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臓器摘出

午後の手術室は磨き抜かれたタイルが規則的に並び、無機質な機械音だけが鳴り響く。
 手術台に横たわる患者は五十歳の男性で、肝疾患による腹腔内出血を起こしていた。
 「すごい色の肝臓ですねえ、志賀先生」
 助手を務める佐野がため息まじりにつぶやく。
 「肝硬変っていうのは、こんなものさ」
 「再生は無理ですね」
 「移植しかないだろうね」
 患者は三年前から診ている三田という患者である。私の担当する消化器外科で入退院を繰り返していた。肝硬変の末期で、昨夜、直腸からの大出血を起こし運ばれてきたのだ。
 「とりあえず出血は止まったな」
 「でも、今度は危ないですね」
 私は佐野に頷き、看護師に術後の管理を頼んで手術室を出た。
 シャワーを浴びて医局に戻る。佐野がコーヒーを入れて持ってきた。
 「三田さん、今後は…?」
 「あれじゃ三か月かな。軽い黄疸もあるし」
 「移植と言っても提供者がなかなか…」
 「臓器提供の意思カードを患者が持っていても家族が嫌がるからね」
 「有意義なことだと思いますがねえ」
 「医者と一般人は違うよ」
 私は佐野の真剣な口調に失笑した。
 「解剖だって嫌がるのが親族だ。それが情というものだよ」
 「ええ、まあ…」
 「苦しんで死んだのに解剖でまだ痛い目に遭わせるのかとか。救急だってそうさ。意識確認に頬を叩けば『かわいそうだから叩かないでください』って言われるんだぞ」
 佐野が声をあげて笑った。
 「家族の情と診療の兼ね合いを保つのは難しいな」

 内線電話が鳴った。佐野が受話器を取る。
 「志賀先生、病棟主任です」
 受話器を受け取った。主任がハキハキと話し出す。三田の家族が会いたがっている、術後説明ではなく今後のことで聞きたいことがあるとのこと。私は面談室に家族を通しておくように言って電話を切った。
 面談室のソファに掛けた三田の妻は、私を見ると弾かれたように立ち上がった。つられて息子と娘がそれぞれに立つ。
 「ああ、お座りください」
 「手術、ありがとうございました」
 「いいえ、術後説明でも申し上げましたが止血しかできなくて…」
 「あの、主人はあと、どれくらい…?」
 「はい。うまくいけば半年は大丈夫かと思いますが、早くなる可能性もあります」
 娘が涙ぐんだ。
 「私どもも主人を見ておりますとわかります。あの、インターネットで調べましたら、今の主人には移植が有効なのではと…」
 「移植ですか」
 「脳死の方を待つのもなんですし、思い切って生体肝移植ででも…。確か十何年か前、赤ちゃんにお父さんの肝臓の一部を移植しましたよね?」
 「島根医科大ですね?でも無理でしょう」
 「無理?」
 「成人男性に移植するには大きさが足りないんです。奥さんのおっしゃる事例は小さい子供への移植でしたから、父親の肝臓の一部で間に合いましたが」
 「…そうですか。素人考えで失礼しました
 「いいえ、ご家族でしたら色々考えるのが普通です。脳死移植ですが、適応患者が出て諸手続きがすべてオーライなら移植を…?」
 「はい。実はこの子が…娘が秋に嫁ぐものですから」
 「そうでしたか。わかりました。一日でも長い延命という方針で治療しましょう」
 親子は深々と頭を下げ、部屋を出た。
 「見せてあげたいですね、晴れ姿」
 同席した主任が言う。
 「さすがに移植しか手立てがないとは言えなかったな」
 「仕方ないですよ。ところで先生。移植ということになったら手術は誰が?」
 「俺と佐野は海外で研修を受けてるし、医局長も留学先で勉強してるよ。それに大学からも応援が来るだろう」
 「そうですよね、海外では当たり前ですからねえ」
 西陽が照りつける廊下を抜け医局に戻る。
 「三田さん、どうかしたんですか?」
 「移植してでも…って話さ」
 「へえ、そこまで…」
 「娘さんが今秋お式を挙げるらしい」
 「それじゃ考えますね。医局長と理事長に話通しておかなきゃなりませんね」
 「そうだな…」
 佐野が医局を出て行くと部屋は私一人だった。今しがた面談室で会った三田の娘の顔を思い浮かべる。目鼻立ちが整っていて純白のドレスが映えるだろう。
 自分の娘はまだ小学生なのでイメージが重ならない。そんなことをぼんやり考えていると、私への外線電話が入った。
 「あ、あなた。お義母さんが事故で…」
 「なにっ!」
 「そちらの救急に運んでもらいます。今から私も向かいますから」
 「お袋の怪我は?」
 「はっきりしないんだけど、救急隊員の方は上半身を轢かれたって。自転車で転んだところに車が来たらしいの」
 「わかった。救急外来で待ってる」
 私は医局長に事情を話し、外来へ走った。

