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人生の棚卸し(約5.5万字)

アーティスト、プロコーチの川端元子(かわはたもとこ)です。

手元で棚卸しするだけのつもりでしたが、私の無意識が「公開しちゃえ」と言っているので、公開することにしました。非公開のつもりだったので、わざわざ人に言う気もなかったエピソードも結構書いています。でも、いいんです。それぞれの経験を経てこそ、いまこうして生きていて、生きていくのが私の人生です。

田舎で生まれ、ぼんやりとしたところもありつつ、過集中でいろんなことに夢中になり、人が生きて死ぬことへの関心を蓄えながら、いろんなhave toも順調に背負いつつ、心が折れそうにもなりつつ、その先でこそ見える、自分らしく生きる未来を決める景色を知っていく過程を正直に書き表せたと思っています。

自分の過去をフラットに扱えるようになることで、浄化が起こること。繰り返す景色がわかることで、捨てようとしても捨てきれない自分の軸のようなものが見えてくること。自分史を書いてわかったのは、そんな景色でした。

この記事を読んでくださる皆様においても、そういう景色を感じる読み物として、読んでもらえるんじゃないかなぁと思います。長いけど。

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1989年2月13日、富山県新湊市(現:射水市)にて、同居する祖父母両親が全員教師という教員一家の一人っ子として誕生しました。

祖父母はともに小学校教員、父が中学の理科教師、母が中学の音楽教師です。祖父母世代の田舎の教員は、地域のリーダー的な扱いを受けやすいようで、祖父母はともに地元の仏教会の長などを務めていました。祖母は超田舎の農家の出身ですが、頭の良さと真面目さから「この子を進学させない訳にはいかない」と言われ、当時は珍しかった女学校への進学を果たし教員になったそうです。そんな教員一家だったので、いろんな人が「○○先生にはお世話になった」と挨拶に訪れる光景をよく目にしました。母方は、祖父が労働組合運動に燃えた国鉄の運転手、祖母は敗戦濃厚な中で満州から兄弟を全員連れて船で逃げてきたという満鉄幹部の娘で、元々は裕福な生活をしていたところから全てを失い、帰国後に魚市場での経理などをしてゼロから踏ん張った人でした。こうして振り返ってみると、田舎の環境や逆境の中から、自分が生きる術や活躍する術を見出す経験をしてきた人物の多い家庭環境だったのかもしれません。

私は未熟児での誕生だったことからしばらくは保育器に入っていたそうで、名前は「元気な子に育つように」という意味で名付けられたそうです。未熟児スタートだったためかなかなか歩き出さなかったそうで、ベビーカーに座ったまま色々と喋りはじめていたという話も聞きました。

【就学前】

実家がある地域は、工場と市民体育館と農協と小さな商店があるほかは、昔ながらの家と田んぼが広がる田舎のムラ。いわゆる「何もない」と言われるような地域だと思います。実家は小さな子どもが探検して遊ぶには十分な広さで、家の中や様々な植物が植えられていた庭をひたすら探検し、春にはフキノトウが出て、夏にはぎょっとするような色のイモムシが山椒の木に表れて、秋には木に柿がなって、冬には全てが真っ白な雪で埋まるということを、小さな世界の中で学んでました。

3歳になってからは、隣町にある仏教系の幼稚園へ通園バスで通いました。お絵描きの時間、音楽の時間、遊具で遊ぶ時間、砂場遊び、芋ほりなど、ひとつひとつの出来事が新鮮で、新しいことを次々と体験していける環境がとても楽しかった記憶があります。絵本や図鑑も好きだったようで、父が私の子守をしているはずの部屋があまりにも静かで、心配して覗きに行ったら、父と私がそれぞれでそれぞれの本を読んでいたという話を母から聞いたことがあります。何か興味を惹かれる対象に出会ったとき、自分の中でマイブームが来ているときは、その目の前の対象に120%でのめり込む性質は、この頃からかもしれません。

【小学校(低学年)】

小学校は、家から1.6kmほど、子どもの足で徒歩30分くらいのところにある、地元の公立小学校に入学しました。小学生にとってはなかなかの距離ですが、田んぼ、用水路、放し飼いで飼われている柴犬、知らない地区の民家の裏路地などで、毎回新しい発見をし、立ち止まったりするのを高学年の人たちに注意してもらいながら、登下校していたと思います。

小学校の隣に保育園があり、同級生のほとんどがその保育園の卒園だったことは、入学直後の自分にとってはなかなかの重大事件でした。入学式を終えた翌日の教室で、(あれ?もうみんな友達なの?どうしよう…)と固まってしまったことを覚えています。しかし小学校という場所は、幼稚園とはまた違う刺激に満ちた場所で、授業、教室、学級文庫、グラウンドの景色、日々育っていく朝顔、中庭のうさぎやニワトリに夢中になっているうちに、周りの同級生との接し方は全く気にならなくなっていました。1年生の時に同じ班だった同級生から、数年後に仲良くなったタイミングで、「あの時はいじめてごめんね。無視してごめんね。」と謝られたのですが、当時学級文庫の本(たしか『エルマーのぼうけん』とか)の読破や中庭に居るうさぎとの戯れに激ハマりしていた自分は1ミリもそんなことに気が付いておらず、「え、はじめて知った。そうなんだ。」と、ただただ普通にびっくりして終わりました。その反応に、友人の方がびっくりしていました。無視や仲間外れは、幼少期には重大な心の傷になりそうなのに、自分の世界に入り込んでいたおかげで回避することが出来ていたとは、我ながらなかなか図太いなぁと感心します。

学校の外では、家の隣の空き地のような公園の遊具で延々と遊んだり、石をひっくり返したところにいるダンゴムシをつついて丸めたり、田んぼの側溝にいるオタマジャクシやメダカを捕まえたり、窓の外の景色をずーっと眺めていたり、そういうことを飽きることなく繰り返していたと記憶しています。

外や家の中を探検しないときは、家の中にある本を何度も何度も繰り返し読んでいました。多分この頃にハマっていたのは、子供向けの図鑑セットで、動物や魚などの生き物の名前をひたすら覚えたり、世界各国の民族の違いを見て世界の広さを想像したりすることが特に好きでした。なんとなく印象深いのは不思議な特徴を持つ深海魚のページで、人間が生きていけない海の底で個性的に進化した魚たちを、お絵描き帳に書き写して遊んでいました。描くことを通じて、まだ知らない世界の手触りを知ることを楽しんでいたのかもしれません。

【小学校(中~高学年)】

「誰にも邪魔されない」ひとりっ子特権、日々読書にはまる

小学校中学年くらいになると、自宅や図書室での読書にはまっていきました。

よく読んでいたジャンルのひとつが『世界文学全集』で、中でも「古代神話」を何度も何度も繰り返し読んでいました。読んでいた本が母親からのおさがりで古かったこともあるのですが、古代神話が載っている巻ばかりを読んでいたので、その巻だけ背表紙が割れ、ガムテープで補強した上で更に何度も読んでいた記憶があります。特にはまっていたのが古代エジプト神話で、神々の名前や役割、彼らが持つ様々なエピソードはすっかり丸暗記し、更には、古代エジプトのVHSを買ってもらって擦り切れるほど見たり、世界ふしぎ発見のエジプト回は必ず録画して何度も見たり、ミイラの作り方を覚えたり、ヒエログリフ(象形文字)を解説する本を熟読して全ての文字と数字の読み書きができるようになったりと、完全に古代エジプトオタクと化していました。興味を惹かれた物語を生きた人々がいて、今自分が生きている世界とは違う宗教観・死生観の中で生きる人生があって…という、自分は生きられなかった時代にタイムスリップしたように没入して、全身全霊で味わい尽くしました。神話や文化は人々が作り出しているものだとは理解していたので、こうやって国や宗教や文字が作られ、進化していくのか……という体感をしては感動していました。神として崇められるファラオを臨む景色、奴隷たちがピラミッドの石をひとつひとつ詰んでいく時の重み、神官としてパピルスにヒエログリフを記していく感覚、ミイラづくりの現場で漂う薬剤の不気味な香り、じりじりと灼けるような熱さの砂漠で壺からビールを飲む気持ちよさ……まるで自分自身がその時代に生きていたのではないかというレベルで、五感で感じられるほどの追体験をひたすらに楽しんでいたことをありありと思い出せます。当時の夢は考古学者で、VHSやふしぎ発見の番組にいつも出てくる、早稲田大学の吉村作治先生の研究室に入り、土を掘る日々を送る日がくることにあこがれを抱いていました。

もうひとつ好きだったジャンルは『偉人まんが』でした。『偉人まんが』とは、実在した歴史上の人物の人生を誕生から最期まで描いた漫画シリーズです。本屋に行くたびに、偉人まんがコーナーに直行し、モーツァルト、キュリー夫人、ナポレオン、マリー=アントワネット、リンカーンなどの名前が並ぶ表紙を見比べ、悩みに悩んだ上で、その日に買ってもらうまんがを真剣にセレクトしていました。「偉人まんが」について、今思えばとても奇妙な、独特の読み方をしていていた記憶があります。その読み方とは「まず初めに、ラスト5ページくらいから読みはじめ、『この人はどんな風に死んだのか』を確認してから、改めて最初から読み始める」というもの。誰もが幼少期にショックを受けるであろう「人は誰でも死ぬ」という事実の衝撃がずっと自分の中で続いていて、歴史上に名前が残るほど人生をやり切った人たちの人生を覗き見ることで、「どうしたら、後悔なく人生をやり切ることが出来るんだろう」「どうしたら、死ぬときに満足できる人生をやりきれるんだろう」ということを常に考えていました。おそらくその答えを模索する意味で、そのような読み方をしていたのだと思います。一度は国の英雄になっても島流しの憂き目にあってしまったり、王妃になっても断頭台に登る運命をたどることになったり、研究に夢中になり身体を蝕まれても辞めない生き方を貫いたり、悲しい別れの連続を経て自身を慰める中で美しい曲が生まれたり……そんな景色を何度も何度も追体験する中で、小学生ながら「こういう偉い人たちでさえ、満足できた人ばかりじゃないのかもしれない」「どうしてまだ、人類はそこに答えを出せていないんだろう」「私は絶対に、自分の人生に納得して死ぬぞ」という決意を日々新たにしていました。

学校でもよく図書室に通い、自宅には無かった『日本の神話』シリーズや、『はだしのゲン』シリーズをよく読んでいました。自分が直接体験していない時代としてどのようなものがあったのか、それはどのような景色で、どのような体感がある日々だったのか、そこから何がどうして今日につながってきたのか、そういうことを生々しく体感できるノンフィクション作品に惹かれることが多かったように思います。初めて読んだ少年漫画が、このころ従兄弟が見せてくれた「ワンピース」の最新刊で、ちょうどサンジがレストランで暴れ回って登場人物みんなが血まみれになっている回だったことで、「少年漫画、怖い……」と遠ざけたくなったこともなぜかよく覚えています。

「ものづくり系」のおもちゃが好き

何かおもちゃを買ってもらえるチャンスが来た時には、たいてい「ものづくり系」のものを欲しがっていました。特にハマっていたのは、「ハンドルを回すと、毛糸が編まれていくおもちゃ」や「ビーズアクセサリーができるおもちゃ」で、ただの素材だった毛糸やビーズが、自分が手を加えることでマフラーやネックレスになっていく過程に夢中になっていました。ちょっと大きめのショッピングセンターに行ったときには、手芸屋さんで延々と布や毛糸やビーズを眺め、「次は何をつくろうかなぁ」と妄想を広げていました。

