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僕がピアノを弾く理由

 スポットライトが譜面台に反射して、少しまぶしい。が、耐えられないほどではなかった。そもそも楽譜を見る必要はない。「全国高校生ピアノコンクール」は暗譜が原則だ。
 ここから客席は見えない。両親と妹、ピアノの先生、そして同級生の旬吾と雅人が来ているはずだが、ステージ上から視線を移したその先は、真夜中の海のように真っ暗だ。
 椅子に座り、大きく一度だけ深呼吸をしてみた。緊張はなかった。今日は祖父のためだけにピアノを弾く、そう決めていた。
 演奏者紹介のアナウンスが聞こえた。
「三十七番 麻生優輔君 О工業高校三年 自由曲 ベートーヴェン ピアノソナタ 第二十三番 熱情」
 ハンカチで手を拭いた。第一楽章はユニゾン、C音からだ。
「じいちゃん、この曲好きだったよね。俺、一生懸命弾くからね。聴いててね」
 
「お前は耳がいい」
「お前には絶対音感がある」
 幼い僕を膝に乗せて、祖父はよくそう言っていたという。
 きっかけは父の同僚が僕の四歳の誕生日祝いに買ってきてくれたおもちゃのピアノだった。小さな鍵盤が三十個ほどのものである。触れると音が出る、それを面白がり、その日は遅くまで鍵盤を叩いて遊んでいたらしい。
 そう、この頃はまだ鍵盤を「叩いて」いた。やがて僕は、下から上にいくにつれて音が高くなることに気がついた。そのうち幼児番組で歌われている曲やアニメの主題歌など、知っている曲を弾くようになった。そんな僕を見て祖父が言ったのだ。
「やはり優輔は耳がいい」
 
 高知県で生まれた祖父は、幼少時に罹患した麻疹が原因で全盲となった。祖父の両親は目が見えないわが子に「手に職をつけさせなければ」と、当時近所にあった琴の教室に五歳になったばかりの祖父を通わせた。
 元々音感がよかったのと、目が見えないからか聴覚が優れていた祖父はめきめきと上達し、琴の師匠から「養子にいただきたい、私の教室を継がせたい」と申し出があったという。しかし祖父の両親は、そのころ親族の会社を手伝う約束で北海道に移ることになっていた。幼く目が不自由な息子を置いて、遠い北国に移住するのが不憫だからと、その申し出を断ったのだ。
 成人した祖父は琴を続けながら鍼灸師と指圧師の免許を取得し、帯広で治療院を開院した。僕の母は祖父の娘で、父の会社が祖父の家のそばだったことから結婚と同時に一緒に住んでいた。
 五歳の春、僕は近所の幼稚園に通い始めるのと同時に照井ピアノ教室に入った。照井先生は祖父の患者で、東京の音楽大学を卒業した後中学校の音楽教師となり、その後自宅でピアノ教室を開いていた。
 照井先生が祖父の施術を受けに来ると、いつも治療室で僕の話をしていた。寝台でうつ伏せになった先生の背中や肩に、祖父が針を打つ。消毒用のアルコールの匂い、銀色に光る細い針と筒が僕の記憶だ。
 筒から少しだけ針の頭が出ている。その先端を人差し指でトントンと軽く祖父が叩くと、針は静かに深く刺さっていく。その指先はいつも軽やかで、かつ神秘的であった。
 寝台の前には焦げ茶色の大きなステレオがあった。
「優輔、これはな、おじいちゃんの好きなベートーヴェンだ」
 レコードをかける時、祖父は必ずこれから聴く曲を僕に説明した。
「ベートーヴェン?」
「お前にはショパンやリストより、ベートーヴェンが合ってるかもしれないな。有名なピアノソナタを何曲も作っている。おじいちゃんはなあ、二十三番が大好きなんだよ」
 ツェルニーやハノンなどの教則本と、進行に合わせた曲集を与えられて弾いていた当時の僕には、祖父の話す内容がよくわからなかった。ソナタというのがどういう形式なのか、ショパンとは誰なのか。リストとベートーヴェンはどう違うのか。けれど祖父は照井先生にも同じことを言っていたようで、レッスンは自然にベートーベヴェン専攻になっていった。
 そして祖父のレコードラックの上にはいつも「ベートーヴェン ピアノソナタ 第二十三番 熱情」があった。なぜかその曲のレコードは棚の上に必ず三枚並んでいた。

