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理不尽を数える

社会の理不尽とは戦わない。数を数えるだけでいい。

斎藤薫『あなたには躾があるか?』

筆者は20代の一時期、その日遭遇した「理不尽」の数を手帖に記入していた。大学時代の先生に、「世の中のしくみが、学生時代は理不尽なことにはめったに出合わないようにできているのに、社会に出ると理不尽が一気に全部見えてくる」(同書)、そこで腹を立てたり、なぜそんなことが許されるのか、などと考えたりするのではなく、「理不尽は、”理不尽”というムチャクチャにすぎないから、聞き流せないならただ単に数を数えておく」(同書)と言われたからだという。

確かに、ただひたすら1個2個と数を数えるだけに専念すると、不思議に腹が立たなくなる。一日3個くらいの理不尽なんて、当たりまえと思えるようになる。そして最初は面白がって×××とマークをつけたりしていたが、やがてそれ自体もバカバカしくなった。理不尽とは、なるほどバカバカしくなるくらいに、そのへんにころがっていることを知ったから。

(同書)

理不尽、と呼ぶ時点で、まともに対抗してもどうにもならないとわかっている。だからといって簡単に受け入れられるわけではない。そこで、苦しんだり、その苦しみから逃れる方法を探ったりするのである。目をそらす、というのも一つの手であろう。

何かを数として数える場合、普通その内容は問わない。内容をチェックしながら合格したものだけを数えていく、という作業にしても、チェックと計数を同時に行うわけではない。数えることと中身を調べることとは両立しない、ということは、数えることによりその内容から目をそらすことができる。

理不尽はいわゆる「不幸せ」の一種であるから、「理不尽を数える」というのも「不幸せな状況にフォーカス」しないようにするための知恵だ。結局、心の焦点をうまく操れる人の方が楽に生きられるということか。

ピントが合いにくくなった目には、遠くと近くを交互に見るトレーニングが有効だという。心の健康のためにも、「遠くを見たり近くを見たり」した方がよさそうだ。 (2018. 7)

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