祖母が洋裁をよくする人で、家にミシンがいくつかあったので、高学年になる頃には本物のミシンを使い、帽子やちょっとしたゴムウエストのスカートなんかも自分でつくるようになっていました。自分で決めた素材と型紙を使い、ひとつひとつのパーツを切り出して、組み合わせていった先に、想像以上にそれらしいモノが出来たときは、とてつもない満足感を覚えました。

授業は全力、テストは娯楽

学年が上がるにつれ、勉強もテストも、どんどん楽しいと思うようになりました。授業はとにかく、目の前にある内容に対して全力投球で、でもときどき教科書の少し先のページをこっそりめくりながら、(早く次のお話を読みたいな…これがどういう意味なのか知りたいな…)とそわそわしながら過ごしていました。

テスト期間のことはいつもご褒美タイムだと思っていて、特に、授業で扱った題材とは違う内容が書いてある、業者さんのテストが大好きでした。特に好きだったのが国語のテストで、「今日はどんなお話が読めるんだろう」とわくわくしながら席につき、「うわぁ〜、世の中にはこんなお話があるんだ。おもしろいなぁ。」と全力で問題を読み、意気揚々と問題を解いていました。テストをさっさと解き終え、余白に落書きをする時間も自由でだいすきでした。学年全員で受検するIQテストも大好きで、夢中になって爆速で解きまくった結果、ぶっちぎりのスコアだったと後で聞きました。IQテストについては、親の数十年の教員生活で見た中で2番目のスコアだったとも聞き、それをただ喜んで終わればよかったのですが、なぜか「ということは、結果が出なければ、全部自分の努力不足ということか。」と、ハードワーカーマインドの種みたいなものを自ら実装する機会にもなりました。

そんな感じで、授業だとどうしてもクラス全体の状況や、授業計画に沿った進行に従わなければならないし、手を挙げても当ててもらえなかったりもするので、100%をまっすぐ出し切っても許されるテストの時間は、自分にとっては幸せな環境でした。

基本的にテストの成績はよかったのですが、なぜかいつも詰めが甘く、「見直せば必ず気付くレベルの、しょうもない凡ミス」をしてしまい、なかなか満点が取れないことはちょっとしたコンプレックスでした。あとは、宿題をやることもとっても苦手で、毎日の宿題を忘れて登校してから片付けることは日常茶飯事、夏休みの宿題は8月27日ごろからが本番でした。こうした特性から、「ギリギリでなんとかして間に合わせる力」がついたなぁというのと、締め切りギリギリのハイな感じが好きになってしまった感があります。

習い事にも全力投球、絵画教室との出会い

習い事は主に、「絵画教室」「習字教室」「民謡踊り」に通っていました。基本的に、どの習い事もとても面白く、それなりに一生懸命にやっていたと思います。特に、絵画教室と民謡踊りについては、大きな公民館などでの発表会があることがとても好きでした。

近所の体育館で、中学生たちを全国大会へ導くレベルの新体操の教室があったのですが、母親から「こんなのあるけど、あんたは興味ないよね?」という言葉とともにチラシを見せられ、興味があるかないかを判断する前に「(そうか、こういうのは私には向いていないということか…)うん、ない。」と返事をして、その選択肢が数秒で消えた記憶があります。体育の授業が基本的にポンコツだったこともあり、身体を使う活動や表現をする選択肢は、基本的に避けていくようになりました。

習い事の中で、最も夢中で取り組んでいたのは絵画教室で、先生は優しくてかっこいいおじさま先生だったと思います。先生が授けてくれた構図やデッサンのコツを反映させるたびに、自分の手から生まれる絵がどんどん輝いていく喜びを感じていました。当時習っていたのは水彩画でしたが、デッサンにおける光と影の取り方や道具の使い方をかなり丁寧に教えていただいたこともあり、鉛筆でひたすら描き込み続けることで、実物以上に実物らしく、対象物の何がどう美しいのかだけを拾っていける鉛筆画の魅力にはまっていきました。教室では数か月ごとにテーマが決まっていて、教室参加者全員で同じテーマ(リンゴと瓶とお花、とか)を描くことになっており、最終的には水彩絵の具で色塗りをしなければならないのですが、鉛筆画の時点で細部まで描き切った上に絵の具を乗せることで、せっかく描き込んだ細部がぼやけて鈍くなってしまう感覚があり、色を塗る過程がなければいいのにと思っていました。

デッサン愛はどんどん高まり、家でもいろんなテーマを見つけてはデッサンに取り組んでいました。特に好きだったモチーフは、自分の手とか、花とか、複雑で細かい描き込みや独特のラインを拾う工夫がしやすいもの。自分が見ている対象物の輪郭や、凹凸によって生まれる影の具合をひとつひとつ拾っていくことで、デッサンが育っていく過程が面白くてたまりませんでした。ある日、冷蔵庫の中で「半分に切られたキャベツ」を見つけたときには、その断面の複雑性がとても面白く、2日ほどかけて朝から晩までキャベツの断面図を描き続け、家族から「そろそろキャベツを炒めたいんだけど」と言われたものの、端から少しずつしおれていくキャベツのことを可哀想に思う気持ちがほんの少しは芽生えつつも、「絶対にだめ」と返却を拒否し続けました。途中で終わるとか、何となく想像で仕上げてしまうとか、細部が確認できずに制作を進めるとか、そういうのが気持ち悪くて嫌だったのだと思います。

対象物を観察するということを厳密に正確にやりたいという欲求があるようで、デッサンにおいても、線を重ねて描いて何となくの雰囲気を出したり、影を指でぼかしてそれっぽくするやり方は許せないという感覚がありました。こうしてかなり絵に熱中していたので、自分が一番上手いはずだという自負もあり、学校の美術の時間や写生大会の日は誰よりも本気で取り組んでいたと思います。

【中学校】

なぜか、入学した中学校に父がいる

中学校に入学する1年前に、一般的にはあまり体験することがなさそうなことが起こりました。なぜか、市内の中学校の教員をしていた私の父が、翌年私が入学する予定の中学校へ異動することになったのです。当時、合併前の市内には4つしか中学がなく、本来ならば4校中3校に両親と私を振り分けることになるはずなのですが、致し方ない事情があったのか、人事上の配慮ミスなのか、思春期ど真ん中の私にとっては、ちょっとした事件でした。

さすがにたった1年での異動は難しかったようで、私が入学する年にも、父は引き続きその学校に残ることになりました。ナイーブな時期ゆえの「親が学校にいるなんていやだなぁ…」という気持ちも多少はありつつ、職員室の先生は全員親の同僚、先輩も全員父の生徒たち…という不思議な状況により、先生や先輩からの厳しい目を一切無効化することができ、良くも悪くも、おいしい立場で楽に過ごすことができてしまったなぁと思っています。さすがに、父は私が2年生になる年に異動することになりましたが、『先生の娘』という独特の扱いは、なんとなく卒業まで続いていた感じでした。

人生初の「リーダー」的ポジション

新しいクラスでの生活が始まってすぐに開催された学級委員を決める会議で、なかなか立候補がない状況が続いていた時のこと。ある同級生が突然手を挙げ、「頭がいいから、川端さんが委員長をやったらいいと思います」と言いました。突然の指名に驚きましたが、ポジティブっぽい形で推薦されている感覚は悪い感じがしなかったので、何をするのか全く分からないまま「じゃあ、やります。」と返事をしました。マイペースに、マイワールドの中で生きていくことを基本としながらも、さすがにこのころになると、集団生活の中での振舞いを見出せていない感じについては、自分なりにもやもやとしていたところはあったのだと思います。

この出来事が、『頭がいいと思われれば、役目がもらえる。』という認知を得る最初の機会だったように思います。このあたりから、「周りから頭がいいと思われる(バカとか無知とか思われない)」ことと「自分に存在意義がある」ということがくっつきはじめ、それを繰り返す中で、自分の中での当然の規範として定着していくことになります。一見成功体験のようでありながら、社会人7年目くらいまでずーっと続くhave toを生む種にもなっていきました。

美術部に入部、美術の授業は天国だった

人生で初めての部活動は、美術部に入部することにしました。体育の授業が大嫌い、大の苦手だったので、運動部は絶対にナシ。残るは吹奏楽部or美術部という選択という中で、部活動見学に行った音楽室で感じた「ザ・女子社会」な空気感に耐えられそうにないなぁ…という判断で、美術部という選択に落ち着きました。わりと迫力のある先輩に誘われ、流れでバレーボール部の見学に行ってしまったときは、最初にコートの周りを走り始めた時点で「早く終われ…」と思っていました。

美術部では、主にデッサンか油絵をやっていました。たしか、油絵は中学校に入学してから触れ始め、絵の具のねっとりとした感触と独特の匂いにちょっとクラクラする感じが大好きでした。小学生のころからデッサンバカだったので、中学校に上がってからのデッサンの授業では、私一人だけが異様なレベルで描き込んだものを提出していました。廊下に張り出された約90枚の画用紙の中で、技術の上手い下手以上に、謎の執念がこもった提出物が1枚だけ浮いているということを自分自身でも感じたことが何度もありました。

中学生になり、相対評価の中で優秀な方にいるということが、自分の生き残り戦略として重要になりつつあった中で、絵をちゃんと描けば授業で必ず評価されるということへの満足感と安堵を得ていくようにもなりました。少しずつ「進路」という言葉も聞こえ始めた中で、「ただただ、描きたいから描く。」という純粋な感覚で絵を描く状態から変化していったようにも思います。

学級委員長、生徒会、生徒会長へ

中1の前期で学級委員長になったことをきっかけに、私は突然「リーダー系役職」を歴任するルートを歩み始めます。勉強ができる、学級委員長をやっている、先生の娘、という分かりやすいカードが揃っていたためか、いつの間にか生徒会委員に立候補する流れになっており、気付けば選挙演説をし、「いつも生徒会に居る人」になっていました。

正直、生徒会が何なのかをよく分かっていなかったですし、何をやりたいかもぼんやりとしていたような気がします。ただ、選挙演説で何を言えばいいのかはなんとなく分かる気がしたのと、私が壇上でこれを喋ればめちゃくちゃ説得力がある、選挙には当然勝てる、という謎の自信もあり、流れで生徒会選挙に出続けたような気がします。最終的には生徒会長にもなりました。

実際の活動はどうだったのかというと、それなりにそれっぽく生徒会長挨拶をこなすことと、決められた仕事はちゃんとやりきったかなとは思います。生徒会メンバーとして、本当はもっとどんなことを成しえたんだろうなぁとか、ちょっと物足りない気持ちで任期を終えてしまったような感じはあります。

姐さん、というあだ名の始まり

そういえば、中学生になったころから、「姐さん(ねえさん)」とあだ名をつけられるようになりました。落ち着いている、もっと年上に見える……など色々とあだ名の理由は聞いたことがあるのですが、本人の主観としては、ぼーっとしているか、常に何かに没頭しているだけという感じだったので、なぜいつもこういう系の呼ばれ方をされるのか、とても不思議でした。年齢プラス5歳くらいに見られるようになったのもこの頃で、30歳くらい位までは年上にみられる時期が続きます。

