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 西陽を背に受けて日中の気温を思い出した。
「暑かったなあ、今日も」
 そして後ろを振り返り、五階の窓から手を振る母を見上げる。 
 振り返るのは三回と決めている。そうしないと私がその場を離れられないからだ。
 深々と頭を下げる母を何度も見なければならないからだ。
 立ち去ることに後ろめたさを感じるからだ。
 
 一昨年の夏、病で妻を亡くした。その年に定年退職を迎えたが、勤務先の大学の学長から慰留された。
「匂坂先生の講義は楽しいと学生からの評判がいいんだよ。委託講師としてもう少し大学に残ってくれないか?」
 古典文学を専門に、作者の人となりを逸話も交えて講義に取り入れてから、ゼミ希望者は確かに多い。自身もまだ若者を相手に繰り広げる講義に魅力を感じている。
 大学での勤務を続けると決めた私は、妻の三回忌を終えたのを機に実家に戻った。父は二十年前に他界し、八十六歳の母が一人で暮らしている。独り身の淋しさと慣れない家事に辟易していたこと、仕事を続けるならその方がいいだろうと判断した。
 二人いる娘のうち長女は札幌に嫁いだ。次女は芽室で家庭を持っている。
 母と私の二人暮らしが始まった頃、母は長年淡々と過ごしてきた日々に刺激が少し加わり、楽しそうに食事の支度をしたり私の部屋を整えたりし、表情も明るくなった。
 しかし少しずつ妙な行動が増えてきた。
「あれ? 今日も煮魚?」
「嫌いだった?」
「いや、昨日も同じだったからさ」
「昨日は食べてないよ」
 そんなことはないと言おうと思ったが母の作る煮魚は連日食べても美味しいし、勘違いでもしたのだろうとそのまま流した。
 しかし同じ献立が続く日が増え、母は相変わらず「昨日は作っていない」と言う。忘れっぽくなっているだけと深く考えなかったが、その半月後にまた母の行動で驚かされた。
 講義を終え、研究室に戻ると助手が「あ、先生!」と叫んだ。
「どうしたんだ、慌てて」
「スマホが…鳴りっぱなしなんです」
「マナーモードになってなかったか?」
「いえ、マナーモードなので振動音が…。緊急事態なら、携帯電話で出なければ大学に電話がくると思うのですが」
 着信履歴を見た。発信先はすべて「自宅」である。回数が四十七回と表記されていた。これでは助手が振動音だけで異変に気付くのも当然だ。
「留守電にはしていないんですか?」
「設定してある。一件入っているな」
 しかし、たった一件の留守番電話は母ではなく銀行であった。
「帯広銀行本店の坂田です。引き落とし口座の件でご連絡があります」
 もしや銀行で母が何か? と思い、折り返し電話をかけると担当の坂田課長が出た。
「実はお母さまの口座から保険料の引き落としができずにいまして…」
「えっ? 残高がないということですか?」
「ええ、今まで一度もご失念されたことがなかったものですから…」
 私は仕事の帰りに銀行へ寄った。坂田がすぐに出てきて応接室へ案内する。
「実は半年ほど前にお母さまが大金を引き出されていまして。当銀行の別の支店にご預金を移されました。最近は金融機関を利用させる詐欺も多いですし確認いたしましたがそういう感じでもなくて。年金は今まで通り同じ口座に入金されていたのですが、どうもそれも別の支店に変えたようで。それで引き落とし分が口座に残っていなかったのです」
「なるほど、それでどこの支店に? 私は母の財産関係は父が他界した時に弁護士と確認しただけなので詳細がわからないのですが」
「まずお父様が亡くなられた時の保険金や年金など、入金関係はすべてこの口座でした。目立つ金銭の動かし方をする方ではなかったものですから大金を移された際に少し変だとは思ったのですが…その時点で息子さんに確認をするのもどうかと…」
「いや、お手数をおかけしました。母に聞いてみます」
 しかし母は、そんなことはしていないと言い張った。私への電話もしていないと言う。
「でもさ、銀行から電話が来たんだ。元に戻してくるから通帳と印鑑を預かっていいか?」
 母は解せない顔をしたが、それでも通帳類をすぐに支度した。
 その数日後の真夜中、私は母に起こされた。
「どうした?」
「トイレの水が溢れるの」
 私は急いでトイレへ行った。詰まっているようなのでゴム手袋をはき手を突っ込む。引っ掛かった塊を取り除くと、水がゴボゴボと音を立てて流れた。
「紙の塊じゃないか」
「トイレットペーパーかしら?」
「いや、厚手の紙だ」
 ふと掃除用具が並んでいるトイレの窓際を見ると、そこに「掃除用ウェットティシュ」というものがあった。中身を出すと今私が取り除いたものによく似ていた。
「母さん、これ使った?」
「ちょっと汚しちゃったから拭いたの」
 説明書には汚れを拭き取ったあとそのままトイレに流せる、とある。しかしその横に赤い文字で一度に大量に流すとトイレが詰まる恐れがありますと書いてあった。
「これか…」
 母の過失を責めても仕方がない。私は雑巾とバケツを出し、水浸しになった床を吹いた。
「母さん、少しずつ流さないと詰まるんだ。一度に何枚か流したんじゃないのか?」
そう言うと母は否定した。
「私、そんなことしてないわよ」
 
