒸気で燻る中、駅に降りた。
お吟がポーターを呼び、荷物を駅舎の外の鉄道馬車の乗り場まで運ばせた。その鉄道馬車で烏森からすもりまで出たが、お吟は人夫に荷物を吾妻屋に運ぶように指示した。
「ああ、旅館の名前は言ったわよね?吾妻屋って言うの。あたしが居た芸者屋の屋号をそのままもらったの。」
 晴雄はこのまま吾妻屋に行くのだと思っていたが、お吟は人力車を呼んだ。
「まず、三田のお義父さん、お義母さんを安心させないとならないわね。」
 三田小山の近く、新門前町の古川沿いに田島の家はあった。晴雄は久しぶりに嗅いだ新橋界隈の潮の匂いが懐かしかったが、すぐに、二人は新門前町まで人力車に乗って行った。
 晴雄は、新橋、烏森からすもり、愛宕山そして麻布界隈までの景色を人力車から見て懐かしさを感じたが、三年半の間とは言え、ずいぶんと街の街路樹などが整備され、綺麗になっていることに驚いた。
 晴雄とお吟が家に着くと、田島の両親が涙を流して喜んだ。
「さあ上がって。お吟さんも上がって頂戴。今朝、上野に着いたのかい?疲れたでしょう。私は、一日も早く監獄から出してもらえるように、そこの鎮守の森に毎日のようにお参りしてたんだよ。」
 年老いた母の涙は晴雄にはすっかりこたえた。晴雄はまずは頭を畳につけて、両親に心配をかけたことを詫びた。晴雄の両親は息子にどこまでも優しくしていた。大学を出て理学士となった自慢の息子であったが、秘露ペルーの事件に巻き込まれた事に心を痛めてきた。今はただもう、無事に東京の家に戻って来た事を喜んでいた。
 お吟は、いつ用意したのか、鬱金うこん木綿の中から仙臺土産だという黒かりんとうを出した。
「向こうでは子供の菓子らしいのですが、お口に合いますでしょうか。」
 お吟はそう言ってから立ち上がって勝手の方に行き、両親と晴雄のためにお茶を淹れてきて出した。お吟は晴雄の家ですっかり嫁のように振る舞っていた。晴雄の父と母をねぎらい、また、仙臺せんだいでの様子を言って聞かせていた。
「そんなところに閉じ込められて、さぞかし寒かったろう。」
 晴雄の母がまた涙ぐんだ。お吟はハンカチを出すと母親に差し出した。晴雄には不思議な事にも思われたが、お吟は田島の家の嫁として、既に認知されている様子だった。
 
 両親の家で数時間過ごして、晴雄は新しい生活のために烏森からすもりに行くと両親に告げた。
「本当にありがたい。毎日、お宮参りして祈ってた甲斐がありましたよ。」
 母はまた涙ぐんで、父も寂しげではあったが、晴雄が無事、出獄出来て、こうして新しい生活に踏み出せたことに満足しているようでもあった。
 玄関先を出る別れ際に、晴雄の両親はまるで、自分の家が嫁を出すかのようにお吟に頭を下げた。
「息子をどうか、よろしくお願いします。」
 お吟が微笑みながら頭を下げた。晴雄は、両親に再び、頭を下げ、二人は新門前町の家を後にした。
「あなた、実家に泊っていらしたら良かったのに。」
 お吟は晴雄を気遣ったが、晴雄にはその日両親の家には泊まらずに烏森《からすもり》の吾妻屋へ行くことが正しい事のようにと思われた。
「荷物はもう、吾妻屋に置いてきて身軽だし、烏森からすもりまで歩きましょうか。」
 二人は古川に沿って歩き始めた。晴雄は、子供の頃、この古川で上ってくるぼらを採って遊んでいたことを思い出した。その頃はどんな大人になると思っていただろうか。少なくとも獄に繋がれるとは思っていなかったし、このような形で妻をるとも全く考えていなかったことだけは間違いなかった。
 赤羽橋のところを左に折れ、冬で落葉樹が葉を落としているとは言え、昼なお暗い増上寺の裏手を歩き進んだ。
「もう少し、ご両親の家でゆっくりなさったら良かったのに。」
 柳橋と違って新橋や烏森の芸妓は、元々言葉遣いは丁寧だった。しかし、江戸っ子であるお吟は言葉にもう少しキレがあったのを覚えている。
 気のせいか、お吟の言葉遣いが山の手風の、良い家の亭主に話をするような丁寧な言葉遣いに変わったことに、晴雄は正直、違和感を覚えた。ただおそらく、お吟は新しい生活に踏み出す覚悟を晴雄に示したかったのだろうと理解していた。
 
 吾妻屋は烏森からすもりの壱番町にあった。烏森からすもり神社のすぐ近くにあり、十寸ほど積み上げた煉瓦の土台の上に黒い板が張り巡らせていて、昔の旗本の屋敷のように壮観だった。
 表から見ると、横長に見える二階建ての建物の真ん中が玄関であり、左右が対象になっていたが、左右それぞれに奥の建物があって、コの字型になっていた。
 そのコの字の内側は中庭になっており、いくつかの松の木の間に飛び石の小道があった。その松の木を囲むように何本かの吾亦紅われもこうと三俣が植わっっており、その左奥にも庭があって、桜の木が植えられていた。
右奥が従業員とそしてお吟と晴雄が住む住居棟になっていた。
「ここで生活が始まることとなるのか。」
 晴雄はおよそ考えても見なかった結婚生活の始まりを前にして、その実際の新居を目の当たりにしたのだが、まるで現実の事と思えなかった。
 晴雄とお吟は生活棟の、つまり今後二人の新居となる建物の中の六畳くらいの部屋に上がった。お吟に寛ぐように急かされ、晴雄は畳の上に胡坐あぐらをかいて座った。お吟は茶箪笥ちゃだんすの下から一升瓶を取り出し、栓を開けた。この日のために買っておいたものの様だ。
 徳利とっくりに移してから、冷のまま一杯だけ晴雄の猪口ちょこに注いだ。晴雄は酒を一口飲むと、ふてくされたように寝転んだ。そのまま、天井を見て考え事をし、目を瞑った。
 お吟は気にするでもなく正座したまま、晴雄のことを黙って見つめていた。晴雄はふと目を開け、天井を見遣ったまま疑問をぶつけた。
「君みたいな烏森からすもりの一流芸妓がなんで僕なんかと一緒になる?政界などの大物を旦那にすることに興味が無いからと言って、自分で商売をするにしても、後援してくれる人間の羽振りが良い方が何かと都合が良いだろうに。」
 お吟は尋ねられるのを待ってたように淀みなく答えた。
「そんな誰かに頼る生き方が楽しいのでしょうか。あたしは元々、そんなに金にも困って無かったし、芸妓をしていても誰かの丸抱えになったこともなかったわ。『分け』と言ってね、あたしは芸妓の稼ぎの半分は自分のものにしていたのです。だから、ちょっとばかりの蓄えも出来ましたし、吾妻屋には養子で行ったのだけど、あたしのお母さんは何人かの芸妓を一気に落籍ひかせて潤ったりしていたので、面倒を見る必要もないのです。」そう言ってお吟は晴雄に二杯目をお酌した。「だから、あたしは旦那を探す必要は無かったのです。それよりも、一緒に悩み、考え、行動して行く人をずっと探していたのです。貴方は笑うかも知れませんけど、あたしは貴方にその運命を感じたのです。」
「僕は理学士で鉱山の事は解るが、商売、ましてや旅館の事なんて何もわからんよ。」
「何仰ってるの?秘露ペルーの銀山の件で会社を起こしたじゃないですか。十分、事業の事は学んでらっしゃるはずですよ。それに商売となるといろいろ頭を使うでしょうから、学問は邪魔になりませんよ。晴雄さんは学があるから必ず力になってもらえる、そう信じていますし、あたしの見立てはそんなに間違っていないはずですよ。」
 お吟にそう言われても、まだそれほど納得がいっていなかった。
「失敗した話じゃないか。商売が良くわかっていない証拠だよ。」
 晴雄のどんな否定的な言い方にもお吟は全く怯むことはなく、それを打ち消す言葉を持っていた。
「それを経験なさったのでしょ?あれだけ大きな失敗して、世間に騒がれて、獄にも入れられたようなお方は同じ失敗はしないはずでしょう。」お吟は微笑んで付け加えた。「あたしはね、貴方に最初に会った時から、学があって夢を持って事業をしている貴方が眩しくて、他の殿方とは違うものを感じました。若い男の方で、夢を語る人は多いかも知れませんが、実際にそのための行動している人には滅多にお目にかかれませんよ。」ここでお吟は笑いながら白状した。「だから、あたしは晴雄さんにあそこから早く出てきてほしくて、田島の家のお義父さんとお義母さんにも勝手に挨拶してきちゃいました。晴雄さんとは、将来を約束して契りを交わしたのです。あたしは何があっても晴雄さんを見捨てませんし、一緒に烏森からすもりで旅館をやって生計を立てますから、あたしが仙臺せんだいまで行って身受けしてきますから、どうか晴雄さんと一緒にさせてくださいって。」
 晴雄は目を丸くして驚いた。
「ご両親は、それはそれはもうお喜びになって、こんな事件があって、息子は今や罪人になってしまったのに添い遂げていただけるなんて、うちの晴雄は果報者です、って。」
 お吟の笑いは一段と大きくなって、止まりそうもなくなった。
 晴雄はその後も注がれるまま何杯か酒を飲んだので、疲れが一気に出てくる気がした。
「ところで明日は時間ありますか?一緒に行きたいと思うところがあるのですけど。」
 お吟の提案に適当に相槌を打ちながら、晴雄は疲れてうとうとしてきたので、その日はそのまま寝てしまった。
 
 翌日、お吟は晴雄を浅草に連れ出した。晴雄にとっても浅草はずいぶんと久しぶりで、大学に行っていた時以来だから、もう十年ちかくは来てなかったはずだ。
「ねえ、あそこに登りましょう。」
 お吟は、浅草寺の脇の塔のようなものを指さした。
「そうか、貴方は知らなかったのですね。あの塔は稜雲閣と言って、貴方が仙臺せんだいに行っている間に出来たましたのよ。」
 晴雄はそびえ立つ稜雲閣をしばし、唖然として眺めた。
「他に特にどこかに行きたいところはありますでしょうか。特に、行きたいところが無いのであれば、とにかく登りましょう。」
 浅草寺の側が公園になっていて、その中にある稜雲閣は十二階建ての、日本で一番高い建物だった。
「とにかく、一番上に行きましょう。」
 お吟はそう言って、晴雄の手を引いた。女性に手を引かれるなどということに慣れていないだけでなく、人前でそのようなことをする者たちがいない中で、とにかく落ち着かず、思わず回りを見渡してしまった。
 稜雲閣の下の入り口のところまで行くと、エレベーターは壊れているとのことだった。仕方がないので、階段を上らなくてはならなかったが、浅草十二階と呼ばれる建物の階段を登っていくのは結構しんどいことだった。晴雄は秘露ペルーの山を登った時のことをまた思い出した。
「やっと四階か」
 あとまだ八階も登らないと一番上には行けない。やれやれ、かなり面倒くさいなと思い始めた時に、女性の写真が並べてあることに気付いた。派手に着飾った女性の写真が何枚も、いや四階から七階まで百人の美人の写真が続いて、かなりの壮観であった。
 階段をゆっくり登りながら眺めていると、晴雄はその中にお吟の写真があることに気付いた。
「これは...君か?」
お吟は黙って頷いたが、その沈黙ははにかみによって打ち消されていた。そのはにかみは、半玉の雛妓おしゃくとして待合に呼ばれて来て、晴雄が初めてお吟に会った時に見せたものと同じであった。
 晴雄はうまくは言えないが、今回の仮出獄の時の面会では、お吟がまるで何かを企んでいるかのように恐ろしくさえ思えたのだが、ここにいるお吟は、芸妓として成長し面立ちには子供らしさは消えたとは言え、まだ無垢な少女のような表情を見せるのであった。
 それと同時に、今のお吟はどこか自信に満ちている。自信というよりは覚悟と言うべきかも知れない。晴雄を監獄から外に出すために、自身にとっても晴雄にとっても、最善とも言うべき選択をした大人の女の覚悟を感じさせる、そういう表情も持ち合わせていた。
 しかし、紛れも無く、ここにいるお吟は、あの時、晴雄が秘露ペルーに旅立つ時に新橋に見送りに来た時のお吟と同じでもあるのだ。晴雄はその時にお吟に感じた甘い気持ちを思い出した。
「見晴らしがいいですわね。東京中、見渡せそうですわ。」
 冬の空気は澄んでおり、上野の山の常緑樹も深い緑の色を湛えていて、その木々と街の瓦(いらか)の景色は、太陽の光を反射し、見ているだけで、寒さを忘れるような暖かみを感じさせるほどだった。
「烏森はあっちの方でしょうか。」
 お吟は南の方角を指さしながら晴雄に尋ねたが、晴雄は考えごとをしていた。稜雲閣のこの塔から下界の平地を眺めながら。一旦は、塔に登りかけて、地面にたたきつけられた自分の事を。
「晴雄さんのお義父さんとお義母さんから話はすっかり聞きました。なんで、晴雄さんだけが捕まって罪をかぶったのかを。」
 お吟の優しい声は耳に入っていたが、晴雄はまだ逡巡していた。お吟は魅力的だ。そうだからと言って、二人一緒になってやっていけるものだろうか。
「すごい高い塔ですよね。ここから下を見ていると、なんかみんながちっぽけな存在に見えるわ。そして塔の上にいつもいる人はどういう気分になるのかしらね。」
 無邪気に見えるお吟も実はちゃんと理解している。この塔は、維新の後に築き上げられつつある新しい権力と階級の象徴のようなものだ。まだ階段を登れば、誰でも上がってくることができるかもしれない。しかし、そのうち、この塔への階段は再び閉じられることになるのだろう。
 実際、晴雄は塔に登ろうとして、寸での所で下に蹴落とされた。晴雄のような地面に這いつくばる人間には、二度と上に上がる機会は与えられないかもしれないのだ。
「晴雄さんはねえ、ちょっと運がわるかっただけですよ。」
 晴雄は黙って考え事を続けていたが、お吟は気にしていないようだった。
「あたしも芸妓をやってきて、まだこんな歳なのにいろんな人に会いましたよ。花柳界にいればね、嫌な人にもお酌をしなくちゃならないこともありましたけどね。でもね、そこで学んだのは、人間万事塞翁が馬ということかしら。結局、誰でも良い時もあれば悪い時もある。花柳界に集まる人たちはとりわけ浮き沈みが激しいのかも知れない。あたしはだから、人を当てにはしないのです。頼りにできる人もまた沈んでいくのはいつもの事。それよりも自分の力で生きていくことが何よりも大切だと思うようになったのです。」
 先ほどのはにかんだ顔とは違い、再び、確信的な意思を感じる顔に戻った。
「そうは行っても、絶対、誰にも頼らないというのは無理な話ですから、晴雄さんには知恵を貸してほしいのです。あたしは晴雄さんを必要としています。一緒に生きて、歩んで欲しいのです。」
 お吟が眩しかった。やはり、お吟は昔のお吟とは違う。人生を踏み出そうとしている。賭けている。自分がかつてそうだったように、夢を持っている。
 晴雄は獄を出てきたばかりで、とてもそこまで色々考えることはできないでいた。しかし、お吟のお膳立てに乗って、こうして外の空気を吸っている。自分にお吟と同じ夢を見ることができるのか。
 