小学生の頃から伝記まんがを読み漁っていた影響で、「人生のあらゆる時期は、その時しかない。全力でやり切らねば後悔する。」という思想が確立していたことにより、謎に気合の入った姿勢の生徒だったので、そういうことが影響したのかもしれません。中2あたりで一瞬、勉強の中弛み期間がゆるっとあったものの、授業も、テストも、学校行事も、基本的には常に全力だったと思います。合唱コンクールでは、楽譜もまともに読めないのに、パートリーダーや指揮者をやたらとやっていました。姐さんというあだ名のおかげで、しっかり者的な振る舞いを求められているんだろうなという自意識を育てていったような気もしています。

学習発表会のクラス劇で、舞台の面白さを知る

私が通っていた中学校では、毎年の学習発表会にて「クラス劇」がありました。全員にセリフが割り振られていたのですが、どうせやるなら一生懸命に取り組める役がいいと思い、一番覚えるのが大変そうな役に立候補し、無事役をもらうことができました。

学校でも家でも何度も練習し、気合十分で臨んだ本番では、おそらく深い「ゾーン」に入るような経験をしました。静かな体育館に座っている人たちに自分の意識が届いていく感覚、琴線に触れることができたような感覚で、とくに観に来てくれていた祖母にある景色と感情が届いたような感覚がありました。

閉幕後に祖母に聴いたら、全く同じ感覚を共有してもらえており、舞台という表現方法で叶えられる情報伝達、コミュニケーションの面白さが、深く深く心に残った出来事でした。

スクールカーストがわからない、無所属人間

中学生にもなると、いわゆるスクールカースト的な認知や仲良しグループが形成されるもののようですが、私にはどうにも自分がどこに所属すべきかを認識する能力が備わっていないようでした。

普段話す相手も、休日に遊びに行く友人も、いつもバラバラ。なんとなーくヒエラルキー的なものができている状況自体は観測できるものの、何故そのようなものを作る必要があるのか、なぜ上下の評価が下されていくのか、全く理解ができませんでした。

大人になってからストレングスファインダーを受けると、何度受けても1位か2位に「個別化(一人ひとりのユニークな個性に興味を持ち、一般化を嫌うという特性)」が来るのですが、この頃からその感覚が強くあったような気がします。人それぞれに個性や事情があるのだから、それを上とか下とかで評価して扱う感覚は、自分にとって気持ちの良いものではありませんでした。

「自分より絵が上手い先輩」に出会い、薄れていく美術への道

中学校に上がった後も、別の先生の絵画教室に移り、新しく通い始めた絵画教室で出会った、2歳ほど年上の女の先輩の絵がめちゃくちゃ上手く、まるで写真のような美しい風景画を書いていることに度肝を抜かれてしまいました。その絵画教室主催の品評会に何度か出展したことがあるのですが、その度に先輩の絵に圧倒されては「あぁ、私には勝てないなぁ」と密かに思っていました。

絵は好きだったのですが、「この先輩には敵いそうもない」「こういう人が美大に行くべき人なんだ」という勝手な劣等感と、「私は勉強が得意だから、勉強で勝ち上がっていった方が人生上手くいきそう」という打算があり、このころから少しずつ、美術大学進学などの「王道ルート」からは自然と興味が逸れていくことになりました。共働き家庭に育ったこともあり、男性と同等に稼げる、自立した自分になるということが、進路決定をする上での必須条件でした。「美術はきっと稼げないしなぁ」という想像をしていたことも、進路選択に大きく影響していったと思います。

非合理的な押し付けに反発した、高校受験期

富山県にはいわゆる「名門私立高校」的な学校がなく、「できるだけ偏差値の高い県立高校に行く」ことが、高校受験の成功ルートとされていました。

県立高校の受験問題は全校共通のため、受験期には【全員に配布される「県立高校向け問題集」を1コマずつこなし、問題集が3周するまで、毎日提出しなければならない】という全員共通のノルマが課されたのですが、これが本当に苦痛でした。新しい問題に触れることで、新しい情報に触れられるからこそ勉強は楽しいのに、同じものを何度もやらなければならないのは辛すぎる。1回見れば答えを覚えてしまうのに、何の意味もない。そう思った私は、「1回やれば覚えるようなものをどうして何度もやらなければならないのでしょうか?志望校に受かればいいですよね?私は2周目以降はやりません」的なことを担任の先生に言いに行きました。つまらないし、合理性に欠けるし、納得がいかない。そういう選択肢には賛同せずに、我が道を行くという態度が、この頃から芽生えた気がします。

そうして、無意味なノルマを勝手に逃れた私は、親に大量の受験用問題集を買ってもらい、ひたすら新しい問題を解くことを楽しんでいました。しかし、県立高校の入試はほぼほぼパターンが決まっており、受験期終盤には、見た瞬間に「この問題知ってる…」とがっかりすることがほとんどになってしまったため、実際の受験には何の役にも立たない、灘高校や開成高校の難しそうな入試問題を解いて遊んでいました。

そんな生意気な受験期を過ごした割に、当日は凡ミスの連続でヒヤヒヤしたりはしたのですが、なんとか無事に第一志望校に合格し、県西部でトップの進学校である高岡高校に進学することになりました。

【高校(1~2年生)】

憧れの制服と、賢すぎる同級生たち

憧れの制服を着用し、憧れの校舎に通い始めたことに浮かれていたのも束の間。入学早々、授業内容に全くついていけないことに混乱する日々が始まりました。

中学時代に「宿題はあんまりやらないけど、一夜漬けで本気を出し、テストの成績で許してもらう」という手のぬき方を覚えてしまったため、予習復習の習慣が全く身に付かず、授業がわからないのでその復習もままならず……という悪循環が始まっていくことになります。

入学早々の赤点ショック

予習をしていないから今思えば当然なのですが、授業初日から先生が言っていることが全く分からず、最初の定期テストで早速赤点を取ってしまいました。1年生1学期の中間考査で、数学のテストの右上に書かれた真っ赤な「37点」に、とてつもないショックを受けたことを覚えています。

近くの席の同級生は、自分の倍近く、倍以上の点数を取っている人もいて、まともな勉強習慣を付けなかった自分のことは棚に上げ、(とんでもないところに来てしまった……)と呆然としてしまいました。

中学校のクラス劇の充実感が忘れられず、弱小演劇部へ入部

そんな勉強面でのショックもありながら、高校時代にしかできない部活を何にしよう?何なら真剣にやり切れるだろう?と、部活動選びには興味津々でした。先輩たちが次々とプレゼンしてくれる中で目に止まったのが、美術部と演劇部。特に演劇部については、中学校の学習発表会での感覚が残っており、「あの感覚を、もう一度味わってみたいなぁ」という思いがどうしても消えず、今しかやれないことのようにも思えたので、創部3年目のほやほやの演劇部に入部することを決めました。卒部済の3年生が3人、2年生が4人、自分たち1年生が6人という、とても小さなチームでのスタートでした。

寝ても覚めても部活動、我の強いメンバーで手探りでの作品づくり

入部が決まってからは、登下校の路面電車ではずっと台本を覚え、有名な作家の脚本集をひたすら読み、実家で加入していたWOWOWの番組表で舞台の放送を調べて全部録画して繰り返し鑑賞し…と、とにかく常に部活のことで頭がいっぱいでした。授業中に教科書の下に台本を置いて覚えているのが先生にばれて、「おいw」とつつかれたこともあります。

毎回の公演準備で、作品と役に没入しすぎていたのか、役に合わせて顔や体型や声が別人のように変わっていることを家族や友人たちに指摘され、心配もされていました。男性の人数が足りず男役をやった期間には、公演を見た女性の先輩のお母様が「あの新入生の男の子、いいじゃない。彼女いないの?」と言っていたとか、一緒にプリクラを撮った親友が「ねえ、いつのまに彼氏できたの!?」と聞かれたとか、バレンタインにチョコレートをもらったりとか、そんなこともありました。

県内の進学校に進み、わざわざ部活で演劇をやろうというメンバーは全員我が強く、それぞれがプライドもこだわりも持っていたため、毎日のように意見が衝突していました。お互いにずっと指摘と言い合いを続けているような空間ではありましたが、義務教育の全員参加の舞台のような、やる気にムラがある中での活動に比べたら、天国のように感じていました。どんなにぶつかろうとも、全員が真剣で、何とかもっといいものをつくってやるぞという気合いだけは共通していた環境は、思い返せばとても幸せだったなと感じます。ストレスフルだったり寝不足だったりすることも多々ありましたが、辞めようと思ったことは一度もありませんでした。

弱小演劇部の成長に燃え、部員急増

高校の演劇部特有の文化として、「高校演劇」というジャンルの大会があります。年に1回、60分の作品をつくって発表し、全国の演劇部約2000校から「県内地区大会→県大会→広域地区大会→全国大会」と勝ち上がっていく仕組みです。1年生の時には、先輩たちが書いた脚本で何とかひとつだけ勝ち上がり、県大会までは進んだものの、それ以上に進めず悔しい思いをしました。

自分たちが出られなかった中部地区大会を観に行って、名門演劇部と呼ばれる高校の作品に圧倒されつつも、ちゃんとやればこのステージまではいける気がするなという感覚も同時に芽生えました。歴史もない、リソースもない、演劇部目当てで入学してくる生徒はゼロ、それでも、どうにか勝ち上がりたい。そんな思いで、1年目の大会を終えました。

どうしても強い部活になりたかったので、まずは自分たちが2年生に上がった時の新入生歓迎公演に、めちゃくちゃ気合を入れて上演しました。自分たちもやりたかった、かつ、新入生にウケそうな面白い作品を選び、魂を込めて稽古をしまくりました。その結果、期待していた以上の人数、10名を超える新入部員が入ってくれ、弱小演劇部がそこそこの規模感の部活になりました。やりたくても人数的にやれなかった作品がやれること、大会に向けて心強い仲間を獲得できたことに、同期一同でめちゃくちゃガッツポーズしました。

演劇部初の県代表校に

一気に増えた新入部員たちとともに、夢のまた夢だった有名なアマチュア/プロ劇団の台本を読み漁ったり、他校との合同練習をしたり、演劇ワークショップに参加したりと、どんどん新しい試みをやっていきました。校内公演でも、無料のイラレのようなソフトで写真入りポスターを編集してみたり、大きめの教室で公演をやってみたりと、規模やクオリティの向上にも挑戦しました。入部当時、かなり地味だったころの演劇部と比べると、少し違うニュアンスの存在感で、認知が広がっていったと感じていました。

大会に向け、部員全員が未経験だった脚本づくりにも取り組みました。高校生が抱く葛藤や問題意識を部員の中でたくさん話し合い、等身大の問題提起ができる作品をなんとかして作れないかと、朝から晩まで書いたり直したりを繰り返し、「こんなの変だ」という厳しいフィードバックを繰り返し、時には徹夜をしながらも、何とかして脚本を完成させました。

部員全員で脚本をつくる中で、私個人としては、議論で出た意見をセリフや構成に反映させたり、作品全体を何度もシミュレーションし、ちょっとしたニュアンスを修正したりという係をやっていたような気がします。言葉のニュアンスにこだわったり、文字列から脳内映像を再生して、見た人の体感をシミュレーションしながら全体を整えていくということを仕事の資料作成でよくやるのですが、もしかすると、この脚本作りのときにも、言葉の流れを整えていく感覚や受け取る側目線でのシミュレーション力を鍛えていたのかもしれません。

