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現代のクリスチャンは踏み絵を踏むか

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踏み絵
日本史の教科書等で目にしたアレである。
隠れキリシタンをあぶりだすべく、キリスト像を前に踏めば処刑、踏まざれば自由というものである。

上の画像もそうだが、踏まれ過ぎたあまり、写真の像も、奔流の中で角が取れた川石の如くツルツルになっている。
踏むだけでこんなになるかねと思うが、
それだけ多くの人がこの絵と向き合ったという事だろう。

さて先日、職場の同僚にこんな事を尋ねられる機会があった。
「君は今踏み絵があったら踏むの??」
というものである。
もちろん踏めば”死”という前提での二択である。

実際こんな風にも考えられるだろう。
別にクリスチャンだとしても、その場では踏んでその後も信仰を続ければいいじゃない、と。
それも一理ある。実際にそうしていた人も多数いたのではないだろうか。
しかしこの絵を踏むという事は信仰を捨てるという事に等しく私には感じられるのである。あるいは、信仰よりも大切な何かを守ったとも。

個人の行動は自由である。
別に戒めを破ろうが、クリスチャンだと名乗るのは自由である。
教会にだって毎週集えばよい。これは出来る。
私自身そういった時期もあった。
しかしその信仰は果たして生きたものなのだろうか。

信仰とは人生の中で最も優先すべき存在ではないか。
ある人にとって、お金を稼ぐ事が最も重要なものであれば
お金がその人の信仰である。
社会的地位が最も大切であれば、それが信仰である。

自分の人生の中で、今あるものを一つずつ捨てていくと仮定した場合
最後まで捨てられなかったモノこそ、その人にとっての信仰であると
私は思う。

さて、そう定義した場合
命とクリスチャンとしての信仰、どっちを優先すべきか。
「私は踏まない」
とそう答えるのに一瞬の躊躇いもなかった。
私がそう答え、死ぬ事で残された家族へ迷惑がかかるかもしれない。
それはわかる。
しかし人生の中で最も重要なものが信仰であるならば
それを失った上で命を得たとしても何の価値があるだろうか。

何故クリスチャンとしての生き方を人生の中で最も大事に思えるか。
それこそが私が見出した真理である。

クリスチャン家庭として生まれつつも私自身が歩んできた道は
幾分外れたものだった。
中学生からポルノに依存し、
ポルノに生活が殆ど支配されている状態だった。
そんな生活をしている為、神は当然私の事を愛しておられないという
感覚があった。それでも教会には友人もいたから行き続けていた。

ある日、この世界は私がいなくても変わらないという感覚に包まれた。
その時感じた深い孤独は私から幸福を遠ざけた。

教会の人は優しかったし、神様の教えは正しいと思っていたから
教会自体は好きだった。それだけに、ポルノに依存し神の戒めに背く自分
自身に常に葛藤を覚えていた。

ある日の事、このまま人生を、自らの思いに任せて生きるのか
クリスチャンとしての生活に立ち返るのか、そう決心した日があった。
教会ではよく、神様がいるかどうか祈ってみてください。
必ず答えが来ますからと教えられていた。
私はそれを実践したことが無かった。
神は私の事を愛しておられないと思っていたから、祈りに答えられる事はないと感じたからだ。
そして祈りの返事が返ってこなかったなら、私が今まで信じてきたものは
見てきたものは何だったのか、その人生の基盤が崩れ去ってしまう事が
恐ろしかった。だからそれをした方がいいと感じつつも、そこから目を背け続けていた。しかし自分自身の中の葛藤と向き合うのはもう限界だった。

ある日のこと、跪き心から真剣に祈り求めた事を覚えている。
「神様、あなたが本当にいるのなら返事を下さい」
数秒、数分、数十分、どれだけ待っても何も感じなかった。
天から光の柱が降りてくることも、目の前に天使が現れる事も天から声が
聞こえてくる事も何もなかった。

「なんだ、結局神なんていないんじゃないか」
そう感じ、心底胸が締め付けられる思いがした。
今まで通ってきた教会は、教会の教えは一体何だったんだ、
そう思った。愕然とし、ひどい空虚感を覚えた。
「もう信仰を持つのはやめよう」
そう決意した。

その後だった。信仰を捨てる前に、最後にもう一度だけ
聖典を完読するように強く感じたのだ。
明らかにまだ自分の中に未練があった。
本心では少しでも返事が返ってきてほしかった。それが全くなかったのだ。
それを断ち切る為には自分の人生の全てに関わってきたものに最後に目を通し、それで未練を断ち切ろうとそういう思いが強く働いた。

そうして読み始め、半ばぐらいまで読んでいたある時の事だった。
はっきりと自分の中に、確固とした思いで、これは神の言葉だ
という感情が沸き起こった。それはどれだけ否定しようとしても
否定する事の出来ない感情だった。自分の意思とは関わりのない力で
その思いは強く私の心を満たした。そしてその時はっきりと、これこそが
私の祈りの答えだという確信を得た。

神は確かに存在する。
その思いは私の中に今尚紛れもなく真実として輝いている。

そう信じるからこそ、やはり踏み絵は踏む気にはなれないのである。

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