 救急外来の入り口に立つ。落ち着かなかった。煙草をくわえたが灰皿が見当たらず、一旦、煙草を箱に戻した。
 「これでよければ」
 佐野がコーヒーの空き缶を差し出す。二人で紫煙に包まれながら救急車を待った。煙草を二本立て続けに吸ったところでサイレンが微かに聞こえる。
 「あれですね」
 処置室に運ばれた母は顔面蒼白であった。私は骨折箇所と出血の有無を確認し、看護師に支持してCTスキャンを撮るよう命じた。

 「よくないね」
 理事長が気の毒そうに言う。
 「脳の大方がやられてますね」
 脳外科専攻の医局長が写真を掲げながら頷いた。
 「血圧が安定したら開頭して血の塊を摘出しよう。麻酔医は来たか」
 「ええ、準備中です」
 母の手術が始まった。上半身を車に轢かれたようだと妻は言ったが、その通りだろう。肋骨にヒビが入り、右腕とアゴの骨が折れている。だが、何よりも脳内の出血がひどい。消化器外科が専門の私は、助手をしながら何か言いたげな母の口元を見ていた。
 術後、母はICUに移された。付き添っている妻の傍らに立つ。
 「ねえ、意識は戻るの?」
 「俺は脳外科は門外漢だからな、手術も立ち会った程度だし。説明待ちかな」
 一時間後、脳外科医と医局長が来て手術説明を始めた。医局長がスケッチブックに青いサインペンで母の脳の損傷箇所と、摘出部位を器用に描く。その絵は酷であった。母の脳内で何が起こっているのか、今後どんな危険性があるのかが明確であった。人間の動作や意識をつかさどる中枢神経がやられてしまっている。恐らく、出血で脳内に溢れ出した血の塊を取るのが精一杯だったのだろう。
 「助かっても麻痺が残るんですね?」
 私が確認すると医局長は視線をそらした。
 「かまいません、言ってください」
 「レスピレーターを外すと死に至る状態だ
 「レスピレーターって何ですか?」
 妻が聞いた。
 「自発呼吸がないので気管切開して酸素を導入しています。その機械のことです」
 「じゃ骨折箇所の治療はまだですね?」
 「脳が先で…。ほかの検査も合わせて容態が落ち着いたらいずれという形だな。ただ、検査結果によっては、お母さんは…」
 「脳死ですね?」
 妻が顔色を変えた。医局長は、今度は視線をそらさず頷いた。

 三田の妻の顔が浮かぶ。母は臓器提供の意思カードを持ち歩いていた。今回の事故でその存在は明らかになっている。いずれ医局長か理事長に確認されるだろう。
 つい先日、佐野と話したばかりの「家族の同意」が自分に求められている。私には医師としての職務があり、移植を待つ患者がいる
 医局で頭を抱え、考え込む私に佐野が声をかけた。
 「志賀先生。三田さんのことですか?」
 「ああ」
 「僕は先生に従います。提供してもしなくても。どっちみち倫理委員会を通さなければならないんですし」
 「母じゃなければ臓器を取って母だから取らないというのは、片手落ちだろうな」
 「提供しなくても責められることはないんじゃないですか?お母様の回復を信じて踏み切らないという選択肢もあります」
 「ありがとう。だがな、母じゃなければ俺は今ごろ医局長達に働きかけてる。母だから躊躇うのはずるいんじゃないかな」
 そこまで言って私はICUに行き、意識のない母の横で妻と臓器提供のことを話した。妻の答えは明快であった。
 「お義母さんはあなたがよかれと思って取り出すなら、それをあなたなりに役立ててほしいと願うんじゃないかしら?だから意思カードを持ち歩いていたのよ。かわいがってきたあなたのために。回りの戯言なんて、どうでもいいのよ。あなたはあなたが有意義だと思うやり方を通してください」
 私はもう迷わないことにした。もう一度、温かい母に触れたら、医局長に言おう。
 私は母の額に触れ、体温を確かめるとICUを出た。局長室に向かう足は、けれど重かった。