 少しずつ母が壊れ始めた。
 今日も母は、昨日話した定期検診を忘れている。私はカレンダーを見るよう言った。
「本当、今日は血圧の薬をもらわなきゃ」
 そして保険証や診察券を探し始める。
「母さん、ほら。これ。保険証と診察券。昨夜俺が預かっただろ。もう少ししたら出よう」
「どうして?」
「俺が一緒に行くから」
「どこへ?」
「だから…」
 苛立つと口調が強くなる。しかし厳しく言っても優しく言っても母は忘れるのだ。深く息を吸い、吐く。本で読んだ「怒りを鎮める方法」だ。それを五回ほど繰り返すと、一旦頭に上った血が下がる。
「行くよ、支度しよう」
 私は母を促し車で病院へ向かった。担当医の話も理解できないので一緒に診察室に入る。
「さて、脳波検査の結果ですが」
 長年世話になっている医師だが、言いにくいことを話さなきゃならない時、鼻の頭を掻く癖がある。父の病を告げた時もそうだった。今も人差し指を一本立て、小刻みに小鼻をカリカリ掻いている。
「認知症がかなり進んでいるようです。同居されているのはあなただけですか?」
「ええ」
「いかがでしょう、大変ではないですか?」
「…ええ、まあ…」
「介護支援施設から定期的に来る職員にご相談されてはいかがですか?」
 正直なところ助けが欲しい。けれど心のどこかで母を他人に任せることに抵抗があった。今のところ生命の危機に直結するような事故はないし、多少のことであれば自分で何とか始末できる、と私は医師に言った。
 
 帰宅すると様々な光景が広がっている。昨日は廊下が空き缶だらけだった。母が並べたり転がしたりして遊んでいた。
 一昨日は大鍋で湯を沸かし、沸騰しているさまをじっと見つめていた。その前日は何をしただろう。忘れてしまうほど母は毎日不思議なことをしながら私の帰りを待っている。
「今日は何をしているのかな」
 軽く溜息をつき、鍵を開けて家に入ると母は居間にいない。
「母さん?」
 呼ぶと台所の方から「はあーい」と返事があった。蛇口から水が出ている。そこにビニール袋を開ける音や、冷蔵庫を開け閉めする音が重なる。
 私に背を向けたまま、母は冷蔵庫や戸棚に保管してあった食品を片っ端から開け、流し台や床、食卓テーブルに撒き散らしていた。
「何やってるんだ!」
 母に駆け寄ろうとしたら滑って転んだ。床に放り出された豆腐を踏んだのだ。水分が服に染みてきた。私はその気持ち悪さと、たった今見た異様な光景を自分で処理できず、思わず手を上げた。
 母の頬を打った息子と、息子に頬を打たれた母が向かい合っている。私たちはその姿勢のまま呆然としていた。
 どのくらいの時間が経ったのだろうか。不意に玄関のドアが開く音がして我に返った。
「パパ? おばあちゃんも。何してるの?」
 芽室に住む次女の悠香が、通勤用のショルダーバッグを肩にかけたまま、きょとんとした顔で台所の入り口にいる。
「あーあ、なにこれ。おばあちゃんが?」
「あ、いや…」
「おばあちゃん、なんでしょう?」
 悠香は手早く床を雑巾で拭い、生ごみをビニール袋にまとめるとポリバケツに入れた。
「おばあちゃん、風邪ひくわね。お風呂行って体洗おうか。パパも着替えてきたら?」
 浴室から母と悠香の声が聞こえる。複雑気分で私は濡れた下着を替え、顔を洗った。
「さて、パパ。とりあえずゴハン食べよう。店屋物でも取る?」
 孫と夕食を共にし、母の顔は心なしか柔らかかった。悠香は母に早めに寝るよう促し、着替えを手伝って寝室に連れて行った。
「今日私が来たのはね。実はお姉ちゃんから連絡があって」
「明日香から?」
「うん。おばあちゃんが毎週おかしなものを送って来るって」
「おかしなもの?」
「うん。ヘルパーさんが来る日を書いたメモとか近所のスーパーの広告とか」
 私は絶句した。いつの間にそんなことをしていたのか。
「だからね、年齢も年齢だし一人暮らしも長かったし、今はパパがいるけど日中は一人だし、もしかして認知症とかアルツハイマーとかじゃないかって」
 私はこの前の病院での検査結果をかいつまんで話した。
 更にここ数か月の間に母がしてきたことをすべて報告した。
「そう、そこまで…パパも大変だったわね。ごめんね、もう少し私も来てあげていたらよかったんだけど」
「お前だって家庭や仕事があるんだし、それはいいんだよ。パパがおばあちゃんと暮らすって決めたんだし」
「抵抗があるっていう気持ちはわかる。でも限界じゃないのかな。施設を探さない?」
「施設か…」
「このままじゃ共倒れよ、パパも倒れちゃうわよ。そうなったら一番悲しむのはおばあちゃんじゃない? 自分のせいで、なんてことがわかったら」
 