 やがて小学校の中学年になり、照井先生の指導の元で小学生中心のピアノコンクールに出るようになった。自宅での練習時間やレッスンに通う回数が増えたが、それが苦痛だった記憶はない。
 ある日、放課後クラスメートとドッジボールをして遊んでいた僕に、担任教師が言った。
「ドッジボールなんかやって、大丈夫?」
「えっ? どうして?」
「だって、ピアノ弾くんでしょう? コンクールに出るのに、つき指なんかしたら大変じゃないの? お家の人やピアノの先生から駄目って言われてないの?」
 よく考えたら確かにその通りだった。コンクール出場曲も仕上げに入り、あとは暗譜を完璧にしておく、そんな時期に手や指を怪我しては元も子もない。
 僕はその日、途中でドッジボールをやめ、走って家に帰った。玄関の扉を開けるとガラス越しに治療室が見える。祖父は相変わらずステレオに背を向けて患者に針を打っていた。
「優輔、お帰り。お友達と遊んでいたんじゃなかったのかい?」
 台所にいた祖母が濡れた手をエプロンで拭きながら居間に来た。
「うん、あのね…先生がドッジボールしても大丈夫なのかって聞くから…」
「なにが?」
「コンクール前に指や手を怪我したら大変じゃないかって」
 話が聞こえたのか、祖父が治療室から出てきた。
「そういうことは気にしなくていいんだよ」
「でも、おじいちゃん。今指を怪我したら来週のコンクールは…」
「そう思うなら気をつければいい。それだけの話だ。おじいちゃんはな、お前にピアノしか能がない人間にはなって欲しくないんだ」
 僕にはいまひとつ理解ができなかったが、照井先生もコンクールや発表会の前に友達とボールで遊ぶなとか、体育を休めとは言わなかった。そして何度かコンクールで顔を合わせたことのある女の子が「家庭科の授業でも家でも、包丁を持ったことがない」と言っていたのを思い出した。
 しかしそれは、その子だけの意志ではないだろう。きっとピアノの指導者や親も同じ考えなのだ。
「友達と同じ生活をしなさい。そうでなければお前のピアノを聴く人が、どんなことに感動するのか、何に哀しい思いをするのか、どういうことが嬉しいのか、わからなくなる」
 祖父はそう言って治療室に戻り、例の三枚の「熱情」から二枚目を取りだすと、ステレオのターンテーブルに乗せた。

 中学三年の一月、祖父が急に体調を崩し、市内の総合病院に入院した。その少し前に学生ピアノコンクール北海道予選を一位通過した僕は、レッスンの帰りに祖父を見舞った。
「おう、優輔。ピアノに行ってきたのか」
「うん。全国予選まであと二週間しかないしね。週に三回行ってるんだ」
「そうか。おじいちゃんは見に行けないから録音してきて聴かせてくれよな」
「じいちゃん、俺ね、このコンクールで絶対優勝したいんだ。勝ちたい人がいるんだ」
「誰に?」
「いつも全国上位に入る神奈川の女の子」
「ふうん…上手な子なのか?」
「ああ、俺、東京の音大付属高校に推薦入学するけど、多分その子も同じ学校になると思うんだ。その前に勝っておきたいんだ」
「じゃ、優勝してはいけないな」
 頑張れよと言ってくれるものと思っていた僕は耳を疑った。
「何故? どうして? 本選は、じいちゃんが大好きな『熱情』弾くんだよ、俺」
「だったら尚更だ。その子に勝つための『熱情』なら弾かなくていい」
「…じいちゃん」
「お前には『誰かと争うため』のピアノなんて弾けないよ」
 優勝すれば、一番になれば、そしてそれを「熱情」で果たせたら、祖父は誰よりも喜んでくれると思っていたのに、やめろと言われて僕は混乱した。
 点滴の管が刺さり、少し細くなった祖父の腕を見ながら、僕は何も言わなかった。
 唐突にドアが開いた。看護師だった。
「あら、影山さん。お孫さんがきてたの?」
「じゃ、じいちゃん。俺、帰るわ」
 祖父は「ん」と言った。それが僕と祖父との最後の会話になった。
 その日の真夜中、病院から祖父の容体急変を知らせる電話が来て、家族は病院に向かった。まさかと思った。祖父が死ぬわけはないと信じていた。
 けれど病室には物々しい医療器具が置かれ、心電図の機械の前に医師がいた。夕方、祖父を見舞った時には何もなかったのに。
「父さん!」
 祖母や両親が祖父に声をかける。八歳下の妹は、何が起きているのかわからず、黙って父に抱かれていた。
 やがて心電図の機械から発する電子音が、素人でもわかるくらいに変化した。一定のリズムを刻んでいたはずなのに、間隔が崩れ、単音が減る。
「ピー」と無機質な音が響き、画面から細い線が消えた。六十七歳になったばかりの、祖父の死の瞬間だった。

 僕は祖父の死の二週間後に開催されたピアノコンクール本選を棄権した。照井先生も家族も、棄権については何も言わなかった。
 そして推薦入学が決まっていた東京の音大付属高校は入学を辞退し、地元の工業高校建築科を受験することにした。やはり誰も何も言わなかった。
 唯一、担任教師だけが「何故?」と聞いた。
「視覚障害を持つ方々が住みやすい、バリアフリー住宅の勉強をしたい」
 そう答えた。
 入試を終え、工業高校に合格すると僕はピアノをやめた。その時、母から祖父の命を奪った病は「劇症肝炎」だと聞かされた。
 時々妹に「お兄ちゃん、チューリップの歌弾いて」などとせがまれて、ピアノに向かった。簡単に右手だけで主旋律だけ弾けば妹は満足した。そのうち両親もあきらめたのか、定期的に頼んでいた調律も依頼しなくなった。
 