 階段を下りていく途中に再び、百美人を眺める。お吟は何やらにやにやしている。おそらく、お吟は晴雄の気を引くために今日ここに晴雄を連れ出したのだろう。少しばかり、百美人の中の自分の写真を自慢して、晴雄にそういう自分と人生を歩むことの価値を気づかせたかったのだろう。
同時に、お吟は芸妓としての自分に区切りをつけようとしているのかもしれない。
 
 下に降りて、浅草寺の前の店で御手洗団子を買い、店先の椅子に腰かけながら二人で食べた。周りでは、子供たちが鳩を追いかけようとして、追い払っていた。お吟は話を続けた。今日は良く話す。
「良い事を一つ教えて差し上げるわ。晴雄さん達が烏森(からすもり)の待合で秘露ペルーのことを話し合っていたように、今や、政治もね、商売もね、みんな新橋や烏森の花柳界に集まって来ているのです。いわば日本の中心なんです、新橋界隈は。みんな、そこで話を決めて、世の中を動かしているのです。だから、烏森からすもりの花柳界の真っただ中で旅館をやるのは、とてつもない機会が広がっているのです。」
 晴雄は自分だけが不遇をかこつのに納得がいかないでいた。それでも、生きる糧を得ることを考えて行かなくてはならないとするなら、花柳界の真っただ中にある旅館をやっていくのも悪くはないのかも知れないと考えるようになった。鞄から取り出して、パン粉のような、菓子の欠片を鳩にばら撒いている、無邪気なお吟が眩しく、自分も決心しなくてはいけないような気がして来た。
「一方的に君の世話になる気はないよ。」
「わかってます。貴方はそういう人じゃないですもの。晴雄さんはみんなに必要とされる人になりますわ。秘露ペルーの時はあたしは連れて行ってもらえませんでしたけど、今度は、二人で大きな夢を見みましょうよ。今度こそ、あたしと一緒に。」
「君がなぜ、ここに連れてきたのか少しわかった気がする。僕にまた濃紅銀鉱ルビーシルバーの夢を見させようというのだね。ここから見える東京の街を二人で征服しようというだね。」
 お吟は、いつもの大笑いをして答えた。
「話が大きくなりましたね。安心しました。あたしが秘露ペルーの銀の代わりにはなるなんて思ってはいないけど、ここから見える景色は、あたしがいて貴方がいるのなら、そう捨てたものではない、という事を見てもらいたかったのです。あたしはうんと働きます。そして、今度こそ、二人だけのルビー・シルバーを手に入れましょう。」
 青空を見ながらお吟が言った言葉に、晴雄も心が決まった。この女とやり直すのだ。晴雄が三十二、お吟が二十二の時だった。そして、自分の新たな家に帰り、その夜、二人は本当の夫婦となったのだ。
  お吟が一つだけ加えた。
「ところで、あたしの本名ってお教えしたことありましたっけ?マサというの。覚えていていただけると嬉しいわ。」マサは、おどける様に微笑んだ。マサは、もう一つ付け加えた。「ところで、是清さん、また鉱山投資で失敗したらしいわよ。」


烏森の日々

 晴雄が初めて烏森でマサに会った時、マサはお吟と言う名の烏森からすもり雛妓おしゃくだった。マサと晴雄は夫婦となり、その烏森で吾妻屋という旅館を始めた。その頃は日清戦争による戦争景気前だったが、既に新橋と烏森は潤っていた。そしてあたりは年々賑わいを増して行き、待合や料亭の数も増えていった。花月、胡月などの有名な料亭をはじめとして、規模の小さな待合も、どれもみな大繁盛していた。内幸町に帝国議会が開設された(筆者注:今の千代田区霞が関一丁目のあたりに臨時の国会議事堂が開設された。)ため、烏森は政官界に近い花街であったことが栄えた理由だ。烏森は、そうした座敷に縁のない者たちですら、何やら浮いた気分になる、そんな街だった。

 吾妻屋は政治家たちにもよく利用された。マサが旅館の管理をある程度晴雄に任せて、芸妓だった頃の顔を生かしてかつての贔屓の者たちに吾妻屋を勧めて回っていたからだ。地方から出てきていた政治家などには、当時の国会のあった霞が関にも近く、新橋、烏森で遊ぶ場合にも便利であることを売り込んで行った。自由党はしばらく吾妻屋を本部としていたほどだ。
 そして、転んでもただ起きないとはこの事で、マサは秘露の事件で関わった者達にも積極的に旅館を売り込んだ。何しろ、日秘鉱業会社の発起人には、高橋長秋、小野金六、高田慎蔵、藤村柴朗などの当時の財界のお歴々が居た。株主まで広げれば、三浦梧楼、前田正名、米田虎雄なども居たのだ。これらの者達に声を掛けない手はないと考え、マサはそれぞれに会いに行き、事件についての皮肉もなんのその、意に介せずに吾妻屋を売り込んだのだ。
「誰かと思えばお吟か。しばらくだの。旅館を始めたとは聞いていたが...」
「ええ、烏森の一等地で旅館を構えております。新橋の駅からも国会や官庁街も近いので、東京にお出の際は是非とも吾妻屋をご利用くださいませ。」
 新橋の美人芸者として鳴らしたマサの事は皆、覚えていたし、そんな美人芸者に誘われるままがまま、吾妻屋に泊ってみたいと思うようだった。ただ、たまに事件の事に拘る者もいた。
「お主は、あの田島と一緒になったんだってな。なんでまた?まあ良いが、わしが行くとお互い不愉快な思いをするだけじゃないだろうか。」
「その心配には及びません。うちの人は、優秀な支配人で宿主ですから、表の事はあたしの方で仕切ってますの。」
「お主はベタ惚れなんだのお。まあ、頑張ってくれ。東京に来ることがあれば今度泊まらせてもらうよ。」
 だいたい、こんな感じで適当にあしらわれていたこともあって、三浦梧楼のところに行くことには余計に躊躇があった。なにしろ裁判で晴雄を訴えた相手だ。それでも、マサはこの国の中核に繋がる人脈は、商売上とてつもなく重要であることがわかっていた。つまらない事で躊躇している場合ではない、と腹を括り、三浦のところを訪ねた。
「おお、良く来たの。何、烏森で...ほお、旅館をなあ。で、田島君は元気なのかい?」
 三浦が伸び始めた無精ひげにしきりに手を当てながら、久しぶりに会う、美人芸者に目を細めた。三浦がそんな風にマサに接したので、マサは自信を持った。もう、三浦が過去の事をこだわっていないのではないか。ここは単刀直入に攻めてみるところだと確信した。
「おかげさまで、うちの人は元気です。賠償金は、少しづつ返していく所存ですので、それはそれとして、烏森にいらっしゃることがあれば、吾妻屋にお泊り下さい。」
「はっはっは、お主は、本当に胆の据わった芸者だのお。いやあ、機転の利く、才覚のある娘だ、と言うべきかのう。実は是清ともそんな事を話したことがある。裁判で夫の敵にも、旅館を売り込むなぞ、もう立派な女主人じゃな。気に入ったよ。吾妻屋の名前は聞いたことがある。肥後や筑前の連中にもここを使うよう宣伝しておくぞ。賠償金の事はまあよか。俺ももう事件の事は忘れた。奴にもそう伝えておいてくれ。」
 実際、三浦に旅館を認知してもらったのは大きかった。三浦が宣伝してくれたことも有り、九州の政治家は好んで吾妻屋を利用するのようになった。また、三浦自身も吾妻屋によく泊るようになった。もっとも、マサは、三浦に宿を売り込んだことを後で少しだけ後悔することになるのだが。

 ともかくそんな感じだから、吾妻屋の出だしは好調だった。そのため晴雄は、烏森の地に来てから、旅館はマサに任せ、暫くの間、街行く人を眺めていた。烏森を行きかう人々は、商人、丁稚などの身分のそれほど高くない者達や、そこに官吏や軍人など身なりのきちんとして矍鑠とした姿勢の者達が加わっても、服装の色彩と言う点では晴雄が過ごした秋田の銀山やペルーの山奥の庶民と変わるところは無かったが、その身綺麗だが何の味気も無い服装の中に、夜に成れば島田を結った、縮緬地の裾の芸妓たちが人力車に乗って、あるいは小股走りで街を行きかうようになり、薄明りの中でも目立つ、まさに花街というべき花の色を携えるのだった。
 特に、襟替えと呼ばれる花街でも最も華やかな儀式の一つに晴雄も何度も出くわした。襟替えの儀式では、新たに一本立ちする芸妓と共に、多くの姉芸妓達が着飾ってそぞろ歩きするのだが、その様は華やかというのを越えて豪華絢爛で壮観なものだった。山の中過ごすことの多かった晴雄にとって、その彩、特に紅は、これまでにほとんど見たことの無いものだった。
 また人気の歌舞伎役者などもよく烏森にやって来たが、書生芝居の役者であり、また一座の座長でもあったオッペケペー節で既に有名な川上音二郎も、しょっちゅう烏森にやって来た。夫婦のようにしていた日本橋芳町の芸者、貞奴と一緒に、さらに芳町やら日本橋の芸者達を一ダースくらい引き連れて来て、派手に遊んでいた。晴雄も一行が烏森の街に繰り出して来たところを何度か見かけた。音二郎の連れている芸妓のうち何人かは晴雄も知ってる顔の者も居たが、大半は他の街の芸妓らしく、全く知らない顔だった。普通、花街同士のいがみ合いも有ったりで、他の街の芸妓はあまり歓迎されないものだが、音二郎は烏森の芸妓達にも人気で、誰も他の街の芸妓を気に掛けたりはしなかった。音二郎の一行は、後のフランス万博で公演を行い、欧州で大喝采を浴びたが、その時には、烏森芸者を引き連れて行って、日本の小唄などをまぜた芝居を展開した。その川上音二郎は、自由民権の壮士芝居で有名になったが、大アジア主義を唱える右翼勢力として有名な玄洋社の頭山満と烏森の浜の家あたりで宴会を上げていた。浜の家の近くで川上と貞奴、そして頭山が一緒にいるところを晴雄も何度か目撃した。

