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Organize my thoughts

私が野猿のような子どもだった頃、虫に触るのは全く平気だった。多くの子どもがそうだったと思う。そして田舎と虫は切っても切れない関係だ。

ある時、私は家に帰る途中で路上脇の段ボールからミャアミャア鳴く声が聞こえてくるのに気がついた。覗くと2匹の子猫がいた。捨てた人が罪悪感を感じてあげたのか、通りすがりの人が飼えないけれどせめてもの情けをかけてあげたのか、子猫達のそばには牛乳の入った容器が置いてあった。季節は、初夏。あっという間に牛乳は腐り、ミャアミャア鳴く子猫達は段ボールの中をウロウロしていたのか、その腐った牛乳を身体中に浴びていた。そこに蝿が集り、たまごを産み、子猫達は蝿のたまごと一部孵化したウジまみれだった。腐った牛乳の匂いと、鳴きながらウロウロする子猫達、その背中で蠢くウジ達、散らばった蝿のたまご、段ボールの中はカオス状態だった。

私は段ボールごと子猫達を家まで持って帰った。子猫達を助けよう!という高い志はなかったけれど、汚れているので、じゃあ洗ってあげようという単純な心持ちだったと思う。今だったら、蝿のたまごと蠢くウジを素手で取り払い、家の外の水道で子猫達の身体を洗ってやるという大技はできないと思う。きっと洗ってあげたとしても、ゴム手袋をはめて、泣き叫びながら洗うはずだ。

綺麗になった猫達は、我が家で飼われることになった。私はウジまみれになっていたことは親には言わなかった。たぶん隠そうという思考には到達しておらず、なんか虫がついてたから綺麗にしてあげたぐらいの感覚だったと思う。そのくらい虫に抵抗がなかった。

ある日、私はカタツムリを家の中で飼おうと思い立ち、家のブロック塀にくっついていた大きなカタツムリを数匹捕まえ、平べったくて大きなクッキー缶に入れ、餌となるきゅうりをおき、自分の部屋の学習机の上に置いておいた。寝る前に覗くと、カタツムリ達は缶の中できゅうりを喰み、ゆるゆるとうごめいていた。私はその姿に満足し、明日はニンジンでもやろうと思いながら眠りについた。

次の朝、起きてすぐ缶を覗くと、カタツムリは1匹もクッキー缶の中にいなかった。蓋も何もしなかったから、夜中のうちにカタツムリ達はゆっくりと逃げ出していたのだ。慌てて探すと、すぐにカタツムリ達は見つかり、親に見つかる前に外に戻してやった。

それからしばらくして、年末の大掃除をしようと、自分の学習机の下を覗き込んだ私は気がついた。

机の天板の裏にカタツムリの殻がくっついていたのだ。

そこで、私は思い出した。カタツムリを家の中に入れたのが半年以上まえだったことを。子どもながらに、カタツムリがミイラ化しているだろうと予測でき、怖くて殻を取り除くことができなかった。その後数年、カタツムリの殻は私の机の裏側にくっついたままになっており、私はカタツムリの殻に怯え続けた。

今思い起こすと全く関係ないが、マイマイカブリという虫がカタツムリを食べると知った私は、机の裏側にくっついているカタツムリもその虫にやられたのではないかという意味不明な妄想に取り憑かれ、しばらくマイマイカブリがカタツムリを食べる姿を想像しては、ゾッとしていた。

ようやく殻を取り除けたのは、中学生になった時だ。ヒーーっという声を出しながらどうにか殻を机の裏から外し、恐る恐る殻の中を覗いた。中身は空っぽだった。微妙な罪悪感と共に私は、殻をゴミ袋に捨てた。

こうしてじわじわと私は、虫が苦手になっていった。




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