 娘に背中を押された形ではあったが、私は医師や介護職員と相談し、自宅からそう遠くはない高齢者施設に母を入所させた。母の部屋は日当たりがいい。荷物を片付けていると施設長が来た。
「片付きました? お母さまは落ち着きましたか?」
「ええ、おかげさまで」
「いかがですか? ここの雰囲気や様子は」
「ええ、申し分ないです。綺麗な部屋ですし母も表情が変わりましたし。ただ、なんだかねえ、親を捨てるようで」
 施設長は笑った。
「棄老伝説ですか?」
「キロウ?」
「姥捨て山のことです。童話とかで昔読んだことはありませんか?」
「あ、ああ。あります。意地悪な殿様とか魔物が村人に命じて親を捨てさせる話でした」
「出どころは長野らしいですね。お年寄りの知恵に舌を巻いた殿様が反省して命令を却下しますが。でも本当はもっと怖いお話なんですよ」
「そうなんですか?」
「貧乏な農家の息子が年老いて働けなくなった母を籠に乗せて山奥に捨てに行くんですが、息子が帰る時に老婆が籠を持って帰れと言うのです。『また使うのだから』って」
「また…」
「息子は、いずれ自分もこうなることを悟り、母を家に連れて戻るのです」
 私は長いこと「姥捨て山」は両親や祖父母を大事にしましょう、という訓話的な物語だと思っていたので、施設長の話に驚いた。
「匂坂さん、私たちは介護のプロなのです」
「はあ」
「みんなが通る道ですよ。むしろ放置し続け見ないふりをしたり、病院に入れてそのままにし、見舞いもろくに行かない方が…」
 一瞬、施設長の表情が曇った。
「情愛だけでは無理なこともあるのです」
 私は母を大事にしたいと思っている。母が私を愛情たっぷりに育ててくれたのだから、私もそうしたいと。だが母の老いとしっかり向き合えなかった。だからあの日、私は母に手を上げてしまったのだ。
 私は施設長の言葉に頷き、覚悟を決めた。
 
 それから私は、毎週日曜日に車を走らせ、郊外にある高齢者施設「響(ひびき)」に行く。母は家にいた時よりも穏やかな顔になった。
「匂坂さん、息子さんよ」
 職員の言葉に母が振り向き笑っている。
「お元気でしたか?」
「元気だよ。母さんは元気だった?」
「はい、おかげさまで」
 朝の運動やお茶の時間を共にし、夕方まで母と過ごす。献立が気になる母は「今日のお昼は何かしら?」と聞く。廊下に貼ってある一週間分の献立表を見ながら母に言う。
「今日は母さんの好きな鯖の味噌煮だよ。楽しみだね」
「ああ、鯖…大輔もね、あ、いえ息子が鯖の味噌煮、好きで。優しい子なんですよ。お嫁さんもいい子だったのに早くに亡くして、でも元気に仕事しているの」
 大輔は俺だよ、と言いたくなる気持ちを抑え、私は頷いた。
 母は息子の自慢話を続ける。
「子供の頃から優しくて勉強もできて…娘が二人いて私には孫なんだけれど。お嫁さんに似て器量がよくてねえ」
 時計が午後四時を示す。
「じゃ、そろそろ俺、帰るよ。近いうち悠香も連れて来ようか。また来週来るからね」
「ムスコサン、いつもありがとうございます」 
 母はにっこり笑うと、私に丁寧に頭を下げた。


※数年前に地元新聞社の公募小説に応募、入選した短編小説です。避けて通れない親の介護問題と介護のプロの存在など高齢化社会を考えながら執筆した作品です。


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