 烏森からすもりにはいろんな人間がやって来ていたが、大官紳商のうちの伊藤博文や井上かおるのような政権中枢の人間や財界の大物などは新橋北地と呼ばれる、木挽町こびきちょうにある長谷川という待合を根城にしていた。新橋南地と呼ばれる烏森からすもりにもそのような政官界の大物が遊びに来ることはあったので、晴雄も何度かそうした大物を目にした。料亭、待合はサロンであり、芸妓たちとの出会いの場でもある。新橋界隈はすっかり高級な花街のイメージが定着していたが、花街である以上、そこでの物語は政治や商売だけで済むはずもない。みんな烏森にそれぞれのルビー・シルバーを求めてやってきていたのだ。それ故、色恋沙汰、醜聞には事欠かなかった。
 伊藤博文公は、芸者遊びを陛下に窘められるほど、毎日のように新橋北地か烏森の待合に顔を出していた。ある日、いつものように長谷川あたりに繰り出そうという前に、吾妻屋に泊まっていた政治家のところを訪ねて来た。吾妻屋の大広間で、静かな宴が開かれていたところ、玄関の方から、「伊藤公はおるかあ?」という、威勢は良いが、ややがらっぱちで女性としては品の欠ける声がした。その座にいた一同は何事かと声をする方を注視していると、広間の戸が開けられ、一人の芸妓が飛び込んできた。
 女中連が迷惑だからと必死に引き留めているのを引きずるようにして、その芸妓は伊藤の居る広間に飛び込んできた。
「御前...」
 そう言うと、芸妓は伊藤に殴りかからんばかりの勢いで近付いた。マサと吾妻屋の女中は必死に制止した。
「梅勇姐さん、旅館は三業じゃないから、芸妓は宴に出れませんよ。」マサがそう言っても、梅勇という芸妓は構わず捲し立てた。
「あらお吟姐さん、構いやしませんよ。あたしは芸をしに来たんじゃなくて、この伊藤公に一言文句を言いに来たんですから、三業の事なんか関係ありゃしません。」江戸っ子弁が威勢がよく決まったせいか、周りは囃し立てた。
「いいぞ、梅勇、やれやら、伊藤公をとっちめろ。」
 伊藤は苦笑いをしながらも、芸妓をなだめようと、話しかけたが、周りの者達にとっては、恰好の見ものだった。
「梅勇や、えらい剣幕だが、だいぶ酔っているようだのお。何があったと言うのだい?」
 伊藤の言葉に、梅勇はさらに語気を強めた。
「ええ、酔ってますよ。酔っちゃいけませんか。何があったですと?お惚けになっちゃいけませんよ。御前はあたしを好いてると言って、お手をお付けになったんでごっざいますか。それとも、それとも単なる箸まめから、おからかいになったんでございますか?」
 この言葉を聞いて、宴に参加していた者たち全員が笑い転げて囃し立てた。
「こらこら、梅勇や、今日は用があってこの宿に立ち寄ったのだ。この後、待合に顔を出すし、また話なら、別の機会にゆっくり聞こうじゃ無いか。」
 伊藤がそう言って場を修めようとしたが、周りは煽るばかりで、梅勇の方を持つような事を言うばかりだった。最初、梅勇を部外者として排除しようとしていたマサもやり取りを見物のように楽しんでいた。
「伊藤公の女癖の悪さは昔から有名よ。伊東公の奥方は芸者上がりですもの。理解がありすぎるので、伊藤公のお遊びを止める人がいないんですよ。」
 心配して部屋に入って来た晴雄に、マサはこっそり耳打ちした。

 また、後に日英同盟の締結で活躍したり、日露戦争の後始末のポーツマス条約で活躍する小村寿太郎も新橋の乗客だった。小村の場合、伊藤とは反対に女房に頭の上がらない性質だった。その癖、芸者遊びが大好きと来ては、新橋界隈での騒動の常連となるのも致し方が無い。小村の女房が新橋まで繰り出し、焼きもちを焼いてひと騒動起こすのは、すっかり新橋の風物になっていて、当然、周りの多くは小村を心配するどころか、見物を楽しみにするようになっていたが、さすがにある冬の日は違った。
 いつものように、小村が烏森の枡田屋で芸妓達と大騒ぎをしていると、そこへ小村の女房町子がが現れたのだ。小村は一気に酔いが醒め、顔色が急に悪くなった。小村は、町子を諫めることもせず、コートを引っ掴むと、一目散に逃げ出そうとしたが、女房に首根っこを押さえられた。いつもは見物を囃し立てる周りの連中も、この日は何か違うと思ったのだろう、必死に町子を後ろから羽交い絞めにして、小村を逃がそうとしたが、それを振り切った町子は、既に廊下に逃げ出た小村を追いかける前に、火鉢を持ち出した。正に加火事場の馬鹿力よろしく、小ぶりではあったがそれなりの重さの有った火鉢を小村に投げつけた。幸い、火鉢は小村には当たら無かったが、廊下一杯に灰神楽が立った。芸妓達の悲鳴の中、空気の乾燥している冬故、火事に成ったら大変とばかりに、女中連、芸妓達も総出で水を運び、必死に火を出さないようにした。
 枡田屋から逃げた小村は、吾妻屋に飛び込んで来た。
「あらあら、寿太郎さん、今日は御一人なんですか?いつも、うちのような宿屋ですら連れ込み同然にお使いになるのに」
 マサは、軽口で応対したが、外の騒動が聞こえて、今は状態にならない状況であることを悟った。小村は身を低くしながら、答えた。
「そう言ってくれるな、女将。あれが、いったん怒り出すと、それはもう手が付けられぬ。」
 そういって、マサに案内された部屋に自分で、運ぶ荷物もないから当然だが、歩いていった。外では、町子がまだ騒ぎを続けていて、周りが必死に宥めていた。晴雄も玄関先に飛び出したが、とりあえず町子も落ち着き出したので、晴雄はマサに目で大丈夫じゃ無いか、という意味の合図を送った。マサも理解して、小村に伝えに行った。

 時としてこんな騒動があるのが、烏森という花街だったが、昼間は唄や踊りの練習に励む色取り取りの華やかな芸妓達と三味線の心地よい響きに囲まれた、落ち着いた街だった。ともかくこの街で二人の生活は始まったのだ。いつまでもマサに任せっぱなしにするわけには行かない。晴雄は、はじめ何をすれば分からなかったが、マサに言われるまま、まるで部下のように仕事を手伝っていった。
「あたしだって、芸妓している時には帳簿なんて見たことなかったですよ。でも、帳簿をしっかりつけて行かないと、旅館を切り回して行くことはできないでしょうから、晴雄さん、勉強してくださらない?」
経営管理面を担当しろということだ。良いも悪いもない。この時代の男として、晴雄も女房に仕事の指示をされるということに違和感が無かったわけでは無い。しかし、旅館業に関しては、接客業の経験豊富な元芸妓の感覚が正しく、またそれに従うことが却って心地よいのだということをすぐに悟った。何よりマサは、晴雄を立てることを決して忘れてなかった。花街に居た女性として、男の立て方は完璧だったし、なにより常に笑顔を絶やさず、何か晴雄に指示を出すときでも、明るく、どこか甘えた感じで、晴雄の誇りを傷つけないようにしていたのだ。
誇り...そう、晴雄は群れプライドを追われて誇りを傷つけられた獅子であり、孤独だったのだ。マサはそれが十分すぎるほどわかっていたので、晴雄には常に優しくしていたのだ。
また晴雄は、経理を勉強しながら旅館業を学んでいったが、そのすぐ外側の世界については晴雄の知らないことばかりだったので新鮮だった。烏森の花街の内外で起きている事象については、常にマサに聞いた。花街で旅館を営んでいる以上、花街の流儀についても知っているべきだったのだ。

 昼間の旅館には、よく髪結いで出てきた芸妓達がマサのところに立ち寄って世間話をしたりしたので、晴雄は何の気無しに聞いてみたりしたが、花街の事はやはり良く分からない。
 ある日、マサを慕っていた玉菊という芸妓が吾妻屋に立ち寄った。髪は島田に結ってはあるものの、まだお座敷には時間もあったので、おはしょりのままで、玄関先からマサに勧められるまま、居間まで上がった。玉菊はその頃、稜雲閣の百美人で一位になり大人気となっていた。
「お菊さん、凄い人気で、芸者屋に頼んでもちっとも呼んでくれないからって、私の所にまで、何とか玉菊との間を取り持ってくれないかって頼みに来るのが居るのよ。あたしなんかのところに来たってどうにもならないのにね。」
 マサはそう言いながら笑い転げそうだった。玉菊は、新橋や烏森に来る男達の間で争奪戦となっていたのだ。
「あらマサ姐さん、私に直接言ってくれればお姉さんの顔を立てて、お母さんには言っておくわよ。」
「本当に良いのよ。もう癖になるから...」
 そう話すマサの顔から、晴雄はマサが本当に困惑しているのではなく、男達を列に並ばせておくのが楽しくでしょうがないというようなちょっと悪戯な笑顔になっているのに気付いた。玉菊が帰った後に聞いてみた。
「君は顔が広いと思われているんだね。でも玉菊は実際、凄い人気だよね。」
「そうね。でもお菊さんには旦那が付きそうって噂よ。」
 烏森の花街の事情にはまだまだ疎い晴雄にはついて行けない話であった。マサの言う通り、それから程なく、新橋、烏森(からすもり)を噂が駆け巡った。どこかの高級官吏が千五百円という途方もない額を出して、玉菊を落籍したらしい。実際、新橋界隈で玉菊を見ることは無くなった。
その代わりに、今度は、やはり百美人で上位に選出されていた桃太郎が大人気になった。玉菊に代わって桃太郎がマサの話し相手になった。
「玉菊姐さんがいなくなって、それを全部相手にしろって、そりゃあ無理な話よ。」桃太郎はそうこぼしていたが、もちろん満更でも無い顔をしていた。
 晴雄はマサに珍しく軽口を叩いてみた。
「玉菊がいなくなったと思ったら、今度は桃太郎に熱狂か。その次は、君のところにも愛好者が押し寄せてくるんじゃないか?」
「もう冗談はよしてください。」
 晴雄にしてみれば、この烏森(からすもり)にまだ「お吟」を慕う者がいたって不思議はないと思うのだが、マサは取り合わなかった。そうは言っても、マサは今も芸妓達の間で顔も広く慕われていた。芸妓としては引退して花街と距離を置いているはずだが、マサ自身、やはり芸妓達と噂話をしたり、待合の経営者たちともうまく連携して、吾妻屋の商売につなげたりしていて、この花街が好きなのだろうなと晴雄は思った。
「そりゃあ芸妓ってのは酔客の相手をするわけですから、楽な事ばかりじゃ無いですけど、それでも粋なお客さんの前で唄や踊りを披露して、お客さんも一緒になって唄ったり踊ったりしてくれると、それは楽しいものですよ。そういう殿方は遊び方も小慣れていて、変な無理強いはしないし、芸妓達を優しく扱うし、だから、そんなに悪い商売ではないですよ。」
 ある時、晴雄がマサに花街の事を聞いてみるとそんな返事が返って来たことがあった。そんな感じで、晴雄とマサが日々を烏森で過ごしているうちに、花を求めて新橋や烏森からすもりに来る男達の間では、芸者は益々ステータスを示すものとなって行った。そのため、芸妓を落籍させる金額もどんどん吊り上がって行った。


洗い髪のお妻

 明治二十五年(1893年)の年の夏のまだ暗くなるかならないかの薄暗い時間に、一台の人力車が吾妻屋の玄関前に着いた。吾妻屋のすぐ前が待合の枡田屋があるため、烏森に慣れた晴雄の目にも日常の光景であったが、その後、降りて来た芸妓には目を奪われた。その芸妓は、髷を長く垂直に結った島田に艶やかな青緑の、いわゆる金春色の着物を着こなしていた。
 芸妓は晴雄の顔を見ると、「あら、こちらじゃ無かったわ。」と言って振り返り、枡田屋の中へと消えていった。奥手の晴雄にさえも一瞬にして強烈な印象を残して行った芸妓だったが、その数日後、その芸妓を再び目撃することとなる。

 何やら表通りが騒がしくなっていたので、中庭で植木などの手入れをしていた晴雄は。烏森の表通りまで何の気なしに出てきた。すると髪を垂らした女が走っているではないか。若い女性が髪を垂らしたまま走るなどというはしたない姿は滅多に見れるものではなく、すぐに野次馬が集まりだし、街はかなり騒然としている。
(あの時の芸妓だ。)晴雄がそう思った横で、桝田屋の仲居が吾妻屋の玄関に飛び込むようにして入って行き、マサを大声で呼んだ。
「お吟姐さん、大変よ。お妻姐さんが髪を垂らしたまま走って行ったわ。」
 マサは呼ばれるまま通りに出たが、さすがに喧噪を巻き起こした疾風は遠くに行ってしまっていた。
「確かに歳の頃は、十七、八の女が髪を結わずに、長くだらしなく垂らしたまま小走りに駆けていたのよ。あれは、お妻さんに間違いないわ。」
 枡田屋の仲居は確信を持って情報をマサに伝えたが、マサはそれほど驚くことはなく、玄関から宿に引っ込んだ。女性が、ましてや芸妓があのようなあられもない恰好をさらしていたのであれば、マサはもっと驚いても良いだろうにと晴雄はやや不思議に思ったが、マサはちょっとばかり怪訝な顔をしただけだった。
 お妻の名前は晴雄も知っている。そしてこの烏森からすもりに来てから何度か見かけたが、はっきりと見たのは先日の人力車から降りた時に目の前に現れた時が初めてだった。お妻は烏森からすもりの花の家という芸者屋に来たばかりの芸妓だったが、すぐに一番人気となった。マサともすぐに仲良くなった。
 表通りの騒動が一段落したのか、晴雄達が宿に引っ込んで玄関回りの片づけをしていると、芸妓が二人駆け込んできた。
「お吟さん、お妻姐さんは洗い髪そのままで写真屋に駆け込んだそうよ。」
「なんでも、今年の稜雲閣の百美人に写真を出すのに、そこの待合の桝田屋で髪結いを待ってたらしいんだけど、いくら待っても来やしないんで、しびれを切らして走り出し、人力車をつかまえて築地の写真屋まで急いで行っちゃったということのようなのよ。」
 このことによって新橋だけでなく、花柳界全体や浅草のような繁華街でも、洗い髪お妻の噂でもちきりになった。そもそも、芸妓が百美人のための写真を撮られる場合、手古舞姿(筆者注:江戸時代の祭礼の余興に出た舞「手古舞」の時に、芸妓が男髷(おとこまげ)を結い、右肌ぬぎで伊勢袴に手甲・脚絆、足袋にわらじをつけた姿)が多く、新橋芸妓の場合、小紋(筆者注:繰り返しの小さな模様を型染めしたもの)で決めたのが多かった。洗い髪そのままで写真に撮られるなんてはしたないという声も大きかったが、それよりもとにかく、その写真の衝撃が大きかった。洗い髪お妻は、花柳界に通う男どもの心をわしづかみにしたようだった。つまり、男というものは、着飾って化粧した女のどこまでも美しい姿に心打たれながら、一方で、洗い髪のような日常の延長の姿に欲情するものらしい。お妻自身もちゃっかりこの流れに乗り、お座敷にこの洗い髪のように、髪を結わずに出ることもあった。お妻のことはちょっとしたブームになり、街でも髪を結わない女性が出現する有様となり、この話をもとに小唄まで作られたりした。