完成した脚本は、真面目な進学校らしい、クソ真面目で真っ直ぐな作品に仕上がりました。多少のユーモアや盛り上がりポイントの入れ込みを頑張ってはいたものの、完成したものを同期で読み返しながら「うちら、やっぱクソ真面目やなwしゃーないねw」と、夕日が当たる教室で苦笑いしていた光景をよく覚えています。

脚本が完成してからは、ひたすら稽古稽古稽古の日々が始まりました。教室をめいっぱいまで使い、日が落ちるまで市民会館の裏で練習を続け、家に帰れば呼吸法と立ち方のトレーニングをひたすら繰り返していました。私は主人公の配役をもらい、全登場人物と関わる立場にいる者として、作品全体のクオリティを握りやすい立場であれることに充実感を感じていました。どんな作品をやる時も、主役でも脇役でも、演出部側の役割が強い時も、とにかく作品全体のクオリティコントロールを自分の手に握っておきたいという強い気持ちがありました。

こうして気合い十分で大会に臨み、最初の地区大会では優秀賞を獲得して県大会に進出、次の県大会でも無事に入賞し、中部地区大会への切符を手に入れました。自腹では借りられるはずもない大きなホールの舞台から観客席を見る景色や、客席全体が息をのむ瞬間の静まり返った空気、部員全員で結果発表を待っていた緊張感、代表校発表とともに飛び上がって喜んだときの興奮は、とても鮮やかに思い出すことができます。

県内から選ばれたもうひとつの代表校は、県東部1番の進学校と言われている高校で、顧問の先生がかなり気合を入れて部活運営や脚本作りを主導していると聞いていました。今思えば、その高校を見習って、私たちも色んな大人に甘えてよりよい作品を目指せばよかったなと思うのですが、当時の私たちは「大人に頼るなんてずるい。私達は自力で頑張る。」というマインドで、全力の自己流で戦いに挑んでいました。

全ての時間とエネルギーを動員し、全国大会出場に挑む

そうして迎えた、初めての中部地区大会。県代表に選ばれる段階までは「このくらいのクオリティと内容があれば、勝てる」という算段があったのですが、その先の全国大会に進むレベルについては、計算不能だと感じていました。

数年分の全国大会出場作品を研究したところ、部活に命をかけてきた顧問の先生がいるとか、演劇部入部が入学理由になるような大所帯の名門校だとか、思い切り尖り切った極端なテーマの作品づくりをしているとか、出場理由が明確に説明できるものばかり。私達が持つ『真面目な優等生が、一生懸命頑張る』という特徴だけでは、どうにも不十分な感じが拭えませんでした。

全国大会に行ける学校は全部で12校。中部大会から全国へ行ける枠は2枠。結果は、全国大会常連校の大作と、高校演劇では珍しい少人数の尖ったアングラ的作品の2つが全国大会へ進出を決め、私たちは敗退しました。何か賞をもらったような気もしますが、はっきり覚えていません。結果に納得はしているし後悔もないほどやり切ったのですが、やっぱり、全国大会まで行きたかったなぁと今でも思います。悔しかったです。

その後、大会のあとに1公演、やってみたかった脚本家さんの長編作品を卒業公演でやりきり、高2の終わりに卒部しました。合格が決まっていた中学3生が何人か観に来てくれていたようで、この公演をきっかけに、次の1年生にもそこそこの人数が入部してくれたことはとても嬉しかったです。

この卒業公演を最後に、毎日必ず手元に台本を持っていた生活がスパッと強制終了しました。卒業公演を終えた日の翌日は、なんだか夢から覚めたような不思議な気持ちでした。

志望大学なし、見切り発車の東大受験

3月の卒業公演を終え、夢中になれるものが無くなりぼんやりしていたタイミングで、担任の先生から「真剣に書かなければいけない進路希望のプリント」が配られました。富山県にはいわゆる受験予備校がなく、県西部イチの進学校とされていた高岡高校では、受験大学ごとに合わせたオリジナルの受験コースを設定してくれていました。3年生の冒頭で提出する進路希望により、その後に受講するカリキュラムが全く変わってしまうため、結構重要な申告です。

ほんの少し前まで部活のことで頭がいっぱいだった私は、高3になっても大学の名前をほとんど知りませんでした。「東京にある(田舎を出たい)」「国立(学費は安い方がいい)」「男女共学(何となく女子大は偏りがありそうというイメージ)」という観点から、とりあえず難しい大学の勉強をしておけば選択肢が広がるかなぁという適当な気持ちで、第1~第3希望を全部「東京大学」で埋めて提出しました。

周りの同級生が、専門的な学部を志望していたり、特定の職業を見据えた進路相談をしていたりして、(みんなはいつのまに、自分の将来のことなんて考えていたんだろう……)とちょっとだけショックを受けたものの、考えてもすぐには分からなそうだったので、とりあえず「なるべくいい大学に行くぞ」という雑な目標設定のもと、高校が用意してくれていた「東大コース」で奮闘する受験期がスタートしました。学年280人中200番台の成績だったにもかかわらず、この進路希望をすんなりと受け入れてくれた我が母校の懐の広さは、凄いなぁと思います。

手づくりガントチャート?で、1日18時間勉強に挑んだ大学受験

やることが決まると急にスイッチが入る性格のようで、高2までやったことのなかった「予習」をやってみることにしました。初めて予習をして臨んだ授業で、「あれ?授業内容が分かる…!」と、当たり前のことに感動したことをよく覚えています。ちゃんとやれば理解できるという感覚が分かってから、膨大な予習の量や難問プリントの束も楽しいものと思えるようになりました。

少しずつ勉強の調子が出てきたころ、高校近くの書店で「難関大受験ハウツー本」をいくつか立ち読みし、中身が具体的で、かつ、自分が1年間でやり切れそうだ!と思えるものをピックアップしたのち、自習室でその本をひたすら読み込み、これから自分が過ごしていく時間を徹底的にイメージしました。その本には、「○○大学を目指すなら、テキストはこれ。この順番でやれ。」と具体的な指定が示されていたので、それをとにかくやり切るためのツールがいる!と思い立ちました。親のパソコンにあった懐かしの表計算ソフト「三四郎(Excelみたいなやつ)」を借りて、縦軸に「受験科目」・横軸に「日付」を置いた11か月分の表(めちゃくちゃ細かいガントチャートみたいなやつ)を自力で作成し、『朝6時から夜0時を勉強時間とし、その日にやるべき参考書やワークブックが、毎日30分単位ですべて決まっている』状態をセッティングしました。ガントチャートなんてもちろん見たことはないので、なぜこういう資料が必要と思ったのかは不明なのですが、謎のひらめきと確信で行動していました。

この表を完成させた翌日から、『朝6時に起き、身支度と食事を進めながら暗記をこなし、自習室が開く7時少し前には高校へ登校し、1番乗りで自習室に飛び込んで、小さなデジタル時計をお供にしながら、30分単位でノルマをこなし、終わったマスを蛍光ペンで塗りつぶし、0時になったら寝る』という日々がはじまりました。高校2年生までは、授業以外で勉強をする気なんて全く起きなかったのに、目標を決め、やり方も決め、やるべきことが分かったら、どんどん受験勉強が楽しくなり、ただただ日々の勉強に没入するということにハマっていきました。「受験当日までの予定が30分単位で決まっているから、いま30分サボれば、今日の寝る時間が30分減ってしまう。この30分で集中して、絶対に覚えるし、理解する。」という謎の執念で、我ながらなかなかの集中力をもって取り組んでいたと思います。年度初めに計画した勉強計画について、予定通りこなせなかった日は一度もありませんでした。

教室ではずっと学年トップだった同級生の隣の教卓前の席を常にキープしたり、超絶カラフルなド派手ノートを描いて映像記憶として入れ込んだり、移動時間もイヤホンをして英語や古典の単語をリスニングで入れ込んだり、いつまで経ってもわからない数学は青チャートを丸暗記したりと、「難関大学に余裕で受かる受験生」っぽいと感じたことは全部やりました。私はもともと底辺の成績だったにもかかわらず、朝から晩までそういう態度で過ごしているうちに、なぜか周りが「あの人は頭がいい」と扱ってくれるようになり、私自身もさらに調子に乗ってガリ勉モードを加速させ、いつの間にか校内模試の「成績上位者リスト」に常に名前が載るようになっていました。科目別で10番前後のあたりに、チラチラと載るようになっていたと思います。

苦しかったセンター試験と前期試験、そして執念の後期試験

これほど本気で取り組んだのですが、さすがに底辺からの這い上がりでは、厳しいものがありました。センター試験では、概ね順調だったにも関わらず、数学ⅡBでとんでもない点数を記録。東大前期は出願できるものの、後期は足切りが怪しいくらいのスコアでした。前期試験は、終わった瞬間に「あ、落ちたわ。」と分かるくらいイマイチな出来だったので、二次試験の会場を出た瞬間から、速攻で後期対策に取り掛かりました。

「東京にあって、国立で、共学で、私のセンター試験の点数で後期試験が足切りにならない大学の願書、余っていませんか。」と尋ねたところ、たまたま先生が渡してくれたのが、一橋大学の入学願書でした。受験を取りやめた誰かが、職員室に寄付してくれていたようです。学部紹介を見てみると、選べるのは「商学部」「経済学部」「法学部」「社会学部」の4つ。「商売や経済には別に興味がない。法学部に行くと進路の方向性が決まってしまいそう。社会学部はよく分からないけど社会の仕組みとかが学べて面白そう。よし、社会学部にしよう。」そんな、あまりにも雑な判断で、のちに母校となる受験先を10分ほどで選択しました。緊急で致し方なく下した判断になってしまったと思っていましたが、この時に考え込まずに直感で判断したからこそ、熟慮していては選ばなかったであろう、自分の価値観や感性に合う学部選択ができたとも感じています。

浪人するわけにいかない状況があったので(後述)、前期試験が終わってすぐ、本屋に駆け込んでベストと思える参考書を買い込み、受験科目の小論文と数学と英語の赤本を、丸暗記する勢いで1日で読み終え、後期試験当日までの2週間分の計画を急いで立て、再び1日18時間学習に没頭していきました。勉強時間の合間に確認した前期試験の結果は、予想通り不合格。何だかんだでショックはありつつ、「やっぱりね」とさっさと納得し、後期試験の勉強に集中するようにしました。最後の追い込みの結果、なんとか一橋大学の社会学部に合格することができました。

第1志望は叶わず悔しい思いもあったものの、高校2年生終了時点の底辺レベルの成績からは考えられない結果を出すことが出来、大学受験はまずまずの満足度でした。このあたりで、限界までハードワークをしてこそ結果が出る、それができない活動ならやる価値がない、という信念体系の基礎が確立したようにも思います。

一刻も早く地元から消えたい、と思いながらの受験期

大学受験期が始まる頃、三世代同居をしていた実家において家庭内不和が強まり、まともな会話が成立しない環境が常態化していました。

実家を出たことのない末っ子長男の父、その父をいつまでも子供として溺愛し世話し続ける祖母、共働きの中で嫁業を求められながら姑に妻の役割を奪われたように感じている母、父母のプライベート空間にズカズカと入り込む父の姉たち、が完全に対立し、会話の無視やヒステリックなやりとりが日々エスカレートしていきました。会話とも呼べない、ぎこちないやりとりと沈黙が交わされる中、食卓で箸が折られたりカップが割られたりし始めたときには、さすがに混乱しました。一人っ子という立場もあり、誰の味方をすればいいか、敵になればいいかも分からず、誰に相談したらいいかも分からないまま、「私は無愛想な娘であるということにしよう」と設定を決め、あらゆることに無反応で乗り切ることにしました。

