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都合のよい女

「ちょっと、いつになったら片づけるのよ!」

漫画やお菓子の袋が散乱したリビングで、東南アジアの涅槃像のように寝転がって雑誌を読みふける夫の陽介。

菜月が仕事に出掛ける前に、彼も着替えて一旦部屋を片付け、デイサービスの送迎の仕事に行ったのだが。ジャージ姿とひげ面と荒れた部屋の様子は、朝と全く同じ。

見事な再現率に、菜月は呆れ、怒鳴った。

陽介は目を丸くして妻を見た。ピクリと巨体を動かし起き上がるのかと思いきや、180度反転して、点けっぱなしのテレビに向く。

結婚して5年。坊主頭で大柄でやくざっぽい外見に似ず、彼のおとなしくおおらかな部分に惹かれたが、付き合いが10年にもなると、ルーズで無気力なだけということがわかってきた。容姿のせいではないだろうが、陽介は職が長く続かない。お互い来年33歳だが、正社員として働く妻に対し、夫はアルバイト。菜月としては家事を手伝う約束ぐらいは守ってほしいと思っている。

洗濯物を取り込むと、玄関のチャイムが鳴った。
「陽介、出てよ」と、菜月がぶっきらぼうに言うと、相変わらず向こうを向いたままの陽介の尻から「ぷぅ」という音が。

臭いまで漂ってきて、菜月はめまいを覚えた。

菜月は不用意にドアを開けたことを、そこに立つ笑顔の中年女性を見た瞬間に後悔した。
「天野さんお久しぶり。約束の日にお見えにならないから心配したのよー。今大丈夫?」
引きつる笑顔で「少しなら」と、菜月は玄関に座らせた。

半年前、職場の同僚に誘われて、自己啓発セミナーへ参加した。夫のことや将来の不安が解決できるかもしれない、と期待を抱いて行った。だが結論が、会に入って大金を払え、ということだったので、すっかり冷めて帰って来た。この女性はそこのスタッフだった。

以降も同僚に誘われたが、強めに断って職場でギクシャクするのも避けたかったため、曖昧な返事をして当日の集まりはすっぽかした。

菜月としては軽く思っていたのだが。

まさか家にまで押しかけてくるなんて。会の異様な執念に、とんでもない泥沼にはまってしまったと思った。
このまま一生つきまとわれ、お金を搾り取られるのだろうか。
その時、喋り続けていたスタッフの女性が絶句し、視線が菜月の肩越しで固まった。
陽介が音も無く近づき、菜月の真後ろにいたのだ。

坊主頭のこの巨漢は、魚の死んだような目で菜月を見ると、一言、
「メシ」
と発して、リビングへゆっくり去っていった。

脅えた女性はそそくさと帰った。

また来るかもしれない。だが、先ほどまでの不安は消えていた。そして、ソファに泰然と座る陽介の背に、菜月は久しぶりに頼もしささえ感じていた。

「陽介さん、食べたいものある?」
「……サムゲタン」
菜月は無視して焼きそばを作った。

〈終〉



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