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仲良しの挨拶は握手、じゃない

ヨーロッパの北のほうは握手かハグが挨拶のお作法で、キス、なんて恥ずかし〜し、お辞儀は日本のものだよね、礼儀正しいね、とされる挨拶文化である。

日本からデンマークに来た時に、握手からはじめることのやりやすさ、スキンシップからはじまる関係性の違いを感じた。が、慣れるとそれが作法として形骸化されたものであり、「この人とはハグをするほどの関係性ではないので握手をする」という親しくない関係の規定の行為であることもわかった。

ソーシャルディスタンスが一年続いて、人々は週に一回はテストをし、感染もすこし落ち着いてハグが少し許されるようにな空気感になってくると、わりとところかまわずみんなハグをしてる。ハグが無いともう生きていけない。(わたしも)

もちろん全員にハグ、というわけではなく、よく会う友達とはハグ、肘をくっつけるエルボーバンプが久しぶりな友達との挨拶、ビジネス付き合い、はじめましての人との握手、のようになった。(実はハグまだダメですが。どうしてもやっちゃう...)

エルボーバンプはどこか握手よりもカジュアルで、体自体もすこし近づき、肘をつける瞬間には照れまじりの自然な笑みが溢れ、いきなり少し打ち解けた間柄になれるような感覚がある。なんだろう、お互い大変だよね、と、共にウイルスと戦う仲間としての感覚というか。

エルボーバンプは、それまで握手という行為が作り出していた「必要以上の慇懃さ」を飛び越え、関係性におけるフェーズを一つ社会から無き物としたように感じる。初めましてのクライアントにも、前よりもすこし打ち解けた形で話せ、物事が進めやすいし色々聞きやすい。

行為が異なるだけで、関係性の感覚や仲の良さが変化するのは面白いな〜と思う。ウイルスと戦うためのお作法のおかげで、もっとカジュアルに話せるようになるのだ。

また、エルボーバンプにはもう一つの作用があると思う。平等性だ。握手は手のひらの質感、握る強さ、どちらが先に離すかなど、ある種優位性に関する情報が交換される。例えば、トランプ元大統領は力強く握って引き寄せ、相手に優位を示す。

お辞儀も同様に角度ややめるタイミングなどで優位性を示す。しかしエルボーバンプのひじ先の点と点とのふれあいは、握手のように手の大きさ、質感、握る強さなどその人の属性や力を示すような情報は載せられないので、平等な情報交換となる。(肘を突く強さ、で情報を載せられなくは無いがとんがっていて痛いのでみんな優しく肘を差し出す。)

米国で握手が広まったのは、18世紀のクエーカー教徒の影響が大きいと思われる。階級や社会的な序列に関係なく振る舞おうとしていた彼らは、当時一般的だったお辞儀や帽子を脱ぐといった仕草よりも、握手の方が挨拶としてより民主的だと考えた。 -ナショナルジオグラフィックのニュースより

握手自体が民主的な目的のため発展したという事実は面白いが、繰り返され作法となり、政治的な道具の一つになり変わった中で、新たな、そして余計な情報のない好意だけを示すボディランゲージ、がビジネスの中で定着しないかな、とほんわり期待している。(多分ないけど...)単純に好きなんだよね、あの動き。ラッパー・ダンサーの握手の初手でおなじみフィストバンプに似てるし、それでもいいけど。

日本ではどの程度エルボーバンプが定着してるのだろう?パンデミック発令以来全く行けてないので状況がわからないけど、握手・ハグ文化はそんなにないし、衛生的無敵のお辞儀があるのであんまり関係ないのかも。

でも、いろんなステークスホルダーと平等だと感じながら働くのはデンマークのデザイン界で働いてる上で楽しいな〜と思うとても重要な要素なので、私が日本のプロジェクトをする時が来た時には何かとんでもないことが起こって、もうお辞儀をするのはマナー違反だ、となるようなことが起こらないかな。そうすればみんなエルボーバンプをするようになって、ちょっと笑いながら会議する、みたいな。そうすれば一つ、例えばクリエイターとクライアントのいびつな上下関係をクリアできるきっかけにならないかな、なんて...。お辞儀のできない世界、どんなディストピアだろう。

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