空想とか その2

ずっと下書きから進んでいない、とある落書きを いつか仕上げたいと思っている。

塔が高くそびえ立っていて、そこをひたすらに、沢山の人が登っている絵だ。私は、資本主義の 何かと競走をする この社会が、こんな風に思えるときがある。塔は水面から いくつも空へと伸びていて、それは、水平線の彼方まで 点在している。人々は、その中から一つ選び 塔を登り始める。人によっては、自分で自由に塔を組み立てている人や、水面にぷかぷか浮いて空を眺めている人もいるかもしれない。でも大多数の人が、塔を登ることを選んでいる。ゾロゾロと列をなして、誰かと楽しんで登っていたり、中には脇目も降らず、人を追い越していこうとする人など、社会の縮図を表せるんじゃないかと思う。決して広くない階段に、人々は殺到し 我先にと上へ登っていこうとする。塔の横で浮遊しているTVには、先頭集団の実況中継。そこまで乗り越えた苦難や軌跡が インタビュアーによって褒め称えられ、また時に華々しい生活を送っているように映され、人々の目に輝かしく映り、さらに上へ登っていく意欲へと変わる。私は別に、塔を登ることが悪いと言いたい訳ではない。私が言いたいのは、その登っている人々が どうして その塔を登っているのか、登っていく中で何をしたいのか、それを自覚しているのかということだ。これは自戒の意味を込めている..。
塔を登ったその頂には、きっと幸せや安寧がある。そんな風に信じて、登っていた時もあった。それは真実かもしれないし、真実でないかもしれない。幸せというのは、物自体ではない。そこで何かを感じる人の心があって はじめて、生まれる物。たとえ物を得ていても 感じる心がなければ、幸せからは かけ離れるのではと思うのだ。幸せは状況だと言う人もいるかもしれない。もちろん それも一理あるが、世の中に 絶対的なものはない。ずっと安定すると言い切れないし、不確実なものだ。その中で選べるのは 自分が その時その時 何を望んで 何を想い、時に アクションを起こし、感じたことに対して どのように反応するかということだけだ。それは、例え 頂だと思っていた所へ到達したとしても、変わらないものである。もし、上へ登った自分に幸せがあって、今の自分に幸せがないとするのならば、登ったあとも同じように考えるだろう。

結局のところ、よく言われる身の回りの小さな幸せを噛みしめるというところに、私の場合は落ち着く。私にとっては 今、この瞬間を感じたり、豊かさを見出すことが大切だ。上へ向かって ひたすら突っ走るのが楽しい人もいると思うが、私は そういうタイプではない(*´꒳`) それに、自分の感じていることを ちゃんと自覚して、その感覚に沿った方が、なんだか上手く流れることってあるよね。

最近は、塔を登ることから降りる という選択もあると思っている。働き方も多様になりつつある今、人との上下差で判断されるよりも、それぞれが持っている個性や価値観が 誰かに届いたり循環していく、そんな世の中の方へ流れていってるように感じている。みんなが競り合っている空間とは 別の自分だけの空間を作ってしまえば、もうそこで争う必要はなくなるのだ。これは、精神的な部分でもそうだと思う。とある枠の中でしか考えられないと、安心や不安などは そこのルールに委ねられてしまい、自分でコントロールすることが難しくなる。だから私は、一旦そこから外れて それを眺めたくなるのだと思う。

自分が人生を終えるときって、どんなことを思い返したり、考えるんだろうな..(*´꒳`)

以上、最近の戯言でした

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