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手紙

時々、無性に手紙を書きたいなと思うことがある。だからといって、特に出す当てもなく、遠い外国に住む親友にあてて書こうかな、でも近況知らないしな、と思っているうちに、結局書かずに流れてしまう。そして文房具店や美術館でときめく便せんを見つけては、いつ出すともしれぬ便箋セットを購入して、そっと愛でたりしている。
手紙は、貰ったらとても嬉しいものだけれど、出された方はどう思うのだろう。SNSで知り合って、DMでのやり取りを通じて作品の交換などをした人に、感謝の気持ちを伝えるために出してみたいとも思うけれど、そもそもSNS上でのライトなお付き合いを重視されている方だったら、重く受け取られはしないだろうかとか、余計な心配をしているうちに、また書く機会を逃してしまう。友達との連絡はLINEのやり取りで済んでしまうし、手紙への想いは募る一方である。

便箋コレクションの1つ。

今日書店で、ふと暮らしの手帖の最新刊を手に取り眺めていると、普段読んでいる雑誌よりも読み物のページがとても多く、その内容がまるで手紙のようで、嬉しくなってつい購入した。持ち帰って読んでみると、やっぱり温かい手紙のようで、心を鷲掴みにされてしまった。

暮らしの手帖と手紙といえば、とても思い出深いエピソードがある。まだ長男が1歳ぐらいで、彼の偏食にほとほと困り果てていた頃。どうにか野菜を食べさせたかった私は、インターネットでレシピを検索したり、レシピ本を何冊か購入したりして、長男の偏食を直そうとやっきになっていた。その中の1冊に、暮らしの手帖別冊の「新・子どもに食べさせたいおやつ」という雑誌があった。甘いおやつだけじゃなく、おにぎりやもんじゃなど、気軽に作れて食べさせられるものや、本格的な(体に良さそうな)おやつのレシピもあって、どのおやつもおいしそうに見えるし、素敵な木の皿に乗っていたりして、母心がくすぐられた。手軽に作れるものも魅力だけれど、雑誌の後半部分に、ひと手間かける特別な日のおやつの数々が掲載されていて、初めての子育てで毎日へとへとで、特別なおやつを作る事など夢のまた夢と思っていた私にはとても眩しく見えて、こんなおやつが作れる母親になりたいな…と羨望のまなざしでページをめくった。その中で、あんこの作り方が掲載されているページに目がとまった。そういえば、あんこって作ったことないな、すごく時間と手間がかかりそうだけれど、作ってみたいなと、ふと思って、無謀にも、あんこ作りにチャレンジしたのだ。結果は惨敗で、あんこがうまく潰れず固いままで、とても食べられる代物ではなかった。でもなぜか、子育てで忙しいけれどあんこも手作りできる母親像に憧れでもしていたのか、レシピの工程のいくつかの疑問点を手紙にしたためて、暮らしの手帖社に送る事をしたのだった。しばらくして、返事の手紙が届いた。暮らしの手帖社の便箋に、万年筆で手書きのかわいらしい字で、5枚にわたって、疑問に対する回答がそれはそれは丁寧にしたためられていて、猛烈に感動したのを今でも鮮明に覚えているし、その便箋は今でも自分のレシピノートに宝物のように挟んである。

当時の嬉しかった気持ちといっしょに、ずっと大事にとってある。

その後、何度かあんこ作りにチャレンジするも、結局うまくいかず、結局諦めてしまったけれど、いただいた手紙を時々見直しては、あたたかい気持ちになる。それは、あんこを作れるようになる事よりも、もっと嬉しい何かをいただいたような、そんな気持ち。「一気に作らなくても大丈夫ですよ、分量・時間もアバウトで大丈夫です」という一言が、ちゃんと子育てしなきゃと、カチコチになっていた私の心を少し溶かしてくれた気がしたのだと思う。手紙にある何気ない一言に、時に心打たれたり、手書きの文字を見ただけで嬉しい気持ちになる、そんな力が、SNSにはあるだろうか。

SNSでの気軽な対人関係。重くなく、嫌になればブロックすればいいし、気が合う人とどんどん繋がって、無限に広がる世界。それはそれで素晴らしい事で、連絡を取り合うにはDMやLINEで事足りる。一方で、手紙を書くという事は、その人を想う事ができるすごく豊かな時間であることを忘れたくない。でも出す人を選ぶよなぁ(重く感じさせて迷惑をかけたくないし)、と振り出しに戻るのであるが、まずはやっぱり、きっと出しても嫌がられない親友に手紙を書こうと思う。元気にしてるかな。また会いたいな、と思いを馳せつつ。

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