『鐘かすむ凌雲閣に咲き競う
美人くらべや恋くらべ
ぱっと浮名を花立ちばなの
想いうずまき入れぼくろ
おつま命と心にさして
意地は一筋烏羽の
ぬれて仇めく洗い髪』

「お妻の件はねえ、僕が仕掛けたんだよ。」
 元数寄屋町の広告屋、今でいう広告代理店である東京広報舎の光山が、吾妻屋の居間のソファに腰かけながら、マサにこっそり教えた。光山は、吾妻屋の新聞広告を出すのに晴雄とお吟がつき合っていた広告屋だったが、他にも吾妻屋に泊っている政治家になにやら接触をしていた。いつも洒落たチェックのハンチングを被って、チャコール・グレーのスリーピースを着こなし、丸眼鏡を掛けた光山は、いかにも商人という感じであり、少しばかり偉そうに、気取ったポーズで煙草をふかしながら語る癖があった。
「今度ね、宣伝用の写真にこの吾妻屋の部屋や玄関を貸してほしいんだ。モダンな高級旅館のイメージで商品を宣伝すれば売れるし、この吾妻屋だって評判になるでしょ?」
 足を組んで、いつもにように横柄な態度で、物事を決めつけるように喋っていた。
「宣伝をしてくれるのは有難いんだけど、あんまり派手過ぎることは御免ですよ。うちは、品の良い高級旅館でやってくつもりなんですからね。お妻さんをここで写真に撮って商品を売り出そうなんて、考えないでくださいな。」
 光山は、マサが出してくれた玉露をすすりながら、吾妻屋の庭を眺めていた。
「ここは本当に落ち着くね。いい旅館なんだがなあ。もったいないよ。」
 光山が何を考えているのかわからないので、マサは黙っていた。
「僕はね、こういう良いものを見ると、人に紹介したくなる性質なんだよ。もっと売り出したいと思うんだ。根っからの広告屋なんでね。商売の事だけじゃなくてさあ、なんか黙って見過ごされるのが我慢がならないんだよね。ほら、ここに良いものがあるぞ、って日本中、いや世界中に知らせたいと思うんだよ。是非、旦那さんと話しをさせてよ。」
 このような話を聞いていて思うところがあった。確かに、光山は、お妻の売り出しの件もそうだし、広告屋としては中々のやり手だった。それを利用したい気になったのだ。
「お妻さんのことだってね。芸者ってのは、日本が世界に誇る文化じゃないか。その価値をもっともっと知らせたくてね。」
「それならね。」マサは話をする機会を伺っていたのだ。「そんな、世界に誇る花街で旅館を経営する、うちの主人を売り込んでくださいな。」
 光山は一瞬、きょとんとした顔をしたが、すぐに冷やかすような、しかし皮肉は込められていない素直な笑顔になった。
「いやあ、お吟さん、いや女将の旦那への入れ込み方は、実は我々のような者にも聞こえて来ていたんだが、こりゃあ本物だね。良いでしょう。考えておきます。その代わり、しばしばこの吾妻屋を使わせてくださいよ。」
 マサは頬を赤らめていた。もう夫婦になって何年も経ち、この旅館をやって来たのだ。それでも、冷やかされて、晴雄と初めて会った頃の自分を思い出しながら、自分でも笑ってしまった。
 
 光山は、新橋の芸妓を新聞広告に使うことを以前より計画していた。稜雲閣の百美人は光山の仲間の企画だったが、その百美人展を見た時に閃いたのだ。芸妓は様々な商品の宣伝に使える。華があるし、気品もある。商品のイメージ作りには、芸妓を使ったポスターがうってつけなのだ。
 光山は、実際さらに洗い髪お妻の写真を売り出した。そのため、お妻の例の写真は、たちまち髪結いの店の中にもポスターとしても張られるようになった。洗髪料のパッケージにもお妻の写真が飾られた。煙草のゴールデン・バットのパッケージには、おまけとしてお妻のシガレット・カードが入れられて、煙草は爆発的に売れた。お妻は日本初のアイドルだったのだ。
 洗い髪のお妻の売り出しのせいで、新橋、烏森からすもり界隈の料亭や待合で、元々人気だったお妻の人気が過熱した。みんなが競うようにお妻をお座敷に呼んだのだ。光山のような芸妓の売り出しのせいもあって、ますます芸妓達は人気になり、新橋界隈は華やかさを増して行った。
 政財界の要人の多くお妻を贔屓にしはじめたが、どうやら頭山満と恋仲となったという噂が烏森からすもり中を駆け巡った。頭山にお妻が惚れたらしいということだった。頭山の方も初めてお妻を桝田屋の座敷に呼んだときに一目ぼれしたのだという噂が新橋中に流れた。
 お妻は、伊藤博文やら渋沢栄一などの新橋でも最上級の客の座敷を断り、もっぱら頭山の座敷にばかり出ると噂された。
「お妻さん、頭さんが虫も殺せない性格で、あんな豪気な人が凄く優しいのでびっくりして惚れたという話なんだけど。」マサは旅館の事務室で宿帳の整理をしながら、聞いているか聞いていないかわからないような晴雄に構わず話しかけた。「ちょっとその話はどうなのかしらね。お妻さんのことは良く知っているけど、頭山さんみたいな人に惚れるという人じゃないと思うわ。御侠おきゃんだし、元々、お妻さんはね、歌舞伎役者の市村いちむら羽左衛門うざえもんさんと恋仲だったのよ。まだ売り出し中でお金のない市村さんをずいぶん支えていたみたい。あ、これ一緒に玄関帳場まで運んで。」マサは書類の山を晴雄に渡して、戸を開けた。事務室を出て廊下を歩いている時にも掃除が行き届いているかしっかりと見極めながら話を続けた。「それにお妻さんは、伊藤さんたちのお座敷を断ったりしてないわ。何か噂と違うのよね。」
 晴雄は話をうまく呑み込めなかった。
 その市村羽左衛門がお忍びで吾妻屋に泊りに来た。横には洋装をしている女が寄り添っていたが、晴雄も一目で芸妓だとわかった。その美しさに隙が無いのだ。羽左衛門に寄り添うようにおとなしくしていたが、時折、口から出る言葉はキレがあり、ちゃきちゃきの江戸っ子だった。晴雄は後でマサに教えてもらったが、この江戸っ子はお鯉という芸妓だった。二人は密会に吾妻屋を利用したようだった。待合にも寝床があるところもあるし、湯殿を備えている所もあったくらいなのだが、新橋一の美人芸者との密会に待合を使うわけには行かなかったらしい。
「市村羽左衛門は、お鯉さんと結婚するらしいわ。もうじき話題になるんじゃないかしら。」
 晴雄は改めてマサのこの烏森での情報網に感嘆した。マサが教えてくれる花柳界の男女の事情は、晴雄にとってそれほど興味のあるものではなかったが、その花柳界の真ん中で旅館を営む者としては、情報を仕入れておかないわけにはいかなかったのだ。
「お鯉さんは、最初近江屋の半玉をやってた頃、15代目の市村羽左衛門さんに見染められて、その頃からの仲なのよ。市村さんは酷く女癖の悪い人でねえ。ああ、あたしったら、あたしも花柳界にいた人間として、あまり人様の事を噂するのは良くないわね。お願い、ここだけの話にしておいて頂戴。」
 まあここだけの話も何も、晴雄もそれほど花街の噂話に興味のある友人が多いというわけではなかったのだが、マサの話は少し逸れ出した。
「芸妓にとって歌舞伎役者と遊ぶというのは、そおねえ、男の人が吉原で娼妓と遊ぶような感覚かしら。歌舞伎役者の一人や二人囲うのが芸妓の甲斐性ってとこね。でもね、もう一つは、それは旦那とか贔屓の男に対する当てつけよ。ね、芸妓は娼妓じゃないって建前でも、水揚げされて旦那が付くというところは、昔ながらの人身売買よね。娼妓が年季明けするのと、芸妓が落籍されて旦那がつくの、そんなに変わらない。自由がないのよ。良い旦那は、そりゃ、芸妓たちにとっても憧れるところだけど、でも女として普通に恋だってするわよ。その自由がないことに対する抗議で、歌舞伎役者と遊んでるの。」
 晴雄は、マサがそういう世界に居た人間だということを改めて思い知らされた。マサが自分より数段、厳しい人生を歩んできた気がして、頭が上がらない気がしたのだ。晴雄は、下を向いたまま続きを聞いていたが、マサは思い出したようにお妻の事に触れた。
「お妻さんもねえ、今でも切れていないはずよ、市村さんと。頭山さんとの事で、伊藤さんや渋沢さんの座敷を断ってまで頭山さんのところに行くって噂になっているけど、そんなの芸者屋のお母さんが認めるわけないわよね。」
「それはどういう事なのかい?」
「何らかの理由があって頭山さんが噂を自分で流してるんじゃないかしら。」
「何のために?」
 その数日後、お妻は、ふらっと吾妻屋にやって来て、マサを呼んだ。
「お吟姐さん、話を聞いてくれる?」
 お妻は明らかに疲れた、悲しい目をしていて、何か深刻な事態を抱えているように思えた。

 明治二十七年(1894年)7月の梅雨も明けた頃、朝鮮半島を巡って日本と清国が戦争に入るという号外が烏森の街にもまき散らされた。号外を手にして、晴雄は子供の頃、まだ国が荒れていて戊辰戦争が勃発した頃の事を思い出した。上野戦争や東北での戦いなど、実際に自分の目でも見たし、大人たちからよく話を聞いていた。日清戦争開戦で浮かれる街の人々を横目に、晴雄は銃砲の音を思い出し、気分が憂鬱になるのだった。
 戦争には頼らない貿易による国の強化を唱えていた徳富蘇峰の国民新聞でさえ、すっかり豹変してしまった。日清戦争を支持し、国民新聞で国民の戦意を煽りに煽ったのだ。徳富だけではない。かつての自由民権運動の弁士たちも誰もが戦争を支持していた。
 川上音二郎に至っては、戦争が始まるとすぐに朝鮮へ渡っていった。行く前に光山と頻繁に会っていたのは、渡航の金の工面やらなんやらを光山が面倒見ていたかららしい。何しろ、光山は陸軍にコネを持っていたし、戦地で軍に案内してもらうにも、軍に連絡しておく必要があったのだ。そして、音二郎は帰ってくると戦地で見聞きしたことを「川上音二郎戦地見聞日記」として芝居にした。これが大当たりした。烏森の近くの芝浜でも、芝居小屋というより、ほとんど掘っ立て小屋のような所でも、公演を開いていたが、押すな押すなの大盛況で、小屋の中は異常な興奮に包まれていた。晴雄も光山に誘われて見に行ったが、そこには満足そうな顔をした頭山とその取り巻き連中もいた。戦争前には、国民の中に少しはあった厭戦気分などどこへ行ったかわからないほど誰もが浮かれていた。
 そして、日清戦争が日本の勝利に終わると、さらに国民の間の気分は沸騰した。誰もが派手に金を使い、新橋や烏森からすもりの花街は空前の景気になり、前から見かける縮緬地の裾模様に、今度は繻珍しゅちんの丸帯をした、派手な芸者を多く見る様になった。日本中が戦争景気に沸いた。その好景気も手伝って、吾妻屋の経営は順調そのものだったことが、晴雄にとって複雑な気持ちだった。戦争に反対していたわけでも賛成していたわけでも無かったが、こんな風に景気が良くなっていくことに居心地の悪さを感じていたのだ。