勉強があるからと基本的に自室にこもるようにしていましたが、ある日急に「もう無理だ」と感じ、最低限の荷物を持って母方の祖父母の家(幸い、高校近くに立地)に駆け込み、居候をさせてもらう生活が始まりました。その後、私を追いかけるようにして、母も母方の家に住むようになっていたと思います。母方の祖父母宅での生活は、大学受験が終わるまで続きました。子育てもとっくに終わったはずの祖父母にとって、この展開は予想外のことで、大きなストレスだったと思います。

前期試験の不合格がわかった夜には、泥酔した酒乱の祖父にボロクソに罵倒され、「頑張りが足りないからだ」「もう出ていけ」と何度も言われ、裏道まで出て行ってみれば「勝手なことをするな」と怒鳴られたりしてパニックになりかけるという一幕もありました。祖父は、寝て起きるとこのことを覚えていなかったようで、結局受験が終わるまでは、母方の祖父母宅に居させてもらうことができました。

後期試験の結果を携帯の画面で確認し、自分の番号を見つけたときは「やっとここから抜け出せる」という気持ちでいっぱいでした。とにかく、名が知れているらしい大学に受かり、ある程度格好がつくような形で、地獄だと感じていた地元の環境、実家の環境を離れられるということがただただ嬉しくてたまりませんでした。

【大学生(1~3年生)】

ぼやぼやとスタートした、東京西部のちょっと垢抜けない大学生活

東京に出ることに必死すぎて、入学する大学が文系のみの大学であること、旧商科大学という商学部が有名な大学であること、学年1000人の小さな規模であること、女子学生が結構少ないこと、東京西部ののどかな立地であることを、入学してから知りました。あまりにも何の目標も持っておらず、「何に一生懸命な4年間にしようかなぁ」とぼんやり考えながら大学生活がスタートしました。

大学でも「一生懸命やれるもの」を求め、まさかの体育会競技ダンス部に入部

新歓期には、美術部や演劇サークル、その他いくつかの団体を見て回りましたが、サークルならではの本気で何かを極めようとしてなさそうな雰囲気や、「男子がプレイヤー・女子がマネージャー」という「男子が主役」感のある体育会はどうしても嫌で、なかなかしっくりくるものが見つかりませんでした。そんな中で、たまたま声をかけてもらったのが『体育会競技ダンス部』でした。

初めてダンスのデモンストレーションを観たときは、先輩方がとても格好よく、表現することがとても気持ち良さそうだったのが印象的でした。身体を使う競技をやることについて苦手意識はあったものの、「部員は全員未経験!誰でも歓迎!」という先輩のトークを間に受け、今やれば苦手意識のあったダンスができるようになるかも…との期待が高まっていきました。何度か体育館と飲み会に通ううちに、気付けば入部が決まっていました。

「全員未経験」のはずが、スポーツや舞踊経験者との能力差に大ショック

「全員未経験だから、スタートは同じ」と聞いていましたが、実際に入部してみると、元新体操部員やバレエ経験者、運動部でバリバリやっていた人など、ダンス技術や身体能力に秀でた同期がたくさん入部していました。当初は週2と言われていた練習頻度も、実際は週6-7というハードなもの。体育の授業以外でまともに運動した経験がない私は、練習会メニューの筋トレについていくだけでも必死で、習い方や反復練習のやり方も下手くそでした。先輩に教えてもらった技術もなかなか身についた実感がなく、練習会での笑顔と声出しだけは必死にがんばっていたと思います。身体の使い方を競技に合わせて向上していこうとするときに、どんな風に習い、自分で反復し鍛錬していくことが必要なのかについて、感覚として理解するまでにはかなりの時間を要しました。

同期の男女比は男子<<<女子、同期ではなく先輩とペア結成

大学の競技ダンス部連盟(通称「学連」)では、2年生時に同じ部内の同学年同士固定のペアを組んで連盟に選手登録をすることとなっており、その固定ペアを組まない限りは競技会に出ることすらかないません。その後はどちらかが退部しない限りは、同ペアで競技会に出場することになっています。私の学年は男女比が1:4ほどで、私は同学年でのペア結成には漏れたのですが、その後1学年上にペア解消をした先輩がいたことで、その先輩と組んで競技会への出場をすることが出来るようになりました。

ペアを組むことが決まる時期の手前で、部活を続けるかどうかを悩んでいたこともあり、組んだ当時の私は基礎的な技術も不十分で、技術の積み上げからやり直さなければならない状況でした。そんな状態の私に対して、ダンスパートナーは全く怒ることもなく、ひとつひとつ丁寧に練習していくスタイルを許容してくれていました。ダンスの技術は、ひとつひとつの基礎的ムーブメントを繰り返したり、筋トレやアイソレーションで身体開発を重ねたりということを毎日やっていってはじめて、ある日ほんの少し上達したことを実感するという世界で、その積み重ねを適切にやって来れていなかったことを、このときに心から後悔しました。

なかなか予選より先に進めない時期が続きましたが、固定ペアを組んだという責任感もあってか、少しずつ「あれ?上手くなった?」と言ってもらう機会も増えていきました。しかし、入賞常連の先輩や同期を見ると実力差は圧倒的で、次元が違うステージにいるということを感じながらも、何が足りないのか、どうすれば追いつけるのかが全くわからない状況が続きました。

2年生、はじめてドレスで競技会に出た時。前列真ん中の紫色の人が私。

7組中4組という、部内での全国大会出場枠争い

最上級生が出場する競技会は各校ごとに出場枠数が決まっており、部内で選抜されなければ、種目数が減ったりそもそも出場できないことになったりという戦いでした。最後の全国大会は同じ専攻から4組しか出られないので、その手前の競技会の成績で、部内4位に入らなければ最後の大会に出られないという状況でした。その学年には、全国優勝レベルのペアが7組いたので、私たちペアが最後の大会に出るには、4枠目を下剋上で勝ち取るしかありません。そんな状況でしたが、ペアを組んだ先輩とともに「全国大会に出る」と決め、改めて練習に励むことにしました。

全国大会出場権を賭けた2試合で、私たちは1試合目ははじめての準決勝へ進出、もう1試合ではギリギリ最終予選まで残ることができました。他のペアが出場した種目が激戦化したり、諸事情で継続が困難なペアがでたりと、さまざまな要因が重なった結果、私たちが部内4位の成績を取ることとなり、奇跡的に全国大会に出場できることが決まりました。

この過程で練習とトレーニングをやり過ぎたようで、この頃には「筋肉つき過ぎ、そろそろ女じゃなくなるよ。」と言われるほど気合が入っており、もう悔いはないと言えるほどの追い込みをやれていたと思います。それでもやはり、憧れの全国大会に出られると分かった時は、信じられないような嬉しいような気持ちでいっぱいでした。

念願の全国大会出場、結果は……

出場が決まってから3週間、全国大会当日までは、ひたすら練習に練習を重ねました。あっという間に時間は過ぎ、気づけば競技会の当日を迎えていました。気持ちを昂らせながら丁寧にアップをし、ヘアメイクも整え、1次予選本番のフロアで全力でパフォーマンスをした、はずが、2次予選進出に1ポイント足りず、結果はまさかの1次予選敗退。次はここに気をつけよう…と考えながら結果の張り紙を見に行ったので、「まさか…」という気持ちでした。

「予選で落ちるようなパフォーマンスじゃなかったよ」とか「同じフロアに、有名な人が集まってしまって残念だったね」とか、色んな励ましをしてもらいましたが、それらの言葉だけではショックと申し訳なさは癒えず、打ち上げの間も号泣と放心を繰り返していたと思います。こんな結果に終わったにも関わらず、ただただ穏やかに「組んでくれてありがとう。楽しかった。お疲れ様。」と言ってくれたダンスパートナーには、本当に感謝の気持ちしかありません。

こうして、私の学連選手生活は、同期よりも1年早く終わりを告げました。

男女トラブル全部盛りのような部活で、なぜか相談役ポジションに

競技ダンス部は、体育会では珍しい男女ともにプレイヤーの部活であり、学生連盟に登録した固定のペアで競技会に出場する決まりがある中で、プライベートでの「付き合った、別れた、浮気した」が入り乱れているような環境でした。男女トラブルは日常茶飯事で、飲み会の隅で誰かが泣いていたり、体育館で気まずい雰囲気が流れていたりすることもしょっちゅう。大学生時代に発生しうる一般的な男女関係のトラブルは、一通り目撃したのではないかと思っています。

部内外で何か男女の話が拗れたとき、例えば三角関係が起こった時に、私が三人それぞれから相談を受け、とにかく各自が落ち着くまで個別に話を聞いてあげるというようなことがしばしばありました。恋愛体質強めな女子から「私の代わりに、彼氏の話を聞いてあげてほしい」とサシ飲みを依頼されるなど、私にそういう依頼をしても間違いは起きないだろうという、謎の信頼?を得ていました。部内でのスキャンダルが特段なかったのと、この頃から今のパートナーと安定した付き合いをしていたのも安心材料になっていたのかもしれません。

男女トラブルの仲裁は、一般的には面倒なシチュエーションだと思います。でも、そういう中でひとりひとりの話を聴いて、各自が答えを出せる状態になるのを待ってあげる時間は結構好きで、私としては結構楽しい気持ちで対応していました。

卒部の日。真ん中あたりちょい右側の白いロゴTが私。
競技ドレスを改造したり、アクセサリーを作ったりするのが好きだった。貸し出したり、後輩のために作ったりもした。


卒部後も学内にいたので、後輩たちを家に呼び、食べさせ飲ませまくる会をよくやっていた。「料理できなそう」とよく言われるけど、人のためにご飯を作るのはめちゃくちゃ好き。


授業は割と真面目に出席、レジュメや出席を代行する係

競技ダンス部は練習がハードな体育会ということもあり、授業に出ない人も多かったのですが、そんな部に居た割にはまじめに授業に出ていました。同じ授業をとっている部員の数を把握し、その人数分のレジュメを取り、出席も代わりに書くなどをし、テスト時期にちょっといい食事を奢ってもらうということをやっていました。特に1年生のうちは、部活も授業もどちらも中途半端な感じといえば、そうだったかもしれません。単位だけは着々と取っていました。

大学という場所を考えれば当然なのですが、「社会学概論」などの基礎的な講義であっても、教授の思想や研究分野がかなり色濃く反映されており、基本的な体系や理論の全体像を理解したかった自分にとっては、少し違和感がありました。飛び地的に、いわゆる左派的な偏りがある形で知識が入ってくる学習環境の過ごし方は、なかなか難易度の高いものでした。

【就活生(学部)】

姿勢が定まらない就活、「嘘の志望動機」を語り続けるつらさ

部活中心の生活を送っていた、3年生の秋。気づけば学内に「会社説明会」の看板やチラシが増え、見知った同期がスーツを着ている姿もちらほら見かけるようになりました。業界研究?企業研究?OBOG訪問?志望動機??やりたいこと??あらゆる概念が全然頭に入ってこないまま、いつのまにか就活が本格化していきました。

