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感情の濃淡を味わうこと

山根あきらさんの企画に参加させて頂きます。
尚、この記事は私見です。御承知ください。

 春運動会も増えたものの、この季節になると思い出す或る運動会での出来事がある。

 今では競い合うことを避けるために運動会という名前を捨てフェスティバル的な行事に様変わりをしている学校もある。徒競走のない運動会、赤組対白組のように得点で競うことのない運動会。それぞれの学校ごとの特色を出して行われている。

 なぜ、学校は競い合うことを手放していくのか?または手放さざるを得ないのか?

 それは、今のお子さんが「競い合った結果で傷つくから」ではないかと思う。それぞれの学校ごとの判断なので一概には言えない。けれども、私の体感として、運動会のような大きなイベントでなくても、テスト結果が悪かったら感情が抑えきれず答案用紙を破く、ドッジボールでボールが自分に回ってこなかったら怒る、ドッジボールで負けた時には暴れるといった行動に直面することは多々あるのだ。「傷つきやすい」時代になっている。

 そんな中で、運動会で負けたりしたら大変なことになるのだと思う。

 5年ほど前になる。私が以前勤めていた学校で運動会では、赤組対白組で総合得点で勝ち、負けを決めていた。クラス編成というものは、運動会のために決めている訳ではないので、どうしても足が速い児童がたまたま多くなってしまったり、少なくなってしまったり、または当日のコンディションのようなものも関わってくるため「運」で勝敗が決まるようなところがある。もちろん、練習をすることで勝ちやすくなる種目もある。
 そんな中、私は当時給食委員会担当だったのでその委員会児童と一緒に得点板係をしていた。得点板は、プログラムの最後の方になると、得点が一旦わからなくなるようにしているため閉会式までどちらが勝ったか分からない。閉会式の中で、それは発表される。どちらが勝ちか分かりにくい順番でその数字は発表されていく。その数字を給食委員会が動かしていた。
 この年も、閉会式の中で給食委員会がひとつずつ数字を表示していった。「一の位」「百の位」「十の位」・・・。その瞬間、歓喜に沸くチームと、哀しみに暮れるチームに二分された。

 給食委員長は私のクラスと同じ白組だった。十点差で負けてしまった。得点板から、給食委員の子供たちと皆のいる方向へ戻る時に、委員長だった子が私に言った。
「先生、僕達がリレーでもっと速く走れたら勝てたかもしれません。すいません」目には涙が滲んでいる。
 まるで「負けたのは最上級生である自分たちの責任だ」といった悔しさと負けを受け止めようとしている潔さが伝わってきた。
「そんなことないよ。一生懸命走ってくれていたのが伝わってきたよ。6年生のおかげでここまでできたんだよ。ありがとう」
 そう言いながら私の涙腺は緩んでいた。その日の帰りに、自分のクラスの子供たちに、その6年生の言葉を伝えた。
「勝つことも素晴らしいけど、負けたからこそ感じることができる感情があるよね。私はその6年生の言葉に感動したけどみんなはどう?」
 運動会は「勝っても負けても感動する」ことができる。一生懸命参加した体験は結果に関わらず自分にとってプラスになる、そういう大切なことを伝えるチャンスだとも思う。

 
 あの時の6年生の言葉は、今も私の中に残っている。


 それから5年ほど経過し、勤務校での話。
「〇〇君のお母さんから、運動会で赤組対白組の総合優勝という賞以外に、賞を増やして頂けないでしょうか?」という問い合わせがあった。本校は競い合う種目は少なく、一人一人が順番に跳び箱やマットなどの演技を見せる種目など勝敗に関わらない種目が多い。それでも、団体種目などから得点制で最後に勝敗がついてしまう。
 〇〇君は、自分のなりたい像がはっきりしていて、そこから外れた結果だと、どんな小さいことでも癇癪を起こしてしまう。
 お母さんの気持ちもよくわかる。でも「総合優勝」の代わりに、「大きな声で応援したで賞」「協力できたで賞」のようなものをもらったとして〇〇君はそれで納得するだろうか?

 職員で話し合った結果、本校では「キャリア教育」の一環で、もともと個人の目標を設定してそれに対してどうであったか振り返りを大切にしていることもあり、また、競い合う種目もほとんどない状況であること、大きな変更がある場合には事前に児童や保護者に伝えておく必要もあることなどから、別の賞をつくることは今回は見送ることにした。担任から〇〇君のお母さんに丁寧に説明をさせて頂いた。そして私たちは、来年度に向けてその点について話し合っていくことになる。

 〇〇君のように、子供の頃、自分の感情がコントロールできないくらい強い思いをもっているお子さんは、きっと将来、自分にしかできない仕事をしてくれるものと信じている。感情のコントロールは、年齢を重ねるにつれて次第にできるようになっていくものだ。


 子供のうちに「勝つこと」だけでなく「負けること」も体験しておいた方がいいように思う。「感情の濃淡」をひとつ、ひとつ体験していくうちに「上手な負け方」を体得していくことができ、次に生かせるようになると思うので。

 人生の目的は、できるだけたくさんの「喜怒哀楽」を体験し、それぞれの感情を味わうことそのものではないだろうか?
 そして「感情の濃淡」を何度も味わうことで「感情をコントロール」できるようになるのだと思うが、それこそが人生の最終地点に到達したい場所と言っても良いのかもしれない。




森さやかさんの素敵なイラストを使わせて頂きありがとうございます。