 その頃、羽左衛門と結婚したはずのお鯉が吾妻屋に顔を出すようになった。マサと居間で世間話をしているところを晴雄が通り過ぎると、お鯉は格別な笑顔で晴雄に挨拶した。黒々とした髪を、何の気無しに切下げにしていたが、それでもどこか妖艶さが残っており、お妻とは違った雰囲気ながら、明らかに人を惹きつける魅力を持っている女性だった。
 マサによれば、市村羽左衛門と結婚していたお鯉だが、羽左衛門の女癖や歌舞伎界のしきたりに嫌気がさして、離縁して、新橋に戻ってきたのだそうだ。
 そんなお鯉とお妻が鉢合わせになる事もあった。元々、まだ売り出し前の羽左衛門を何から何まで面倒を見ていたのがお妻だったのだから、お鯉は言わば羽左衛門を寝取った格好だったのだ。面白い事に、バツが悪そうにしていたお鯉に対して、お妻は堂々としていた。
「あら元気そうね、お鯉さん。羽左衛門の女癖で苦労された様だから心配していたのよ。」
 お妻は明らかに当てこすったような言い方をしたが、お鯉の反応を楽しみにしていた風もあった。
「いえね、あたしもこういう性質だから、ここの水が合うのよ。誰かさんみたいに洗い髪晒さなくたって、唄を唄ってりゃ幸せだしね。」
 ハラハラしながら話を聞いていた晴雄を横目に、マサは二人のやり取りを楽しんでいた。でもこれからもこの二人の女同士の鞘当てを放っておいても大丈夫なものだろうか。
「心配ないわ。二人ともそんなでも無かったわよ。お鯉さんも江戸っ子だから売られた喧嘩は買わないと済まない性質だけど、お鯉さんくらいになれば、いくらでもお座敷の声はかかるしね。」
 マサの言う通り、お鯉は新橋で再び人気の芸者となったが、すぐに桂太郎がかなり入れ込んでいるというのが噂になった。
「お吟姐さん、今回の事では色々お世話になったわね。この新橋に戻ってきて、こんなにすぐにまた誰かのところに行くなんて考えてもいなかったけど、今度こそ、あたしも収まる所に収まることにしたわ。市村さんの時とは違って、今度はもっと固い人ですから。」
 マサのところでお鯉はそんな風に話をしていたが、固いと言っても、今度は本妻では無いのよね、と話を聞いていて晴雄はぼやっと考えていた。もしかしたらマサも同じことを考えていたかも知れない。マサが以前に、誰かに自分の人生を委ねるなんてまっぴらだと言っていたのを覚えている。本妻か妾かはともかく、桂のような男の下に行くというのは、もはや自分の人生を歩むというのとは全然違う生活だろう。
 お鯉が桂の妾になったという噂は、すぐに烏森中に広まった。お鯉は、赤坂の家を与えられて、まるで本妻みたいに振る舞っているらしいということだった。
「女の人生よね。」マサは否定も肯定もしない口調で、立ち寄ったお妻と話した。「で、お妻さんは?そろそろ、良い人を見つけたんじゃないの?」
 マサは、普通の女性同士の会話として、お愛想程度で聞いただけだったのだが、お妻の表情は曇った。いつもマサとお妻は、女性同士の取り留めもない話をしていたのだが、今日のお妻の表情は違った。いつかも同じような事があったのをマサは覚えていた。通りかかった晴雄も一目で首を突っ込まない方が良い事を悟った。

 マサはお妻の事を気に掛けていたものの、たまにやって来るお妻と少しばかりの時間を過ごす以外は、いつも自身の生活の糧、吾妻屋の切り盛りで忙しそうに動き回っていた。それらの贔屓の中に財閥の番頭級の男が何人か居た。彼らは新橋や烏森からすもりの待合、料亭で頻繁に茶器や書画の展覧の会を開いていた。そうした会に呼ばれて、勉強のためにマサも出向いたことがあった。マサは、その財閥の紳士たちの会合を何とか吾妻屋に引っ張って来たいと考え、積極的に売り込んだ。
「会合の後、そのままお泊りいただくこともできますし、烏森の真ん中なので花街に繰り出されるにも都合が良い事でしょう。」
 そうしたマサの営業が功を奏し、財閥紳士が吾妻屋に来てくれるようになった。ただ吾妻屋に来て会合を開いてくれても、警察令で芸妓を吾妻屋の座敷に呼ぶことは出来なかった。そこでマサは考えた。芸妓を呼んで宴会を開くことは出来ないが、逆に芸妓たちが教養を深めるための勉強会ということにすれば、財閥紳士と芸妓たちが和やかに時間を過ごすことはできるのだ。
 日中は元々、芸妓たちは唄や踊りの稽古に出かけることが多い。そこで、茶器や書画の展覧会の始まる一、二時間前の間、芸妓たちを呼んで勉強会を開くことを考えたのだ。お座敷に呼ぼれるのではなく、自ら勉強をするのだから問題は無かった。マサは、陶磁器にまつわる文化、歴史について財閥紳士たちを講師とした。このような会合で芸妓たちを集め、紳士たちも鼻の下を伸ばしながらも、丁寧に本物の教養というものをきちんと教えた。
 集まってきた芸妓の中にお妻も居た。財閥の紳士が書画の勉強会をやるからとマサが呼んだのだ。この時は、芸者の正装をして来たわけでは無く、髪だけ夜の座敷に備えてつぶし島田に結っていたが、緋鹿の子の上に黒襟をかけた格好だった。それでも、紳士たちの間で、西洋風に口笛を吹く者もいる始末で、他の芸妓達よりも数段目立っていた。この時、晴雄はお妻と目があったが、お妻は思わせぶりにふっと微笑んだ。
 マサは、紳士たちとこうした会合を重ねて行くうちに、さらに思いついたことがあった。
「会社の重役会などの御用がありましたら、大広間をお貸しすることもできますので、ご用命いただければと存じます。」
 この頃はビルヂングというものが不足しており、財閥ですら、大きな会議をする部屋に不足していた。特に、重役会などの重要な会議は、秘密の事項も多い。会社から離れて旅館の大広間で開催するのは、その意味でも都合が良かったのだ。吾妻屋で大会社の重役会議などがしばしば開催されるようになることで、さらに高級旅館としての名声を高めて行き、教養ある人々が吾妻屋を好んで使うようになった。このことで業績もさらに伸びていったのだった。

 晴雄はとにかく管理に徹した。元々理学士で、経営とか簿記に関しての知識は無かったが、それらを独学で学び、きちんとした複式簿記で旅館の売り上げ、債権債務の管理をすることができるようになっていた。それだけでも、どんぶり勘定が多かった当時の旅館業においては画期的だったのだ。
「本当に助かります。」
 執務室で晴雄にお茶を出しながら、マサは椅子に座った。
「当然の事じゃないか。少しでも君に追いつかないとね。君は客商売の玄人だけど僕は違う。理学士なんて肩書は、ここでは何の役にも立たないからね。」
 晴雄は別段、投げやりに言ったわけではないが、マサは気にしていた。
「そんなこと仰らないで。あたしは、晴雄さんのすることは信じています。昔から...」
「いや楽しいよ。商売には学問では学べないものが確かにある。毎日が刺激的だよ。」
 晴雄がそういうとマサは本当にほんとしおた表情を見せたのだった。
 晴雄は、管理の仕事だけでなく、自分でも営業に出かけもした。大学時代の同窓生を尋ねて回ったが、同年齢程度の同窓生では官界や財界ではさすがにまだ高級旅館を自由に使いこなせるほどに出世はしていなかった。晴雄が訪ねて行くと、懐かしがってくれるものの、必ず最後には聞かれた。
「獄にはいつまで入っていたんだい?」
 晴雄が心機一転、仕事に打ち込もうとしても、人々の記憶から中々事件が消えず、晴雄の営業成績はマサほどには上がらなかったのだった。

 そんな営業活動から、吾妻屋に戻るとき、烏森の路地を歩いているとどこからともなく、三味線の音が聞こえてくる。どこかの芸妓やお酌が稽古をしているのだろう。時折、例の唄も混じる。お妻の人気は絶大だった。

『鐘かすむ凌雲閣に咲き競う
美人くらべや恋くらべ
ぱっと浮名を花立ちばなの
想いうずまき入れぼくろ
おつま命と心にさして
意地は一筋烏羽の
ぬれて仇めく洗い髪』

 営業活動の成果はまだまだだったが、こうした烏森の風情は心地よいと思うようになっていた。そして烏森の路地に見慣れた黒板塀を見ると吾妻屋に戻ったことが確認できて、ここが一番落ち着けることを再確認した。晴雄は烏森からすもりでの生活にも旅館経営にも慣れてきた事を自覚し始めていた。そして晴雄は、いつもまでも過去に生きるわけには行かない、そう自分に言い聞かせながるのだが、それでもふとしたことで紋々としてしまう。
 明治二十八年(1895年)の七月、三浦梧楼が井上馨の後任として駐韓全権公使となり、混乱の続く朝鮮半島に行く事になるという事が報道された。八月に入ると、今度は是清が横浜正金銀行の支配人に就任したという報道を新聞で読んだ。晴雄は、仙臺の監獄に閉じ込められていた時の事を想えば今の生活は天国のように感じられていたし、不満があるわけではないが、三浦は国の代表として朝鮮に行き、是清が国際貿易の要である銀行の支配人にまで出生したという話を知って、晴雄はどうしても気持ちが落ち着かないのであった。そんな時、晴雄は新聞紙をわしづかみにして、ゴミ箱に放り投げ捨てていたのだが、大抵の場合、その場面をマサに見られていた。マサは、あれこれ言うようなことはせず、ただ黙って晴雄に笑顔を見せるだけだった。
 それでもある時、マサは晴雄に尋ねてみた。
「今でも是清さんを恨んでらっしゃるの?」
 そんな場合、晴雄はぶっきらぼうに答えるのであった。
「今更...」
 マサは質問を変えてみた。
「今でも汚名を雪(すす)ぎたいのですか?」
 この質問には、晴雄はかなり苛立ちを見せるのだった。
「名誉...か。詐欺師として刑を受け、今さらどのような方法で名誉を回復できるというのだい?ただいつか、連中には一矢を報いたい...」
 マサは、自分の無力を感じるとともに、この感情をそのままにしておくことが何か良くないことを引き起こさないか、胸騒ぎがしていたのだった。
 こんな日の夜は、晴雄は悪い夢を見た。場所は霧がかかった岩だらけの山、その谷の合間に建てられた小屋、中では荒くれ男たちが騒いでいる。荒くれ男と秘露人で喧嘩が勃発し、荒くれ男は拳銃を取り出す。その流れ弾に晴雄があたる、そんなところで目が覚めるのだった。
 夢見が悪い日も、不機嫌なまま客前に立つわけには行かない。何しろ客商売なのだから、黙って働くしか無いのは当たり前なのだ。それでも、古創というのは、季節の変わり目など、風向きの変化によって痛むこともあるものなのだ。是清が横浜正金銀行の支配人になった頃から、吾妻屋を取り巻く環境も何とは無く変化しているのを感じ取って、晴雄はその古創を放っておくわけにも行かない気がしていた。
 その数日後、晴雄は吾妻屋の執務室でぼんやり考え事をしていた。そこへ、マサが玄関の帳場に置いてある金庫を持って部屋に入って来た。
「何を考え事なさってるんですか?」
「いや、別に...」
 晴雄が視線を逸らして、客室の居間用に取っている日本新聞に目をやった。国力の拡充の重要性を訴える記事がその日のものでも展開されていた。
「是清さん、横浜正金銀行の支配人になったそうね。」マサの言葉に晴雄は不意を突かれたように驚いて思わずマサの方を見た。「どうしても、是清さんのことは忘れられないのですか?」
この前と同じようなマサの質問に、晴雄は視線を落とし反応していないフリをしたが、少し考えてから知らないフリを諦めて答えた。
「いつもいつも考えているわけじゃないさ。ただ、完全に忘れようったって無理な話だ。こっちは秘露ペルーから帰って、誰にも会えないまま、そのまま監獄に直行したのだからね。そして、何とか君の助けを得てこうして出てこられても、もう理学士の名誉は失われたまま。僕が君と身を粉にしてこの吾妻屋を盛り立てようという時に、向こうはバンカーか...」
 晴雄はマサにはできるだけ正直な気持ちを伝えた。執務室は秋の初めとは言え暑い光が差し込んでいて、深刻な話をするには似つかわしくない明るさだった。晴雄とマサはしばらく黙っていたが、マサが口を開いた。
「そうねえ...忘れられないなら無理に忘れることは無いでしょう。男の方なら見返してやるという気持ちも大切なものでしょう。ただ、是清さんは、なんか運の強い人なんだわ。晴雄さんの運はこれからですよ。私はそう信じてます。」
 マサは必死に晴雄の気持ちを静めようとしたつもりだったが、晴雄の返事は予想していないものだった。
「とにかく、いつかかならず借りを返す。奴にも絶対に代償を払わせる。」
 晴雄の見返すというよりももっと強い言葉遣いに、マサの心はかなりかき乱されたのだった。

お妻がいつものようにマサと雑談をするために吾妻屋にお茶を飲みに寄っていた時に、マサに何気なく聞いてきた。
「旦那さん、理学士さんなんだってね。凄いね、旅館の切り盛りもできるんだね。」
 お妻がどういう気で言っているのか、そもそも、晴雄が理学士であることなんてとうに知っているとマサは思っていたので、やや怪訝な顔をしながら相手をした。
「良い人と一緒になったと思ってますよ。働き者ですし。」
「あら、お吟姐さんの惚気(のろけ)話を聞きに来たんじゃないんだけど...」
 お妻は自分から聞こうとしたくせにマサの話に苦笑していた。
「旦那さんは、かつて、あの横浜正金銀行の高橋是清さんとも仕事しようとしてたんだってね。秘露ペルーの銀山に挑戦して、失敗...そして今は、こうして高級旅館を切りまわしている。あたしもそんな人に女房にしてもらいたいよ。」
 派手な生活をしているお妻らしくない言い方にマサは違和感を持ったので、あえて口をはさんだ。
「お妻姐さんは、新橋に来る男の中で最高の男をつかまえるんじゃなかったの?これまで噂になった人たちだって、みんな歌舞伎役者とか、財界の若旦那とかそういう人たちばかりだったじゃないの。」
 人の噂話にはあえて触れないのが烏森芸者の気風であったが、マサはいつもお妻から色々な話を聞いていたので、その時も何気なく聞いたつもりだった。お妻は真面目に答えようとはせずに、ちょうどその時、居間の横を通りかかった晴雄を捉まえ、怪訝な顔をしているマサに構うことなく、晴雄に話しかけた。
「旦那さん、いつもお世話になっています。特に、お吟姐さんには、いつも本当に良くしてもらっていて。」
 お妻のお愛想に、晴雄も特に警戒心なく、会釈した。
「旦那さん、実はね、今、お吟姐さんとも話をしていたところなのよ。旦那さんが良い男だって。」
 こういうお世辞にどのように対応すべきかの社交術までは晴雄は身に着けてはいなかった。
「あのね、あたしはお二人の吾妻屋をもっと盛り立てたいと思ってるのよ。あたしはお吟姐さんにはずっと憧れていたし。」
 マサはお妻に少し調子のよいところがあるのは知っていたので話半分に聞いていたのだが、晴雄が案外、話を真に受けている感じがあったので、少し落ち着かなかった。
「旦那さんは、本当に惚れ惚れするくらい、いい男よね、働き者だし。だから、あたしに応援させて。いい考えがあるの。あたしは知り合いが多いから、吾妻屋のこと、旦那さんのことを広めてもらうことだってできるわよ。」
 人を疑うことをあまりしない晴雄でも、何とはなしに話の調子のよさに違和感を持ち始めたが、悪い気はしなかった。しかし、マサは明るく振舞うお妻にいつもとは違う不自然さを感じていた。