「業界も製品も文化もビジョンも全く違う企業を数十社ピックアップして、通ったところに入る」という新卒就活の仕組み(※当時はそういうふうに見えていた)がピンとこず、学内に来ている説明会に適当に出席し、志望動機が書けなくもない企業を適当にピックアップし、エントリーシートハウツー本を読みながらエントリーを繰り返しました。

仕事として何がやりたいのかは全く不明、自分が企業においてどう役に立つのかも不明で、正直言って何をしているか全くわからない状況でした。大学は卒業の時期がやってくるし、仕事を見つけなければいけない。せっかく受験を頑張ったんだし、新卒カードは生かさなければ。就活に対するスタンスはそんなレベルでした。

実際に選考が始まってみて、楽しかったのは、勝ち方が分かった「グループディスカッション」ぐらい。自分が目立とうと意見を言いまくるだけのグループメンバーの様子をしばらく傍観し、話が脱線し議論が崩壊したあたりから話の道筋を修正し、最終的な結論をホワイトボードにまとめるというポジションを確立することで、とにかくグループディスカッションのステージだけは100%突破していたと思います。

そんな攻略法を編み出したところで、自分の進路がブレブレでは何の意味もありませんでした。個人面接で話す内容も他人の言葉を並べたような内容にしかならず、ただひたすら虚しい気持ちで都心の面接会場に通い続けていました。

最終面接の意思確認でYESと言えず、就活終了

そうしていくつかの企業を受けていく中で、とある大手保険会社の営業職の最終面接に進むことになりました。多分、面接ではなくディスカッションのステージが多かったんだと思います。世間で名の通った企業だし、福利厚生の良さに定評があるし、年収も高い。「この会社に入れたら将来安泰」となるんだろうなと思いながらも、最終面接会場に近づくにつれ、気分はどんどん悪くなっていました。

今思えばひどすぎる就活生だなと思うのですが、業界や職種に関する理解が全然ないままで就職活動に臨んでしまっていたので、最後の面接会場へと歩みを進めながら、(保険を売るって何?一生ずっと同じような商品を紹介し続けるってこと?それ楽しいの?何のために?それを一生続けて定年まで行って納得できる?)と、あまりに失礼な自問自答を繰り返しました。

そんな状態で臨んだ最終面接の終盤で、物凄く偉そうなオジサマ社員から「内定を出したら、必ずうちの会社に来ますか?」と問われたときに、「え、いや……」と素直に躊躇して黙り込んでしまったときの、面接会場の凍り付いた空気だけが鮮明に記憶に残っています。当然、その最終面接は不合格。せっかく選考を進ませてもらったのに、時間をいただいたのに、失礼なことをしたな……と思いながらも、心から喜べない選択肢が目の前から消え去ってくれたことに、いったん安堵するような気持ちもありました。

4年生の4月という、大学生にとって貴重な1ヶ月をすっかり無駄にしたことで、ようやく「ちゃんと進路を考えよう」という気持ちが芽生えはじめました。これ以上ずるずると就活をしても、自分が納得できる進路選択ができそうにもないなという感じだったので、とりあえず大学院への進学をして、少し時間をかけて進路を考えることにしました。いわゆる「5年生」をやる選択肢もあったのですが、学部の延長だとダラダラしてしまいそうな感じが嫌だったのと、自分の中にあった優等生マインドが「留年」という概念を断固拒否したため、何となく格好がつきそうな「進学」という選択肢を取った部分もあったと思います。

社会学部からの素直な進学先である社会学研究科も一瞬は検討しましたが、社会学部における学びを面白いと感じながらも、課題を指摘した先に「じゃあ、どうするか?」という話まではできない感覚に物足りなさを覚えていたことと、研究者という「特定の狭い領域をとことん究めていく」というスタイルは自分にはできなそうだと感じたことから、「課題のその先」を考えることが出来、実務家的な職業選択に繋がりそうな気がした『公共政策大学院』を受験することに決め、無事に合格をいただくことが出来ました。

【就活生(大学院)】

モラトリアム的大学院生活のスタート

無事に大学院進学は果たしたものの、就活の方針については、どう定めたらいいかわからないままでした。私が入学した公共政策大学院は、できたばかりの専門職大学院ということで、ガッツリ研究をするとか高度な専門知識を獲得するというよりは、法学部と経済学部がミックスしたような環境でした。本気で学びに来ている社会人枠の皆様を除けば、就活や公務員試験の再挑戦に向けた猶予期間のように過ごす学生が多かった気がします。

霞が関インターンへ応募、「運命的な出会い」

そんなゆるいモードの中、これからの進路方針を定めるきっかけになったのが、1年次の夏に募集が来ていた「霞ヶ関インターン」です。大学院入試で書いた研究計画のテーマが、生活者としての解像度が少しだけあった高齢者介護についてだったので、とりあえずそのテーマに沿った志望動機を書き、3つほど希望の省庁名を書いて応募しました。その応募について、たまたま拾ってくださったのが、第2希望に記載していた総務省(地方自治分野、旧自治省)でした。社会保障の文脈で色々と書いていたつもりの文章の中に、総務省が推し進めている地方分権の思想ががっつりと入っていたため、人事の方が「ウチに合うのでは」とピックアップしてくださったそうです。たしか「各地方で課題が異なる状況に対し、地域自身で答えを出していくことが必要」「日本のどこに生まれても、悔いなく人生を全うできる環境づくりに寄与したい」というようなことを書いていたような気がします。

自分なりに素直に書いた問題意識を受け止めていただけたことで、課題感に対して真っ直ぐに取り組める公の仕事に強い関心を持つようになりました。実際のインターン期間において、自分の考えを一生懸命にお話ししたところ、「そういう問題意識が大事!」「その考えなら、うちに来るしかないよ!」という反応を多数いただき、そんなやり取りを重ねていくうちに『運命だ!ここに入る!』ということを心に決めていました。

1週間のインターンでこうして気持ちが固まってしまったので、その直後から、公務員予備校の授業をこなし、自習室でカンヅメで勉強し、合間に省庁説明会に参加するという日々が始まりました。大学受験のときに「もう試験は嫌だ…」と思っていたはずなのに、大学院受験と公務員受験をしてしまっている自分に、苦笑するような気持ちでした。

I種試験は不合格、それでも気にせず志望省庁へ

総務省に対する猛烈な愛があったので、大学受験を超えるレベルの気合いを入れて勉強をしたつもりなのですが、ひとつ目に受けたI種試験(いわゆるキャリア試験)は筆記試験の段階で不合格となってしまいました。官庁訪問にすら行けなくなってしまったので、インターンでお世話になった先輩に報告と詫びを入れ、このまま二種試験(ノンキャリア試験)を受けますと連絡をしました。

Ⅰ種とII種では、入省時点から出世ルートが大きく異なり、また、非公式の職員名簿やコミュニティとしても全く別のグルーピングがなされています。インターン時代にお世話になった先輩方は全員キャリア組の方々だったので、「もう1年浪人して、試験を受け直した方がいい。」と言われたりもしましたが、I種の筆記に落ちた時点で、職種にこだわる感覚は不思議と湧いてきませんでした。総務省を志望する理由は自分の中でほぼほぼ固まっていると思っていたので、二種採用の面接に行き、問題意識と志望動機をまっすぐに話して、受け止めてもらえたならそのまま就職しようと決めました。

そのスタンスで面接に臨んだ結果、ありがたいことにするすると進み、早々に内々定を出していただくことができました。当時の自分として、十分に腹落ちした志望動機を話した上で受け入れていただけたと感じていたので、違和感のない職場選択ができたことを嬉しく思い、また、安堵してもいました。インターンからお世話になっている大好きな先輩方との距離ができてしまうかもな…ということが唯一の心配事だったのですが、実際に入省したあとは職種の違いを超えたお付き合いをいただき、皆様の柔軟さをとてもありがたく感じました。

離島勤務希望でドン引きされた、都庁試験の思い出

余談ですが、私はこの年、国家公務員試験と並行して、東京都庁の試験も受けていました。都庁の試験では、最終面接まで進んだ時に必ず聞かれる質問として「離島勤務がありますが、希望されますか?」というものがあります。仕事でいろんな場所に行き、いろんな経験をしたいと考えていた私は、当然のように「はい!ぜひ行きたいです!」と即答したのですが、試験官全員から「え?本当に……?」という反応をされ、そのリアクションが予想外すぎて衝撃的でした。その後、研究室の同期に「都庁を受ける女性で、離島に行きたい人は居ないでしょw」と言われ、ようやく多数派の考えを理解しました。

最終合格はいただきましたが、こういうやりとりがあったことで、就職先候補からは外すことにしました。勤務地や居住地を限定&固定することや、大きな変化のない暮らし方こそが素晴らしい!という空気の中で生きることは、自分にはあまり向いていないのかもなと実感した出来事です。

修了式にて。就職が楽しみで、修了させてもらえたことに安堵。

【社会人①(公務員時代:総務省&佐賀県出向)】

初配属は「消防庁」、エリート消防士たちとの賑やかな日々

1年目は、ちょっと意外な「消防庁」への配属でした。消防庁は総務省の外局という位置付けなので、地方自治分野(旧自治省)採用の人間が普通に配属されることになっています。入省までは地方自治分野のことばかり想像していたので、予想外の配属でした。「必ず女子が配属される」と言われていた人事担当の席もあったはずなのですが、同期に女子1人だった私はなぜか配属されませんでした。採用面談でだいぶ暑苦しい奴だったと思うので、直接所管事業に関わる仕事をさせるのがいいと思ってくださったのかもしれません。

消防庁は、全国各地の消防本部で活躍してきた幹部候補の消防士の方々が事務官として派遣されており、彼らが職員全体の1/3ほどを占めています。肌の白い細身の公務員たちが集まる合同庁舎の中で、スーツの腕と胸周りがパツパツになっている消防士たちが行き交う消防庁のフロアは、他とは違う陽の雰囲気がありました。

消防庁では総務課の会計係に配属となったので、予算執行の入力や財務省への予算協議資料の準備など、1年目にしてはけっこう面白い仕事をやらせていただいたと思います。東日本大震災の年だったため、復興予算の執行なども担当させていただき、災害時にどのように予算がつき、どのようにお金が流れていくのかということも興味深く学びました。

総務課の立場上、事業を持っている各課の担当さんとの確認や調整が必要だったのですが、「総務課は、面倒ごとを持ってくる」ような印象を持たれている雰囲気を感じたのが嫌だったので、とにかくいちいち各課の担当さんの席まで行き、対面で丁寧にコミュニケーションを取りながら仕事をするようにしていました。相談する内容は、電話やメールでも済みそうな資料の確認依頼とかだったと思いますが、内線をかけてから話しに行って、色んな人と仲良くなっていくことがただ単純に楽しかったです。

大学時代に、体育会で上下関係を叩き込まれていたこともあり、ノリが良く情に熱いベテラン消防士の皆様とのコミュニケーションはとてもやりやすく感じていました。各地からの出向者の方々は「限られた出向期間に、東京を満喫する!」という気合いの入った方が多く、築地での朝食会やランチ会、フットサル、マラソンなどたくさんの企画をされていたので、とにかく片っ端から参加して仲良くなるようにしていました。こうした職場の集まりに、義務感で参加したという感じは全くなく、ノリのいい皆さんとともにストレスなく楽しく過ごせた1年は、ただただ楽しい時間でした。レジャーの時間はずっとふざけていてうるさいのに、たまたま事故現場に遭遇した時などに「大丈夫かな?」とスイッチが入る様子は、さすがプロだなと感動しながら見ていました。

