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何も知らないを知る〜散歩の効用〜

散歩を始めて1年半ほど経つ。天気が良ければ、毎日7,000歩ほど歩く。目的地についても何をするでもなく、ただ海面を眺めたり、木を見上げたり、鳥の囀りを聴きながら季節を感じたりする。

散歩を始めた当初は、ダイエットが主な目的だったけれど、五感を刺激したいという気持ちも同時にあったので、歩いて行く先は自ずと海か山のどちらかになった。

桜の季節が終わってからは海ばかり行っていたけれど、先日ふと山に行きたくなって、近所の山に向かった。何か悩みがある時は海、考えが溢れ出て沸騰しそうな時は山、何となくそんな風に行き分けている。何も考えていない時も多々あるけれど。

この時期の新緑は本当に美しくて見惚れる。冬の間、葉っぱがなくて、木の種類が全然分からなかった落葉樹は青々と葉を茂らせている。そして葉っぱを見てもやっぱり種類はわからない。でも椿や小楢は木彫りしたことがあるから樹皮を見ればそれと分かる。線香花火のような白い花を咲かせる木の名前は何というのだろう。そんな事を考えたり観察していたりすると、溢れ出しそうだった思考はすっかりどこかに消えてしまった。

それにしても何度も足を運んでいる場所なのに、知らないことばかりだ。クサギ、と言う名札のついた木があったので、葉っぱをちぎって匂いを嗅いでみたら本当に臭かった。言語学者伊藤優馬(※)さんの著書、「ムラブリ 文字も暦も持たない狩猟採集民から言語学者が教わったこと」を読んでから、言葉の意味をふと考えてみる事が増えたのだけれど、この木の名前を何にするか昔の人が考えた時、きっと満場一致で「クサギ」になったんじゃないかと想像するぐらいの何とも言えない絶妙な臭さだ。とにかくクサギが臭いなんて事一つ経験すらせず、名前だけを知っていて知ったような気になっていた自分がはずかしい。

こんなことを言うのは烏滸がましいけれど、山に登ったり、哲学書を読んだり、旅に出たり、ものすごい人に出会ったり、アプローチやタイミングは人それぞれだけど、無限に広く深い世界に触れて自分の無力さや知らなさを深く感じ入る事、それと向き合う事は、生きる上で必要なプロセスなのではないかと、遅ればせながら思うようになった。そして私にとっては、そう感じる事のできる場所の一つが山なのだと思っている。散歩するようになって山に入り、色んなものを見て感じて、自分の知らなさ、ちっぽけさを知る。その感覚を持ち帰って木彫りに向かう、その繰り返し。元来ものぐさな私が木彫りを続けられているのも、散歩のおかげなのじゃないかと思ったりもする。そう思うと、散歩の効用というのは私にとっては計り知れないものがある。

(※)伊藤優馬さん
言語学者で、タイとラオスで話されているムラブリ語を主に研究されている方。
note URL:https://note.com/yuma__ito/

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