 それから数日後、頭山がお妻の髪を切り落としたということが、新橋界隈で噂の的となった。お妻が歌舞伎役者市村羽左衛門と遊び歩いていたのを頭山が嫉妬して、お妻に私刑を加えたのだと実しやかに囁かれていた。
「あのお妻さんと頭山さんの話って変ですよ。頭さんが芸妓の浮気なんて気にするはずないわ。」
「頭山だって男だし、独占欲だってあるだろう?」
 晴雄も烏森のゴシップ話に興味が無いわけではなかったが、芸妓と頭山の間の人情沙汰など、晴雄にその真相などわかるわけはないのだ。
「芸妓を独占するって、そんなの旦那になったって無理じゃないかしら。」
 マサの語気は強かった。晴雄は精一杯、想像してみたが、花柳界独特の流儀のことをマサが言っているのにやや落ち着かない気持ちになった。
「頭山さんは嫉妬なんかしない人よ。お妻さんが頭山さん達の仕事をしないで、市村さんに入れ込んでばかりいるもんだから懲らしめようと思ったのかしら...でも絶対それだけではないはずよ。想像だけど、頭山さん達が烏森でやっていることを、誰かに話してしまったんですわ。それで、お妻さんを許せなかったんだと思う。でも、何があったにせよ、女の命である髪を切るなんて...」マサは憤っていた。「花柳界は口が堅いはずだから、芸妓たちは政治家達の話を聞いたって、それを言い触らしたりはしないはずだけど、頭山さんは芸妓達をちやほやする代わりに、いろいろ探りを入れているのよ。どこからお金を持ってきているのかわからないけど、金払いは良いもんだから、頭山さんの取り巻き連中はみんな芸妓にはモテる。その中でもお妻さんをずっと贔屓にしているのは、一流の政治家や財界の人に贔屓にされているお妻さんなら、そうとういろんな話を知っているはずだからよ。」
「お妻は頭山達のスパイなのか...」晴雄は呆然とした。
「晴雄さん、あの人たちにあまりうちのお客さんのことを話さないでね。あの人たちは、人の命を何とも思ってないわ。」
 
 翌日、晴雄にも話さず、マサは一人、吾妻屋の目と鼻の先にある頭山の住処ともなっている浜の家に出かけて行った。
「ちょっと、頭山さん酷いじゃないの。」
 こんな権幕のマサは誰も見たことがないくらいだった。
「おやおや、誰かと思えば吾妻屋さんじゃないか。」
 頭山は、褞袍を着て芸妓の膝枕で転寝と洒落こもうとしていたところだった。気が付くと、頭山のすぐ隣に三浦が座っていた。三浦はこの騒動を楽しむような風情だった。
「天下の頭山満ともあろう男が芸妓の頭を刈るだなんて、随分とみみっちいじゃないの。天下国家はやめにして、髪結い床でも始めようってえのかい?」
 立ったままマサが捲し立てていたので、頭山の頭を膝に置いていた芸妓の顔が引きつっていた。しかし、一瞬の静寂の後、浜の家中に響き渡るほどの頭山の高笑いが聞こえてきた。
「そりゃあいい。そうだな、いろいろ手詰まりなもんでな。ご忠告を聞き入れ、そうするかのお。」
 頭山の調子に気勢をそがれそうになったが、マサは続けた。
「髪ってえのはねえ。女の命なんだよ。ましてや芸妓にとっては商売道具だ。それを切ろうというのは、それは殺すもおんなじだよ。なんだい、ちょっとくらい浮気したからって、女を殺そうってえのは、あまりに料簡が狭いよ。」
 頭山は立ち上がって、まるでマサに接吻しようというかのようにマサの顔に近づき、顔を覗き込んだ。さすがにマサも身構えた。
「ふん...お主もわかっているんじゃろうが。」
 頭山は顔を逸らすと、後ろ手を組んで、部屋をうろうろした。
「確かに、お妻にはいろいろ頼んでいたことがあった。それを最近ではあんまりしてくれんでのお。で、お妻と話してみると、もう旦那を見つけて、芸妓をやめたいのだと言うではないか。だから未練無きよう、さっぱり髪をきって進ぜたというわけよ。」話をしている頭山は、表情は柔らかだが、時折、目の奥がまるで冬の雪空のように暗く冷たかった。「それならのう、吾妻屋さんよ。お妻に代わって色々仕事をしてくれんかのう?」
 マサは、浜の家に乗り込んできたことを後悔した。やはりこの男はとてつもなく危険なのだ。何としても晴雄を近づけてはならないと感じたのだった。

 つまり、この話の裏はこうだった。
 日清戦争終結後の政情が安定しない朝鮮半島に日本政府がテコ入れをするに際して、頭山達は、朝鮮の特命全権公使である井上馨の後釜に盟友三浦梧楼を強力に推していた。朝鮮半島には息のかかった安達謙蔵や、内田良平と東学党の乱を引き起こした武田範之などが居て、杉村を通じて盛んに連絡を取り、工作していた。井上の腹は三浦で決まっていたが、肝心の日本政府内では意見が割れ、三浦本人の気持ちも定まっていなかった。政府の伊藤公等は連日、新橋の待合で「会議」を続けていた。この会議での「工作」をお妻も任されていたが、期待通りの仕事しないばかりではなく、三浦と何かと対立している山県有朋に、頭山らの情報を漏らしてしまったらしい。
 頭山はお妻を諦め、三浦を含めた政府の主要な者達による会議が花月で開かれているところに照葉を送り込んだ。
 長い時間堂々巡りの話し合いが続いたところで、照葉が三浦に酌を注いだ。三浦は酒を煽りながら、自分は行かぬ、誰々に行かせれば良いというように、盛んにくだを巻いた。すると、下を向いて話を聞いている素振を見せていた照葉がうとうと始めた。
「こらあ、近頃の芸者はなっとらんな。客の前に居眠りするとは何事か?」
 三浦は激怒するわけでは無く、揶揄い気味に照葉を叱った。すると照葉は言い返した。
「そりゃあ三浦さん、眠くもなりますよ。同じことの繰り返しなんですもの。」
「何だとう?」今度は三浦は少しだけ語気を強くした。
「聞いてりゃあ、もう大の男達がああでもない、こうでもないって、もうこんなこと繰り返してないで、三浦さんが朝鮮へ行けばよろしいのではないですか。」
 照葉の文句に白けていた座が大きく盛り上がった。
「そうだ、そうだ。三浦を覚悟を決めい。」誰ともなく、盛んに囃し立てた。
「ほらほら、ようござんすか?もうこれで朝鮮へは三浦さんがお行きになると決まったら、祝宴としましょう。」
「そうだ。三浦で決まりじゃ。」と一同は大喝采となった。
 三浦は芸妓達の前で苦虫を噛み潰したような顔をした。自分が朝鮮へ行けばどういうことになるのかよく知っていたからだ。

 数日後、この頃大人の女では珍しいおかっぱ頭に帽子を乗せたお妻が、マサと晴雄を訪ねてきた。
「ねえ、ちょっと話があるの。いや、話っていうより、少しお酒を飲まない?少しなら、どこかへ出かけられないかしら。」
「何かあったら困るので、二人とも外に出るのはちょっと。それよりうちに上がらない?今日は大広間も空いているので、仲居に酒くらい持ってこさせるわよ。」
 マサがそう言ってお妻を玄関から上がらせた。廊下を隔てて中庭が良く見える部屋だったので、お妻はしばらく立ったまま中庭を眺めていたが、仲居が酒を運んでくると、その後、お妻が自分で戸を引いて閉めた。
「今日は何かあったの?」
 マサは先に晴雄に酒を注いだ後、お妻に尋ねながら、お酌をした。
「いや別になんとなく、ほら、大好きなお二人と一緒にお酒を飲んだことも無かったし、ここの所いろいろあってじっくり話せなかったじゃない?」
 お妻は晴雄の顔もマサの顔も直視することなく、酒を男のようにあおりながら、つらつら話し始めた。
「頭さんとは何があったというのです?」
 晴雄は、マサが聞きにくいことをはっきりと尋ねたので横目ではらはらしながら、酒をすすった。
「別に...頭さんとはもう切れることになったのよ。暴力を振るわれたわけではないわ。ただ、頭さんと切れるためには、その方が踏ん切りがつくと思って...」
マサには、お妻の話がなんとなく嘘だということが分かった。芸妓が髪を切るということは、男の人が床屋でさっぱりしてもらうのとはわけが違うのだ。
「私は頭さんのことはそんなに知らないけど、あんな怒りっぽい人だとは思わなかったわ。烏森で遊んでいて...」
 マサはこの旅館の中にも杉村のように頭山と繋がっている者がよく泊まっていることを思い出して、言葉を飲み込んだ。
「ほんと言うとね、何を考えているか全くわからない人よ。芸妓には優しいし人気があるけどね、時たま、ものすごい眼光で睨みつける時があるもの。今はあの人たちの頭には、朝鮮の事しかないけどね。『ともかく、女狐のことは、きっちり片を付ける。』って言ってたわ。」
 政治に疎いマサは、お妻の言うことがピンとこなかった。晴雄も良くわからないという顔をしてマサの方を見た。
「烏森も生きにくくなったわよねえ。昔は潮の香のする海辺の街でもっと長閑(のどか)だったわよね。政治の事なんて、あたしは嫌い。そんなことに関わるのもまっぴらよ。」
 酔いが進むにつれ、お妻の話はやや愚痴っぽくなってきた。マサはお妻が烏森を離れるつもりなのだということを悟った。仲の良い芸妓が烏森を去るということ以上に、街が輝きを失っていく寂寥を感じたのだった。

 その後、お妻から風の便りが届いた。
「お妻さん、米倉さんに落籍されるって。」
お妻を贔屓にしていた者には、伊藤博文から西郷従道などに加えて、財界の大物である米倉一平もいた。その米倉が遂にお妻を落籍し、妾としたのだ。時代に翻弄されたお妻も、やっと収まる所に収まったのだった。
「烏森が寂しくなるわねえ...」
 マサの漏らしたため息のような言葉に晴雄も頷いた。綺麗な芸妓ならこの新橋烏森界隈にはそれこそ五万といるのだが、あれだけの存在感を持った芸妓は二人と居ない。


乙未の秋

 十月の八日、その日は、マサと晴雄は照葉に誘われて、昼過ぎから吾妻屋のすぐ近くの踊りの師匠のところに出向いていた。上京したばかりで、お酌になるという桃割れ頭の若い娘が数人、師匠から手ほどきを受けていた。マサはそれを眺めながら、晴雄に出会ったのもまだ自分が髪を桃割れにしていた時だったなあ、と懐かしく思い出し、娘たちを目を細めて眺めていた。
 照葉が耳打ちしてきた。
「お吟姐さん、あそこの一番、右の娘、八重って娘何だけど、すごく筋が良いと思わない?今後、新橋で一番の芸妓になるわよ、きっと。」
 確かにその娘の踊りは群を抜いていた。器量も良く、ちゃんと育てて行けば、相当な人気者になるだろう。そんな事を考えていた時、光山の使いという、あまり風体の良くない男が入ってきて、照葉に耳打ちした。照葉の顔がみるみる青ざめて行った。
 こっちを向いた照葉の向こうでは、三味線の音に合わせて八重達が踊っている。冬が近づき、三時ころには既に日差しが弱くなっていたせいか、部屋の中はいつにも増して暗かったが、紅色の着物で着飾った娘達の踊りは、とにかく眩しかった。そんな娘達の踊る側で、まるで仁王立ちのように恐ろしい形相の照葉が立っている。
「どうしたって言うの?」マサが尋ねると、照葉は使いの男の方を確認を求めるかの様に向いた。男が構わないさ、というような仕草をしたので、マサに小声で話しかけた。
「三浦さんが...朝鮮のお姫様を殺しちゃったらしい...」