採用パンフレットに載ったときの写真。新卒の24歳には全然見えないと言われていた。
これもパンフレットに載っていたやつ。フットサルは全然できなかったけど、楽しかった。
消防庁での任期終了後、消防士の皆様と再会した時の様子。

2年目、いきなりの激務

2年目のはじめに異動となり、今度は財政局にある公立病院の担当になりました。それは、2年生が配属されるポジションの中でいくつかある有名な激務席のひとつで、「ハードワークこそが偉い」という霞ヶ関カルチャーに染まりまくっていた私は、「やった!激務席だ!私は評価されている!」とテンションが上がっていました。

公務員の仕事は事務分掌が明確なので、切り分けられた仕事は自分で勉強して自分でこなし、その上で上司に報告、確認してもらうというプロセスでの仕事の流れになっていました。私が担当したのは、各病院の整備や機器購入に関する資金調達に関する資料の確認や年次の全国調査の取りまとめで、各種の法令、QA集、過去の事例、多忙な中で作成された引継書をぐるぐると順番に確認し、階層性が複雑で読みにくい文書に?を飛ばしまくりながら、どうにか仕事を進めていきました。1年目はマニュアルと引継書通りに作業をこなすか、専門分野に詳しい人に相談すれば仕事が完了したのですが、2年目ともなると「自力でキャッチアップし、情報を整理し、締め切りまでにきちんとこなして報告する」ことが求められ、当時の自分にとってはなかなかハードでした。公立病院や資金調達に関する用語が初見のものだらけだったことに加え、実務的な意味が取りにくい法令や内規を理解しながら進めなければならず、完璧主義なところがあった私は、調べても調べても理解が完結しない無限ループに陥っていた気がします。

当時、私の仕事に対する姿勢は「自分がちゃんとできているか」ばかりにフォーカスが当たっていたため、上司が気付いてくれたミスの指摘やアドバイスを前向きに捉えることができない日々が続きました。正確な仕事、いい仕事をするために声をかけてくださっていただけなのに、私は「またやってしまった」「何か言われるのが怖い」という受け止め方をしてしまっていました。当時の上司は私のことをすごくよく見てくださっていたし、気遣ってくださっていたし、本当は仕事ぶりも評価してくださっていたのに、当時の私は勝手な完璧主義に陥り過ぎて、そんなことには全く気がついていませんでした。「大丈夫?」と助け船を出してくださった時すら、「私がちゃんとしていないから、心配されたんだ。ごめんなさい。」と思ってしまっていました。

そんな精神状態で過ごしていたことと、慢性的な睡眠不足もあり、5ヶ月が経つ頃にはお腹と脚全体に帯状疱疹が出始めました。それでも「ちゃんとしなければ!頑張らなければ!」という思いが先行していたので、別に頭は動くし、見えるところに発疹は出ていないし、まぁいいか…とスルーしていました。省内の診療室で時々塗り薬をもらいながら、終電かタクシーで帰る日々を続け、睡眠不足が限界の朝は自腹でタクシー出勤をして車内で仮眠をとる日もありました。ちゃんと業務遂行できているのかという不安を抱えながら、限界ギリギリまで頑張っている自分というあり方を唯一の安心材料としてしまっていたのは、本当に異常だったと思います。


真夜中の合同庁舎2号館。この感じが当たり前だった。久々に見ると、なかなかの雰囲気。

異動から半年で、出向研修に呼ばれた

2年目の職員は、入省1年半か2年のタイミングで、どこかの県庁へ出向派遣されることが決まっていました。私は院卒で年長者だったこともあり、10月出向組の研修に呼ばれました。

研修に呼ばれた当時は「まだ対応中の仕事があるのに、異動したくないな…私の実力不足かな…悔しいな…」などと思っていましたが、今振り返ると心身がかなり限界を迎えていたはずなので、このとき出向するメンバーに入れてもらえたことで生き延びたと思っています。人事の皆さんも、死にそうな顔をしているのを見てくださっていたのかもしれません。

1週間ほどの研修を終え、言い渡されたのは「佐賀県」への出向でした。「異動希望に書いたこともない。何があるのかも分からない。めちゃくちゃ地味そうな県だけど、大丈夫かな……?」今でこそ大好きすぎる故郷となった佐賀県ですが、出向前はそんな失礼なことを考え、周囲に不安を吐露してしまっていたことをここに告白します。

未知の地、「佐賀県」への赴任

佐賀県で最初に配属されたのは、国と市町村の橋渡し役のような市町支援課という部署でした。決まった業務を粛々とこなす業務が多く、霞が関に居た頃には考えられないような、驚くほどまったりとした日々がはじまりました。

赴任した初日の夕方、優しさのかたまりのような係長に「17時15分やけん、もう帰ってよかよ〜」と言われたときには、不夜城だった霞が関との文化の違いに衝撃を受けました。日が高いうちに退庁できてしまうし、土日を体力回復に充てなくてもいいだなんて、この時間をどうやって使おう…と、はじめての「時間の余白」に戸惑いましたが、総務省入省時から心待ちにしていた「地方を知る」ための時間を得られたことをとても嬉しく思いました。

まずは、なけなしの給料のほとんどは地元の飲食店に使い、前任者より引き継いだ、佐賀県赴任者に代々受け継がれる「佐賀のおすすめ飲食店リスト(Excel)」を充実させていくことに夢中になりました。いまも続く旅好き、ローカル好きの価値観は、このときから芽生えているのだろうなと思います。

「人の顔が見える仕事」の魅力に気付いた、地方創生の仕事

佐賀県出向から約4か月後。国において「地方創生」の動きがはじまったことに伴い、全国の都道府県庁において地方創生を所管する課が創設されることになり、私もそこへ異動させてもらえることになりました。総務省出身のエネルギッシュな知事が新たに当選されたタイミングとも重なり、フレッシュな空気の中で新たな流れを作っていこうという空気も感じながらの異動でした。

最初に与えられたミッションは、「国から佐賀県に数億円の地方創生のお金が来る。それを財源にして、県内で新しいことをやりたいと思っている人たちのチャレンジを応援する仕組み(チャレンジ補助金制度)をつくるように。できるだけ、県主導ではなく現場手動で予算を使うこと。」というもの。新知事からこうした指示を受け、過去の県補助金制度の仕組みを研究し、募集要項、応募様式、募集用の通知、審査基準などをひととおり作成しました。

かつてないほどに好条件かつ低ハードルな制度だったことから、当初は広報に苦労した時期もあったものの、情報が広がってからは約300件の応募が殺到。申請書に設けた項目は「課題」「事業内容」「期待する成果」というシンプルなものだったのですが、日本語として読めない、ロジックが通っていない、予算書との整合性が全く分からないものが大量に届いてしまいました。県として「1件でも多く、1円でも多く支援すること」という方針だったことと、せっかく意欲があるのに断念してほしくないという私自身の思いがあり、申請書類のひとつひとつに深夜〜朝まで「赤ペン先生」をする日々が始まりました。

拙い文章のひとつひとつをしっかり読み込みながら、これは何を言いたいのか?この人は何をやりたいのか?何がどう書いてあれば論理が通るのか?と脳内再生を繰り返し、どの範囲なら予算をつけられるのか?を、1枚1枚の申請書類について必死に考えました。査定というよりは丁寧な添削をして、「こう直していただければ、こんな風に予算を付けられます!直してください!」と市町経由で事業者さんへお返ししていたのですが、落とす前提ではなく通す前提での対応をしたことが、市町の各担当者さんとしては驚きだったようです。この対応をして以降、市町職員や事業者の皆さんと初めてお会いするときには「あ!赤ペン先生の人ですね!」と認識されることがよくありました。県職員の立場では、不十分な内容の補助金申請を不採択にすることは簡単でしたが、私が1つサボるたびに1事業者さんの挑戦の芽がつまれると思うと、どうにも手を抜くことができず、その執念も伝わっていたような気がします。添削した資料はどれも真っ赤で、フリクションの赤ボールペンを何本消費したかわかりません。この審査(添削)をしていた時期は月150時間くらいの残業をしていましたが、やらされ感がない環境だったからか、心はとっても元気でした。

事例集を「誰も読まない冊子」から「事業者さん自身が読み返したくなるもの」へ

徹夜続きの赤ペン先生期間を終えたのちは、支援先の事業者さんの現地取材に回るという、幸せすぎる日々が始まりました。「地元のために、これをやりたい」という想いの形があまりにも多様で、その活動のひとつひとつを見せていただけることがとても幸せでした。

様々な新しい取組みを支援する制度ということで、年度の最後に「優良事例の事例集をまとめる」というミッションも与えられていました。総務省時代にも事例集的なものはたくさん目にしていたのですが、かなりのボリュームがあるものの、一体誰が読むんだろう?誰のためになるんだろう?つくることが目的になっているのでは?という違和感を感じていました。そこで私は、上司に対し「行政っぽくない事例集でもいいですか?誰でも読めるようなパンフレット型のものを企画したいです。デザイナーさんと連携して、撮影と取材とライティングは全部私がやります。」と提案。前向きで優しい上司は「うん、よかよ〜」と即快諾してくれました。

そこから、各市町の担当者さんに相談した上で掲載事例を決定し、各事例を1件1件取材してまわりました。活動の背景、内容、苦労したこと、やってみてよかったこと、これから先に目指すことをたっぷりと伺った上で、どんな言葉で表現したら良いのかを執務室でうんうん唸りながら考えました。ライティングの経験は全くなかったので、お話をしてくださった皆様が見ている景色を何度も脳内再生し、その景色が言葉からも再生できるように言葉を並べ、数日寝かせてからブラッシュアップし…ということをひたすら繰り返しました。なかなか言葉に落ちない時は苦しかったりもしましたが、「これしかない」という文字列が書けたとき、それを再度見返して「めちゃくちゃいいじゃん」と自画自賛するときは、とてつもない満足感を感じていました。いい文章やコピーが書けたかどうかの判断基準は、事業者さんご本人たちがそれを読んだときに、自分の取り組みの素晴らしさを、もう一段高い解像度で体感してくれる様子が想像できるかどうか。確信を持ってそんな姿を想像できた時は、とてつもない幸福感を感じていました。

こうして作り上げた事例集は、掲載された事業者さんから「私たちって、こんなに素敵な活動をしていたんですね」「自分たちでは気付かなかったけど、言われてみればその通りです」「活動を続ける自信になります」などの声をいただき、ご自身の活動の要点や価値について、改めて噛み締めてくださっている様子が見てとれました。そういう姿を見られたことが、自分にとって何よりのご褒美でした。この頃から約10年が経ったいまでも、事業を続け、発展させておられる様子を聞くと嬉しくなります。

事業者の皆さん、市町の皆さん、県の立場にとって、全員が「いい」と思える情報の拾い方をしたかったので、それが概ね叶えられ、期待していたリアクションを確認できたことで、自分としては大満足でした。知事もこの冊子を気に入っておられたそうで、県内各地を訪問する際に活用してくださっていたそうです。この事業から数年経ってから知事室に遊びに行った時にも、冊子を手元に置いてくださっている様子が見え、ご自身の指示の成果を実感いただけたようで嬉しく思いました。

