学問の自由は生きているか?

一か月ほど前に発足した菅内閣は10月1日付で任命されるはずであった日本学術会議の被推薦者105名のうち6名を任命拒否しました。これに関して学問の自由の干犯だとした論争がにわかに巻き起こっています。
しかし私は残念ながら法律論に関してはとんと疎いため、学問の自由とは何か、というこの問題を語る上で重要な事項を知りません。ただここは一つ、学者の皆さんに同情を寄せたいと思います。

東京工業大学所属の西田亮介准教授のあるつぶやきが「炎上」しました。
https://twitter.com/Ryosuke_Nishida/status/1312929611081080832?s=20

これに関して西田氏は「我々は直接には大学で研究をするわけだが、過去20年にわたって様々な政治からの介入があり、大学を含む高等教育政策の変更があった。(中略) 様々な形で学問の自由を制限するような政治介入が行われている。もし今回のようなことで学問の自由が死ぬのであれば、“我々はもう死んでいる”と言わざるを得ない。言い方を変えると、学術会議の任命権の有り様を変更したぐらいで学問の自由は死なないと、ある種の空元気を強調したい部分もある」と仰いました。

実はこれに尽きるわけです。彼は「ある種の空元気を強調したい部分もある」と仰っていますが、誰がどう見ても今の日本において学問の自由は死んでいるわけです。この日本学術会議の一件など、あたかも豪華客船の船首がつぷんと海へ沈んだような感覚さえ覚えます。つまり機関室やら客室やら重要な部分はすでに沈んでいて、わずかに沈んでいない形式的なものでさえ不自由の海に沈んでしまった。この件を批判している人々は最後の最後になって騒いでいる。船首しか水面より出ていなかったのに、ついには船首すら沈んだのに、これが沈没の始まりだと騒いでいるわけです。大隅さんだの本庶さんだの、ノーベル賞を日本人の科学者が受賞する度にこうしたことは発信されてきたのに誰も騒ぎやしなかった。誰も学会のガバナンスを話題にしなかった。誰も研究者に自由な研究環境を与えようとしてこなかった。そして誰もそれらを一顧だにしてこなかった。声を上げるものに対して黙殺してきたわけです。それがいざ政権を批判する時になったら、今更学問の自由をポッと取り上げるなど何ともやるせないではありませんか。だから私は同情を寄せたいのです。こうした諦めにある種蓋をして強がることさえ冷笑主義と批判されるのであれば、人々の良識という船さえも沈んでしまったのではないかと錯覚してしまいます。学問の自由はもう死んでいます。

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