 高校二年の夏休みだった。同級生の旬吾と雅人が僕の家に泊まりに来た。名目は「製図の宿題を片付ける」だったが、実際は夜ふかしをし、教師の悪口や近郊の女子高生の噂話をしながら、時々図面を描く、といった感じだった。コーラを飲みながら旬吾が言った。
「なあ、優輔。隣りの部屋、誰の部屋?」
「誰の部屋でもないよ、物置みたいな部屋」
「入ってみたいな、叱られるかな」
 好奇心旺盛な雅人が笑う。
「怒られはしないだろ、みんな寝てるし」
 僕が先頭になり、隣りの部屋のドアを開けた。微かに消毒用アルコールの匂いがする。ここには祖父の遺品も置いてあった。
「綺麗にしてあるんだな」
 ふと壁際のレコードラックを見ると「熱情」があった。祖父のレコードは大量で数百枚あったが、その大半は形見分けで祖父の友人に譲ったのに「熱情」だけは三枚揃っていた。
「なに、これ。同じ曲が三つもある」
 雅人が手に取った。
「そういえば、お前ピアノやめたの?」
「何故?」
「コンクールとかに出てたんだろう? 俺、中学は違うけど噂は聞いてたぞ」
「俺も。俺も、聞いた。今弾いていないの?」
 旬吾も雅人の話に乗った。
「うん、もう弾かない」
「ええー? なんか、もったいないな」
「ね、ね。それ、聴いてみたいな」
 旬吾が「熱情」のレコードを指さした。
「俺も。CDじゃなく、レコードを聴くって、経験ないんだ。お前の部屋にレコードを聴けるステレオあるじゃん」
 僕たちは三枚のレコードを持って部屋に戻った。この部屋にあるステレオは祖父の形見だ。祖父と同じ要領で、レコードをターンテーブルに乗せた。針を落とす。曲が静かに始まる。旬吾も雅人も、今まで見たこともない神妙な顔つきでスピーカーに耳を傾けている。
 第一楽章が終わると、雅人が口を開いた。
「すげぇ。これ。寒気する。すごすぎて。お前、これ弾けるの?」
「ピアノやめる直前まで弾いてたなあ。でも今はどうかな、弾けるかな」
「もったいないな、俺、優輔のピアノで聴きたいな」
 第二楽章が始まった。二人はまた静かに聴きいっている。僕は残りの二枚のレコードを手に取って、解説を読んだ。
「あっ…」
 祖父がいつも聴いていた三枚の「熱情」は、それぞれ演奏しているピアニストが違っていた。
 その夜、旬吾と雅人が眠ってから、ヘッドフォンで三枚のレコードを聴き比べた。何度も何度も聴くうちに違いがわかってきた。男性ピアニスト三人。それぞれに弾き方が違う。
 序盤を柔らかく弾く人、テーマでテンポを早める人、スケールを重く弾く人と軽く弾く人、スタッカートにペダルを使う人と使わない人、 重々しく時間をかけて弾く人と軽やかに速く弾く人…。
 そして旬吾と雅人のかしこまった顔、童謡を弾くと喜ぶ妹の顔、練習する僕のピアノを黙って聴いていた祖父の顔が、走馬灯のように頭をよぎった。
「聴く人と、弾く人の感情か…」
 祖父の「ん」が耳の奥に響いた。

 夏休み明け、僕はピアノを再開した。照井先生は何も言わず笑って僕を迎えてくれた。
 長いブランクで思うように指が動かなかったが、半月もするとなんとか勘が戻って来た。
 秋、コンクールの北海道予選が始まった。
「優輔くん、コンクール、どうする?もう一年お休みする?」
「いや、出る。出ます、俺。先生、今年のコンクール、ベートーヴェンの『熱情』で出ます」
 僕はその年、北海道予選を一位で通過し、年明けに東京で行われる全国高校生ピアノコンクール本選出場を決めた。

 本選会場のステージで考える。
 誰のために弾くのか。何故弾くのか。
 誰のためでもない。何のためでもない。
 僕は、僕が「美しい」と思う旋律を、「哀しい」と涙した旋律を、「神々しい」と圧倒された旋律を、そのまま音にして弾けばいいんだ。
 誰かが共感してくれたら、それでいいんだ。
「ねえ、じいちゃん。そうだよね」
 僕は両手を鍵盤に乗せた。


※主人公の男の子がピアノと出会う場面やピアノを習うことを勧めた祖父などはほぼ実話で私のことです。祖父の死後工業高校へ進学し建築を学んだのも…ピアノをやめたのも…。
コンクールに出るほどの腕前ではありませんでした(爆)
数年前に地元新聞社の公募で入選した短編小説です。
 


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