「朝鮮の明成皇后、閔妃びんひが行方不明になったらしい。」
その年の九月に三浦梧楼ごろうが在朝鮮国特命全権公使に就任したと新聞で報じられてから間もない、十月の初旬、我が家のように泊まり続けていた杉村が、誰に教えるというわけでは無いが、一大ニュースを得意げに触れ回っていた。朝鮮の明成皇后、閔妃びんひは十月八日、三浦梧楼ごろうの意を受けた国友らによって殺害されたらしい。閔妃びんひは殺害されたあと死体を焼かれた。事件の後、三浦は無関係を主張していたが、朝鮮政府が三浦達を形ばかりの軟禁状態に置き、その後、日本政府が三浦等関係者を拘束し、広島に送還した。
 照葉は半ば逃げるようにして、震えながらマサのところに身を寄せていた。政治の事など何もわからない。いくら照葉が三浦の背中を押して朝鮮に行く事を促したとしたって、まさかこんなことになるだなんて思ってもいなかったのだ。照葉に責任があるわけじゃ無い。ただ照葉は、自分も良く知っている三浦が大変な事をしでかしたという気持ちで頭が混乱するとともに、とにかく怖さを感じたのだった。
「三浦の奴、なんてことをするんだ。これじゃあまた戦争だ...」
 玄関先で杉村と談笑していた時、晴雄はそのように言葉を漏らしたが、杉村を訪ねて来た頭山が大声で恫喝するように吠えた。
「なんの、狐狩りくらいで、我が国の政府も動揺したりはせん。」
 杉村は頭山を見つけると、まるでゴマをするようにすり寄り、愛想めかして頭山に同意の態度を示した。
「そうですね。頭山さん、とりあえず...少なくとも、結果は頭山さんたちが望んだものとなったはずですね。」
「三浦はいずれ、無罪放免となる。何の心配もないわ。」依然として頭山は泰然自若を演じながら、腹の底から出てくるような太く大きな声で、咆哮した。「とにかく、今回の朝鮮の件は、失敗などではない。多少の混乱など、アジアの大義の前では瑕瑾じゃよ。」
 頭山の言に晴雄も悟った。
(こういう事だったのか...)
 頭山の予想通り、まるで茶番のように証拠不十分で免訴として広島予審は終結し、世の中はまるで何も無かったかのように元に戻った。その後、三浦はしばらく姿を消して、新橋界隈でも姿を見なくなった。
 
 それから二年、烏森は以前と変わらず、小径に入れば三味線の音が聞こえたが、表通りはあ人力車の往来が増え、街に人が溢れる様になり、建物も増えたためか、潮風が遮られるようになり、以前のように潮の香漂う花街では無くなっていた。待合の数も増えるとともに、以前よりも派手な着物を着込んだ芸者が増え、昔のどこと無い静けさが失われつつあったのだ。それでも、三浦の起こした乙未事変から二年が経ち、世の中は落ち着きを取り戻していた。
 そんな頃、是清の仕事ぶりが報道された。是清は、この年、横浜正金銀行で早速の大仕事をやってのけたのだ。戦後の好景気で、景気が過熱して、民間の資金需要が増大しすぎたために金融市場でさばけなくなっていた日清戦争中発行された戦時公債の日銀が引き受け分について、横浜正金銀行の副頭取に就任してすぐに横浜正金銀行のロンドン支店と連絡を取り、ロンドン市場で横浜正金銀行と英国の銀行団からなるシンジケートを組ませ、これらの銀行に戦時公債を売却することに成功した。
 どんなに良い仕事をしていても、ケチを付ける者はいるものだ。特に戦争屋達はいつの時代も資金が無尽蔵にあると思っている節がある。
「なあ、晴雄君、日本国の資金は全て国内で賄うべきだ、そうは思わんかね?」杉村が居間に訪ねて来た頭山を前にしていたが、通りかかった晴雄を捕まえて同意を求めた。
「私は国際金融の事はどうも...」
 晴雄がそう答えると杉村は口元だけで笑った。褞袍を羽織っていた頭山は、目を閉じて只管沈思黙考していた。晴雄もこの男のそんな姿を幾度となく見たことがある。決して自らは語らない。しかし、不思議な威圧感があり、ただでさえ政治に疎い晴雄は、何も言うまいと身を固くするのだった。
「まあ、晴雄君は、是清のすることなんか興味はないわな。」杉村が揶揄い気味に言ったが、頭山が目を開いて、口を開いた。
「高橋是清という男は、良く言えば決断が早いが、悪く言えば詰めが甘い。また、何でも淡泊で薄志弱行な男なのだ...三浦はそう言ってたの...」頭山が一言そう言っただけで、何かが動きそうで不気味だった。杉村は腰巾着ばりにただ只管頷いていた。
「そんな奴が国の重大な資金の調達に関わると言うこと自体が言語道断ですな。」

 戦争のための国債をロンドンで売却するという、是清は言わば戦争屋の尻ぬぐいをしたわけなのだが、排外主義者たちは、とにかく是清に罵声の雨を降らせた。しかしこうした声に是清はどこ吹く風でいつもこう返していた。
「そんな金がどこにあるのだ?」


祝祭

「ねえ、お姐さん、誰が言いだしたのか知れやしないんだけど...」
 是清による外資導入に対する国粋主義者達の不満も収まりつつあった明治三十年(1897年)、烏森の蝉の声が弱々しくなった頃、マサの事を芸妓の頃から慕っていた照近江の小冬という芸妓が翌年の四月に行われる奠都てんと三十年事の催しの事で、マサにところに相談に来た。
「大名行列ですって。なんでも奥向の行列までするそうじゃない。」
 マサは、奠都三十年事の催しで、いろいろな花街から芸妓が集められるらしいということは光山から聞いていた。新橋、烏森の花街も全面的に協力するらしい。もっとも、大名行列は東京中央での話で、烏森と新橋北地は天の岩戸を飾った山車を曳き出し、京橋区から芝区を練り歩くという事だ。芸妓は烏森と新橋煉瓦地から百三十名ほど参加する予定となっていた。マサも光山から催しに加わる芸妓の人選についての密かな相談も受けていた。組合の方とだけ話しをしていても、それぞれの置屋の強弱が影響してしまい、本当に参加させたい芸妓が参加できないかも知れないのだ。小冬はあるいはその事に気付いていて、マサに取り持って欲しいと思って来たのかも知れない。照近江は何しろ、お鯉を筆頭に強力な芸妓を何人も抱えているのだから、ぼうっとしてたら置いて行かれると思ったのだろう。
「大名行列はわからないけど、新橋の山車の行列なら数も多いらしいので参加できるかも知れないから、あたしから光山さんに聞いてみるわよ。」
 マサがそう言うと、小冬は小躍りするように喜び、「さすがはマサさんだわ。話をしに来て良かった。」とだけ言って、まだ座敷の時間には間がある烏森の花街の中へ消えていった。
「新橋ではね、銀座の一丁目まで、両側に紅白の幔幕を張って、市松障子の屋根を付けた行燈や球燈を飾り、尾張町のところには大国旗を交叉させるつもりなんだ。どうかね?想像するだけでも綺麗じゃ無いか?」
 光山は催事はお手の物と言った感じで、自分の考えを披露した。光山は肝心の大名行列にも関わってはいるようだったが、柳橋やら他の花街も加わっての大行列となると、手駒を動かすようには行かないようだった。
「まあでもね、この大名行列もできるだけこの新橋から行列に参加する芸妓を出したいよね。なぜなら、今や新橋の花街が一番だし、新橋の芸妓が一番華やかだからね。行列に一番花を添えられるのが新橋の芸妓達だからね。そして、できるだけ華麗な行列とすることで、この国の雅と力をあらためて披露するんです。これは海外からも注目されますよ。日本という国の力をアッピールしましょう。」
 光山はマサにこういうと、昔の芸妓仲間にも声を掛けておいてくれと頼んでいた。光山は、新橋からも数多くの芸妓、役者に行列に参加してもらい、完璧な大名行列と奥女中の行列を東京の街に再現させるつもりだったが、実は奥女中行列の先頭を誰にするか悩んでいた。
「芸妓はみんな綺麗だが、お妻ほどの艶やかさを持った芸妓はなかなかいないね。お妻が新橋から消えた今、あれだけの芸妓達を随えてなおかつ艶やかさで目立つ芸妓はなかなかいないね。どうだい、マサさんが先頭に立っては?」そういう光山の提案について、露ほども考える余地は無いとでも言いたげに、マサは別の提案をした。
「お鯉さんがいるじゃない。それだけの大役を勉められるのはお鯉さんしかいないんじゃないかしら?」
「お鯉かあ。確かにあれだけの美人芸者はそうそういないね。そうするかね。」
 光山はさっきまでお妻が一番と言わんばかりだったのを忘れたかのように、マサの提案に乗ってお鯉に声を掛ける気になったらしい。
 マサはというと、その手の事は光山に任せて、できるだけ関わらないようにしたかったのだ。光山の意気込みは理解できたが、光山の声を掛けている中に、杉村とそれに連なる、何やら人相の良くない連中が混ざっていることに、かなりの違和感と不快なものをマサは感じていたからだ。
「派手にやるのに、なぜあのような方たちが必要なのかしら?」そのような方たちとは、頭山の所にしばしば巣食っている任侠のようなガラの悪い連中の事だ。マサはそれとなく聞いてみたが、光山の答えはただのはぐらかしだった。
「連中は手なずければよく働いてくれますよ。大名行列ですから、優雅さと力強さが必要なんです。あの人たちは恰好の人足役となりますよ。」
 実際、この奠都三十年の催しには東京の花街全体が熱心に取り組んだ。東京が都であると定められて三十年の間、確かに国の力は伸びた。その力を見せびらかすには、確かに都合の良い催しだったのだ。
 翌年四月、奠都三十年の大名行列は、東京の府内を宮城を目指して練り歩いた。俳優、芸妓、旦那衆、画家、芸人、噺家などが、それぞれ色々な役に扮し、行列を作ったその姿は壮観ではあったが、派手に過ぎる感もあった。芸妓達は、総縫の振袖や、袿を着た、腰元や奥女中に、見物人達は歓声を上げた。
 その行列の中の美しい御殿女中に、照近江のお鯉も交っていた。高島田、総縫の振袖、鼈甲の花笄、緋縮緬の襦袢、選りすぐりの大勢の芸妓が奥女中行列に参加する中、惚々とするほど、際立っていた。
 一方の新橋の行列が烏森界隈を過ぎるとき、晴雄はそれを眺めているすぐ近くに光山と頭山が並んで立っているのを見つけた。満足そうな頭山の顔が印象的であったが、その時に、後ろから茶色い目の外国人に声を掛けられた。
「素晴らしいです。Extraordinary!」
 その声でマサが振り返って、その声の主の方を見た。なるほど、日本の伝統文化で日本人が美しいと思っているものは、西洋人にも通じるところがあるのだ、と確信した。
 マサに近くに芸妓組合の会長の姿が見えたので、話しかけてみた。
「会長さん...」マサは、思いついた事を忘れないうちに会長に披露しようと思っていた。
「今回みたいに、新橋と烏森の芸妓の子達を集めて、踊りの会のような催物はできないかしらねえ。折角、これだけの艶やかさなんだもの。待合にだけ閉じ込めておくのは勿体ないんじゃないかしら。」
「なるほどねえ。そりゃあ面白いねえ。でもどこでやるんですか?まさか吾妻屋でやるんじゃないですよね?さすがに芸妓達が旅館の宴会場で踊りを披露するとなると、三業の規制の問題があるので、なかなか難しいんじゃないですか?」
「そうねえ...でも京では都をどりというのをやってるそうよ。芝居小屋か劇場でやるのであれば問題無いのじゃないかしら。」
「いやあ、これは是非検討しましょう。マサさん、言い出しっぺなんだから、ある程度、芸妓の娘達を纏めておいてくださいよ。」