局長室には理事長もおり、二人とも、まるで私を待っていたかのように快く迎え入れた。
 「お母さん、変わらないようだね」
 「ええ。そのことでご相談したくて参りました。母の脳死判定をお願いできますか?」
 「移植か」
 「はい」
 長い沈黙が続いた。やがて理事長が重い口を開いた。
 「まあねえ、院内は医者集団だ。移植の必要性は充分理解している。私が心配なのは一般人や君の親族の、君への中傷だ」
 「想像はつきます」
 「お母さんはドナーカードを持っているんだね?」
 「はい。移植が決定したら角膜でも腎臓でも提供するつもりです」
 「ここには眼科はないから、系列病院に問い合わせてみよう。ところでお父さんは亡くなられたんだったね」
 「ええ、一昨年に。兄弟もおりません」
 「君の奥さんは?」
 「同意しております」
 「…そうか、わかった。午後から会議を招集しよう。君も同席してくれたまえ」
 「ありがとうございます」
 院内会議と系列大学の倫理委員会を経て、母の臓器提供が決まった。医局内では私への同情は一切なく、むしろ医師としての毅然とした態度に感嘆する声が飛び交っていた。

 脳死判定を終え、人工呼吸器で息をしているだけの母が手術室に運ばれた。
 「では、ご家族の皆さん。お母様とはここでお別れです」
 執刀医が告げる。妻と娘が母の頬に触れ、なにか囁いている。やがて看護師が、全裸の母に白いシートを掛ける。久しぶりに見た母の裸体が白くまぶしかった。私は、まだ全ての臓器を体内に備えた母の顔を見ていた。遅れて入った手術室の看護師が私に小さな袋を手渡してくれた。
 「奥様が、先生にと…」
 それは母が大事にしていた口紅であった。
血の気を失った母の唇に、薬指で紅をさす。この口紅は、妻との新婚旅行で母へのお土産に買ったものだった。
 顔色とは裏腹に、急に息づいた母の口元が優しくて、両手で顔に触れた。まだ温かい。このぬくもりは私が幼い頃から大好きだった母の体温であった。
 「さよなら、母さん」
 私は人目もはばからず泣いた。手術室の外でそれを見ている妻と看護師も、目頭を押さえた。
 二時間後、医局長が手術室から出てきた。
 「綺麗な肝臓でした。これで一人の患者が救われます。尊いご決断に感謝いたします」
 そう言うと、深々と私たちに頭を下げた。
 私はあとを妻に任せ、三田に母の肝臓を移植するため手術室に入った。

 移植手術はスムーズであった。海外研修の時と同じようにはいかないが、理事長のリードが巧みで思ったよりも短時間で終わりそうであった。
 「さあ、肝動脈をつなぐぞ。もう一息だ」
 理事長が声をかけた。時計を見る。手術開始から七時間が経っていた。肝動脈から胆汁が排出されれば手術は成功である。今、手術はその正念場にきている。
 「おおっ、出ましたね」
 鮮やかな胆汁が目の前で排出された。
 「さて、仕上げといくか。あ、志賀君」
 「はい?」
 「ここまで来たら手術は九分九厘成功だ。お母さんのところに行ってあげなさい」
 手術スタッフが皆、微笑んだ。看護師と佐野は涙ぐんでいる。
 「はい。ではお言葉に甘えて」
 私は手袋を脱ぎ手を洗った。術衣を脱ぎ捨てると一階の霊安室へ走る。やがて外来の終わった暗い通路に霊安室の表示が浮かんで見えた。手前の待合室のドアが開け放してありそこから淡い明かりが漏れていた。母の親族かと入ろうとすると、先に話し声が聞こえた
 「自分の子供を外科医なんかにするもんじゃないわ、親から肝臓取って自分の患者を助けるなんて」
 「ホント、まだ叔母さん、生きてるのにね」
 「薄情なのか非情なのか。いくら臓器提供の意思カード持ってるからって、自分の親の臓器を取り出すなんてなあ」
 「あの子が医大にストレートで入った時も姉さん、喜んでな。その息子に臓器摘出されるなんて、思ってもみなかっただろうね」
  「これじゃ姉さん、浮かばれないぞ」
 これが、理事長の言っていた親族の中傷なのか。針のように言葉が鋭く刺さる。
 私に聞こえるように言っているのか。
 私を意識せずに言っているのか…。
 できれば前者であって欲しいと思った。もし後者なら無意識な分だけ私の悲しみや苦悩が深くなるような気がした。
 無理解という壁が立ちはだかる霊安室の前で、私は一歩も動けないまま「無意識」に合掌し、涙を流していた。  


※20年くらい前に地元新聞社の公募に出し入選した短編です。現代とは医療技術も違っているので医療従事者がお読みになると「え?こんなこと今はしないよ」みたいな記述もあるかもしれませんが悪しからず。

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