 数日後、奠都の催しの打ち上げというようなみたいな形で、光山が枡田屋に席を設けた。数人の芸妓に小唄を歌ってもらったが、マサはしげしげと眺めていた。それと、奠都の時の事を思い出していた。数多くの商店が幟を出し、山車に店の主人が乗り込んだりと、活躍していた。それらの主人たちは特に店の宣伝という事だけを意識していたのではなく、純粋に祭りを楽しんでいた面もあったが、晴雄をもっと売り出せば良かったと思っていた。
 以前、そんなような事も晴雄と話したことも有ったが、晴雄は「小売をしている店と違って、うちはそんなに前に出なくても良いんじゃないかな。」と消極的な答えを返すばかりだった。
 そうではなく、つまり店の宣伝という意味では無く、マサは晴雄の存在感を高めたいと思っていたのだ。吾妻屋は順調だ。店自体の評価も高い。だからその押しも押されぬ高級旅館を経営している田島晴雄という男に相応しい、正当な評価を得るべきだと考えていた。そうした世間の評価を得ることができれば、晴雄が全てを克服してくれる、忌まわしき秘露の悪夢から完全に開放されるのではないか、そう考えていたのだ。
「光山さん、この間仰っていた事ですけど...」
「この前って、どの話かな?」
 光山は背広のポケットを盛んに弄っていた。珍しく煙草を切らしたらしい。
「吾妻屋の写真を撮っていただく話ですよ。」
「ああ、やりましょう。」
「是非とも、吾妻屋とうちの人を格調高く撮ってくださいな。」
 マサが少し浮かれ気味に光山に頼むと、光山もさすがに宣伝屋なので、吾妻屋を色々な宣伝用の写真に使うことの許可を求めて来た。
「その代わり、色々宣伝の写真などに使わせて下さいよ。いやあ、それをさせてくれればこちらは本当に大助かりだ。安っぽい宿じゃ、全然、絵に成りませんからね。」
 光山と話が纏まりほっとしたところ、光山は逆に、畳み掛けて来た。
「ところで、マサさん、聞きましたよ。」
 光山が珍しく、ニヤリともしないで話を始めたので、マサにはこれは何かの企画の事だとピンときた。
「何かしら?」
「そんなにお惚けにならなくても良いじゃ無いですか。何かしらの催しをするなら、広告屋では僕が一番ですよ。」
 まあ、決して大げさではなく、光山がやり手の広告屋であることは間違いなかった。
「何でもマサさんの発案だそうで?」
「あら、東をどりの話かしら。」
「そうそう、組合の会長から、マサさんがをどりの会を企画しているって言うから、そりゃあ、僕を差し置くっていう話はないでしょうってことなんだけど...」
 光山は怒っている様子では無いものの、目は笑って無く、ある程度本気で、自分のところに話を通さずに進めるな、と言っている事がわかった。
「いえ、そんなことはないわ。あたしはもう花柳界の人間では無いですもの。確かに会長さんにそう言う話はしましたけど、あたしが口出すのも筋違いじゃないかしら、って思っていましたのよ。話が進むらな、お手伝い差し上げるのはやぶさかじゃ無いんですけど...」
 光山は自分がマサの機嫌を損ねかねないという事にやっと気づいた。
「やぶさかなんて、そりゃあ水臭いっていうもんですよ。ええ、まだ案が出ただけの段階ですが、良いでですとも。そんな良い話をしてくれるなんて、さすがはマサさんだ。すぐにタニマチを付けてごらんに入れますよ。そうすりゃあこの手の話は、とんとん拍子で話が進みますよ。」
「あら、まだお金の面はそれほど心配していないのですけどね。いずれ、どこかの劇場でも借りたならば、その時はそれなりに持ち出しがあるかも知れませんが、今は、一年に一回かそこら、うちの大広間を使って踊りの会を催すくらいなら、お金もそんなにかからないのじゃないかしら。まあ、そうしたら光山さんの商売としては面白みが無いでしょうけど。むしろ、あたしが頼むとしたら、その催し自体ではなくて、そうした芸妓達の姿をいろんな雑誌などで紹介してもらいたいという事なのよ。新橋、烏森の文化を日本中、いえ世界中に知らせられたら、芸妓達もより一層稽古に身が入って、花街としての新橋はいつまでも栄えるんじゃないかしら。」
「いやあ、ほんと感心するなあ。僕なんかよりもずっと高いところから花街の事を見てらっしゃる。僕よりも余程広告屋に向いているや知れない。良いでしょう。わかりました。でも、僕の見立てではすぐに話題になって、すぐにどこかの劇場で公演をできるくらいになるんじゃないかな。まあ、そうすれば広告屋としてもさらに大きな商売になるので、嬉しい限りですがね。」
光山のお世辞はともかく、確かに広告屋としての力量は間違いのないものであり、今回の奠都の催しでも、かなりの谷町のような後援者を連れてきたし、とにかく顔が広いのだった。マサは光山のお調子者的なところを好いてはいなかったが、とにかく吾妻屋にとっては必要な人間なのだと理解していた。


宴の後
 翌年、明治三十二年(1899年)の二月、奠都三十年の催しの興奮はとっくに静まり、烏森はいつもの、昼の静けさと夜の華やかさを保っていた。
 マサはその日、烏森の芸妓達とお茶会を催していたのだ。芸妓達は夕方からは全く時間が取れないので、午前中に吾妻屋の空いている部屋に集合していたのだ。
「ねえ、お姐さんたち。あたしは改めて思ったんですの。この花街の文化を花街の中に閉じ込めておくのはもったいないって。着飾って、踊ることもできる、そんな多くの芸妓達がその芸を披露する場が酔客の前だけでは、みんな花のうちだけ、輝いて、やがて忘れられていくの。でも、あたしたちにはもっと力があるはず。花街の文化を日本の文化にまで高められるはず。」
「お吟おねえさん、それなら、音二郎さんが芸妓を引き連れてパリ―まで行ってらしたじゃない?そんなことをまたやるのかしら?」
「それも一つだわ。でも、あの時みたいに、臨時で芸妓をかき集めて、普段やっていないような舞台劇をやるんじゃなく、もっと恒例のものにして、お酒を飲まない客にもその唄や踊りを披露する、できれば劇場のようなものがあるといいわね。」
「それなら、お吟さんの旅館で催したらいいんじゃない?」
「それも考えたし、試してみる価値はあると思うんだけど、旅館の大広間だと酒出しも可能で、そうすると、結局三業の規制の話になっちゃうのよ。それにお酒を飲んでいない、素面の方たちの前でやる方が良くないかしら?」
「なんだか、芸や芸能じゃなくて、芸術みたいね。」芸妓の一人がそう言って笑った。「でも、そうね。西洋にはオペラとかいうのがあって、歌とお芝居が一緒になっているそうね。日本にもそういうのが有っても良いんじゃないかしらって思ってたところなのよ。歌舞伎はオペラみたいなものかも知れないけど、男の世界だしね。」
「京には、都をどりというのがあるって聞いたわ。唄と踊りの会で、年一度、お披露目会をしているのよ。それをこちらでもやるのはどうかしら。東京だから、東をどりね。」

 マサが気分よく、芸妓たちと交流していた同じ時に、晴雄は朝から気分が悪くなっていた。是清が横浜正金銀行での仕事が評価され、日本銀行の副総裁に就任した。副総裁への就任は一斉に各紙で報じられ、就任での会見の詳細も載っていた。それを読んで晴雄は、完全に自分が我を忘れて、怒りに任せて手に触れるもの、目に映るもの全てを破壊し尽くしてしまいたいという衝動に駆られた。是清は会見で過去の銀山事件の事を問われると、全ては田島晴雄という詐欺師の仕業であり、自分を含めて出資者が全て被害を被ったということが述べられていたのだ。
 晴雄は執務室の壁を蹴り上げたり、机の上の筆記用具だとかに当たり散らしてしまいたいという思いに駆られた。寸でのところで我に返ったのだが、興奮しているところを誰かに見られたような気がしたのだ。晴雄が部屋を見渡しても、そこにはマサはおらず、仲居が入って来た様子も無かった。
 気分転換に中庭の植木の手入れでもしようかと思っていた時、晴雄がそんな気分に陥っているのを見計らっていたかのように、光山が晴雄を訪ねて来た。以前からちょくちょく吾妻屋を訪れていた光山だったが、最近は杉村と何やら打ち合わせ話をしているだけで、特に晴雄に話しかけてくることは無かった。それなのに、その日は、晴雄に話があると仲居に告げて呼び出した。
 晴雄が顔を出すと、光山は妙に人懐っこい表情で晴雄に話しかけてきた。光山は、チャコール・グレイのスリー・ピースにハンチング帽をかぶり、ちょっとした紳士風の装いで、広間に近いところにある洋風の小間のソファに勝手に座った。タバコを取り出し火を付け、乍ら自分のアイデアを披露したくてうずうずしているような陽気な笑顔で晴雄が来るのを待っていた。晴雄が現れると挨拶もする前に、本題に入った。
「田島さん、是清さん日銀副総裁就任だそうですね。就任の会見記事読みましたか?酷いもんだねえ。よくあんなことが言えるよなあ、全く。」
 晴雄は、光山の言がどこか白々しく感じられたので身構えた。
「田島さん…田島さんってあの秘露の事件の当事者だったんですね。」秘露の事を急に持ち出されて晴雄は否が応でも顔がきつくなった。そもそもそんなことは知っていたはずだ。「いえ、嫌な事を思い出させてすみません。でもあんな事があっても、今はこうして立派に商売をされている。しかも烏森で一番、いや東京、それどころか日本でも一番と言っても良い旅館をですよ。どうです?ここで反撃に出ませんか?つまり、人間田島晴雄を売り出すんです。男として是清を見返すことを考えましょう。この旅館をもっと成功させ、ひいては旅館をいくつも開業させて、いっぱしの事業家になれば、是清なんか見返せますよ。政治への道だって開ける。その時には是清を跪かせましょうよ。」
 晴雄は、光山の法螺ほらのような大きな話に乗るつもりは無かったが、是清との話になればどうしても身を乗り出してしまいそうであることを認めざるを得なかった。
「それでね...」光山は既に持っているアイデアを進めたくてうずうずしているようだった。「新しい売り出し方法を考えてきたんだ。聞いてもらえますか?」
 晴雄は仕方なく光山の前に座った。仲居がお茶を持って来て二人の前に差し出した。
「例えばね、腕の良い絵描きにこの宿の全体がわかるような絵を書いてもらい、それを使った広告を文芸誌などに出すんです。どうです?格調高いでしょう?」光山はお茶に口をつけてすぐに続けた。「マサさんもね、前から吾妻屋を文化の砦にしたいと考えておられるようでね...」
 その話は晴雄も聞いている。だからこそ、あまり宣伝がましい真似をするよりも、文士達が口コミで宿の良さを広めてくれる方が良いのでは無いかと考えていた。
「いやだからね、そういう格調高い吾妻屋の絵を使った広告を文芸誌に打ったり、新聞の文芸欄とかね。」
 確かに、光山は広告屋としてやり手という評判の男ではあった。奠都の催しも光山の仕切りは欠かせなかっただろう。ただ話は突然だったし、晴雄は少し戸惑った。光山はいつも晴雄の痛いところを突いて来る。晴雄は自分の名誉を回復したいと思わなかった日は一日たりとも無かったのだ。
「今、文芸界はいろいろ動きがありましてね。ほら、三浦さんと同じころ朝鮮にいて、一緒に帰ってきた与謝野さんですが、今度、彼を連れてきますよ。文芸の会合をできる場所も探されているようですしね。」
 光山に押し切られそうな雰囲気の中、光山とは対照的に普段伸ばしてはいない無精ひげを伸ばし放題にして、見るからにだらしない恰好の杉村が廊下を通りかかった。光山が声を掛けると、杉村は光山に軽く会釈しただけだった。

 そして先日光山に請け負ってもらった通り、吾妻屋の和の佇まいを写真に撮って、外国人の目にも触れるような日本紹介の海外の雑誌に掲載してもらう事になった。吾妻屋の玄関先や中庭で主人である田島晴雄がそこに居て実際に宿を説明しているかのような写真を撮ってもらったが、晴雄は少しばかり照れ臭いのか、顔も強張っていたような気がした。
「旦那さん、少し顔が堅いかな。実際にお客さんに接しているように、優しい顔をして欲しいなあ。」
 写真屋にあれこれ指示を出していた光山が、晴雄にも指示した。そんな事を言われても、この時代の男というものは人前で歯を見せるなどというのは、無様な事なのだ。晴雄は客商売を始めてから鉱山の技師だった頃に比べて、自分でもだいぶ愛想は良くなっていた心算ではあったし、マサもそう思っていた。
「冷やかさないでよ」
 晴雄はマサにそう言ったが、マサは冷やかしてなどいなかった。それなのにマサは晴雄に弁明することなく、微笑み続けていた。マサは、そんな緊張をしている部分も含めて晴雄を誇らしいと思っていたのだ。
 こうしていくつか撮ってもらった写真を、旅行雑誌に吾妻屋の紹介広告とともに掲載してもらった。それらの記事で、主人として晴雄がコメントを載せてもらったり、海外向けでは英語の紹介記事とともに、主人としての田島晴雄の写真を載せてもらうなど、押しも押されぬ高級旅館の主人としての晴雄の姿をくっきりと印象付けることに成功していた。
 そして何より、引き伸ばしてもらった写真はマサにとっても大切なものとなり、吾妻屋の玄関に堂々と飾った。この事は最初、晴雄は嫌がった。
「いくら何でも、玄関に飾るのは...居間当たりに旅館のガイドと一緒に小さな写真を置いておくくらいで良いのではないかな。」
 晴雄は自分の写真を客の目に晒すことに抵抗感があった。この点は、人前で唄を歌い、踊りを踊って来たマサとの感覚が違うのかも知れないと晴雄が感じている横で、マサはそんな事はどこ吹く風で喜々として、写真の飾る角度や向きの微妙な調整で執心していた。
「これからはね、もっともっと吾妻屋の主人として前面に出ていただきたいのです。何と言っても吾妻屋は晴雄さんのものなのですから。」マサの言葉に晴雄は戸惑った。
「何を言ってるんだい?二人で力を合わせてやって来たじゃ無いか。それとも、僕の働きに実は不満があったのかい?そりゃあ君と違って僕は社交的では無いし...」晴雄が言いかけたところでマサは微笑みながら遮った。
「あたしが晴雄さんに不満があるわけないじゃ無いですか。ええ、この宿は二人でやってきて、お互い力を補ってきましたよね。でも、申し訳ないのですけど、これからはあまりに宿の事には関われないかも知れないのですよ...」
「ええ、どういう事?」晴雄の心配も最初から計算していたかのように、悪戯の笑みを浮かべたマサだったが、次の言葉はさすがにはにかみながら口にした。
「あの...実は...」唇を噛んでそれでも必死に晴雄の方に顔を向けようとした、そのいじらしいような仕草に、少し鈍いところのある晴雄もさすがに気付いた。
「本当か。いつなんだい?」
「来年の二月くらいかしら...」
「それで、男の子かい?それとも...」この時代にそんな事がわかる技術など無かったのだ。
「あら嫌ですわ。そんなことあたしに聞かれても…」
「そうか...そうだよね。」晴雄がそう言うと、自然と二人は手を握り合いながら、笑いあった。
(前編完)

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