勤務開始当初、県と市町の「仲の悪さ」に衝撃を受ける

地方創生の仕事がはじまったころ、まず最初にショックを受けたことがあります。それは「市や町の職員さんは、基本的に県の新規事業をウザいと思っている」という事実でした。ある市の担当さんへ新事業に関する協力のお願いの電話をした時は、「県の事業でしょ?どうして、市でやらなきゃいけないことがあるんですか?県でやってくださいよ」といきなり怒られてしまいました。地元事業者さんのためになる!と喜んでもらえることを想定していた私は、電話を終えたあとにショックで呆然としてしまいました。

考えてみれば当然で、市や町の職員さんには「私たちこそが、一番現場の近くで地域課題に向き合っている」というプライドがありますし、そもそも各自治体の事業のお仕事で日々忙しくされています。それに対し、20の市町に対して共通する事業を企画し、一方的に協力を求めてくる県は「現場もまともに見ていないくせに、理想論で仕事を押し付けてくる存在」として見られてしまっているようでした。「公務員は全員仲間!想いは同じ!」というお花畑すぎる認識をしていた私は、思い切りぶん殴られたような衝撃を食らいました。

でも、このままは嫌!プライベートで「県と市町と地域をつなぐ」活動に夢中に

そんな「県vs市町」な構図にモヤモヤとしている中、たまたま声をかけてもらった研修が「県職員と市町職員が混ざって、各自治体が持つ施設の活用方法を考えてプレゼンする」という内容のものでした。新事業のお願いで怒られた記憶からこわごわしながら参加したのですが、各職員さんの議論の真剣さや熱いプレゼンに触れていくにつれ、いつの間にか、その真っ直ぐな姿勢に惚れ惚れしていました。

研修後の飲み会でいろいろと話をしてみると、どの立場の方も、地元をまっすぐに愛する実直な方々ばかり。「何だ、やっぱり想いは同じじゃん」ということを確信しました。その時のご縁をその場で終わらせたくなかったので、その場で出来る限りの方にFacebookで繋がってもらえるよう声をかけまくったと思います。その後、研修を主催していたポジティブな県職員の先輩に相談しつつ、お互いのまちづくりの現場に遊びに行ったり、一緒に空き家の掃除をしたり、研修に来てくれていた他県職員さんの取り組みを徹夜ドライブで見にいく旅を決行したり(サービスエリアで名刺交換をしながら合流していく光景が面白かったw)、役所の垣根を超えて仲間になれるようなことを、企画したり誘い合ったりという動きをやっていきました。

初対面同士を含むメンバーで、私費で鳥取市まで視察に。
報告会も開催。県職員、市町職員、経営者、飲食のプロなど、メンバーはごちゃ混ぜ。
視察で学んだ空き家活用のノウハウをシェアしたら、元本屋さんの旧店舗を活用したいという話に繋がり、休日に空き家片付けイベントが開催されることに。

そのうち自分も空き家に住んでみたくなり、赴任時から住んでいた職員宿舎に飽きていたので、ノリと勢いで、県庁近くの築100年超えの古民家に引っ越すことに。自分自身がやってみたかった古民家リノベDIYや、まちづくりの勉強会を企画して、公務員以外で繋がりたかった人たちも呼び、立場を超えたネットワークを繋げていくことにも夢中になりました。


「漆喰塗りをやってみたい」と思い立ち開催した、我が家の壁に漆喰塗DIYイベント。いろんな人が来てくれて、大盛況だった。
DIYと飲み会で仲良くなった後に、思い出したように名刺交換。DIY資材や、料理やお酒の準備も楽しかった。

こうした取り組みを重ねる中で、立場と立場ではなく、立場を持った個人同士で相談や議論を重ね、ベストを探っていける関係性を広げることができていたと思います。「同じ目的のもとに集い、想いを共有し、また各自の持ち場へ帰っていく」という、理想像として妄想していた関係性が育っていく様子が、ただただ幸せでした。転居した家は古い古民家だったので、ムカデetcが侵入したり、夏は暑く冬は極寒だったりとアクシデントだらけでしたが、この家がなければ作れなかった場を作っていけたことが、それを上回る喜びになっていました。


機能的にはアレだけど、雰囲気だけはとにかく良い家だった。

好きなスタイルで仕事をし、評価される初めての経験

こうやってのびのび自由にやらせてもらいながら、納得できない予算案については「そもそも〜〜〜じゃないですか?」「公のお金を使う上で、これは県としてやるべきものとは思えません」「こういう建て付けが相応しいと思います」など、いちいち意見を言う面倒な若手職員でもありました。公私共に、これだけ好き放題やらせてもらいながら、人事評価では常に一番いい評価をいただいていた記憶があります。霞ヶ関では「忙しくて、キツい環境に耐えられる奴こそ偉い」というカルチャーに染まりつつあったので、自分らしく意見したり動いてみたりすることで、いい評価をいただくもあるのだということにはとても驚きました。

佐賀県の任期はmax2年というのが通例だったので、引越し異動の内示がある3週間前は、何らかの理由で内示が出なければいいのに…と祈るような気持ちでした。そんな祈りももちろん届かず、私は予定通り2年の任期を終え、霞ヶ関に戻ることになりました。佐賀=羽田便の搭乗は、本当に本当につらかったです。

研修からのご縁で、ずっと仲良くしていただいている皆様。最後の休日を一緒に過ごしてくださった。


空き家空き地活用をやってきた仲間が、空き地でお別れパーティーを開いてくれたときの図。発想も含めて素敵すぎた。

霞ヶ関へ帰還、通勤路と執務室がグレーに見えた

最高の佐賀生活を終え、異動先となったのは「政治資金規正法」の担当部署でした。佐賀ののんびり感覚のまま霞が関復帰の初日を迎えた結果、電車に乗る直前にファミマのホットコーヒーを購入し、ぎゅうぎゅう詰めの電車に持ち込まざるを得なくなった結果、疲れ切った顔のおじさんサラリーマンに凄い目でにらまれて舌打ちをされた瞬間はめちゃくちゃショックでした。楽園生活を終え、夢から醒めてしまった。何を喜びとして生きていけばいいんだろう。そんな心境だった気がします。ひとりひとりの上司や同僚のことは人として好きでしたが、自分のあり方と立場や仕事内容が合っているかというと…違和感を感じていました。

配属先となった政治資金課は、政治資金規正法という法律に基づき、政治団体の設立届・異動届や収支報告書に関する業務を行っている部署で、政治家の政治資金スキャンダルがあると大炎上して帰れなくなったりするものの、普段はゆったりまったりと時間が流れる感じの空気感でした。私が担当した主な仕事は、「政治資金規正法に関する、政治団体からの問い合わせ対応」と「PDFデータで提出された設立届・異動届を、紙の帳簿に書き写す」という業務。前者は法律とその省庁的解釈を丸暗記したものを回答するだけ、後者は既に電子提出されている情報を手書きで転記するだけの単純作業という工夫の余地のなさで、せめてもの抵抗?として「美文字練習帳」を脇に置いて書き写す作業をやったりして、楽しみを見出そうとしていました。この席で得たものがあるとすると、「東京都千代田区」や「○○党」、歴代の党首名などを美しく書けるようになったことかもしれません。

国会待機がある日には、自分のタスクが終わっていたとしても、上司が答弁を書き終わるまでは全員自席で待機が必須という虚しい時間も多くありました。暇な時間に、何をしていたかすら覚えていません。読んでいても怒られなさそうな、まちづくり関係の本とかを読んでいた気もします。佐賀県で自由に地域を飛び回り、自分のアイディアや工夫で色んな提案が出来ていた時代とは真逆の仕事に、呆然とするばかりでした。

この絶望感の中で「できるだけ早く、顔が見える現場を持てる仕事をするぞ」ということだけを、まずは心に誓いました。霞ヶ関に戻って数ヶ月で、次の選択肢さえあれば、公務員はいつでも辞めていいという気持ちはすっかり固まっていました。インターンから言い続けていた「悔いなく人生を全うできる環境づくりに寄与したい」という言葉に嘘はありませんでしたが、国全体を見て法令や制度を扱っていくという立場やアプローチの仕方が、自分には合っていなかったのです。

不夜城生活の再来。あんなに好きだったのに。

公務員を辞める決断

そんな状態で過ごしていた中、たまたまFacebookの投稿で、地方創生をリードするプロジェクトにおける求人募集が目に留まりました。もしそこに飛び込んだら、特定の現場のある仕事ができる、地方創生の最先端プロジェクトを目にすることができる、いろんな地域に行ける、とにかく経験を積めそうだ……と、脳内で一気にシミュレーションがめぐりました。

ほんの数時間悩み、信頼できる先輩にほんの少しだけ相談し、そのまま勢いで「この仕事に興味があります」とメッセージを送りました。その後すぐに返事をもらい、翌々週くらいに面談をし、とんとん拍子という感じで転職が決まりました。こうして、運命の出会いとさえ感じたはずの総務省での生活は、佐賀での2年を含め、たった4年で終わりを迎えることになりました。「転職はするけれども、総務省に入った時の気持ちは何も変わらない、新しい立場で頑張ります」というような大真面目な長文のお別れメールを関係者に送り、新たな土地での新たな生活へと踏み出すことになりました。

【社会人②(まちづくり事業会社のコンサル部門社員)】

絶望的なレベルの役立たず、「自分の役目が分からない」という地獄

こうして意気揚々と公務員を辞め、転職を果たし、今度は岩手県へと転居することになりました。ここからの私は「自分の役目が分からない」という地獄に陥り、絶望的な役立たずとしての日々を過ごすことになります。

勤務が始まった当初は、各プロジェクトへのご挨拶をしながら、指示を受けた業務をひとつひとつこなしていく形だったので、何とかこなしていくことが出来ていました。しかし徐々に、「何をすべきか、自分で考えて動かなければならない」状況になるにつれ、「どうしてこれを考えていないの?」「どうしてこれをやっていないの?」という指摘を多数受けるようになっていました。指摘されて、報告相談すれば怒られて、質問することすらできなくなって……そんな感じだったと思います。

それまでは定型業務か、自分が企画に関わった制度や業務の延長で動いていくような立ち回りしか経験がなかったからか、複数の役割を持つ人がひとつのプロジェクトをやっていくという中で、何をどのように進めていけばいいのか、そもそもプロジェクト内容をどうキャッチアップしていけばいいのか、まったく検討がつかないという状況でした。会社の他のメンバーや、前任にあたる大ベテランの方にも相談してみるものの、業務の改善につながる形で助言を受け取ることが出来ず、ただただ混乱が増すばかりでした。

今の仕事の座組みには、どんな役割の人が、どう配置されているのかが分からない。自分は何を任せられているのか分からないのに、何かやらなくてはならない。何をやっているかわからないから、やってもやっても終わらない。とにかく事務所にあった過去ファイルを読み漁り、昔のプロジェクトの資料を見ればやるべきことが分かるのではないか…と探ってみるものの、読めば読むほど分からなくなり、気付いたら朝日が昇っている。そんな日々に陥ってしまっていました。よくわからない質問をして、よくわからないまま怒られることも多々ありました。

食事をだらだらと食べ、運動をする気は全く起きず、夜はとても寝つきが悪く、がぶがぶとお酒を飲んで明け方に少しだけ寝るようなリズムを続けていたような気がします。急に資料の日本語が読めなくなって深夜にパニックになったり、寝不足のまま車で出張に行った際に意識が飛んで自損事故を起こしてしまったり、事故直後の会議でめちゃくちゃなファシリをしてしまったりと、自分を自分で追い込み、周りに迷惑をかけ続けているような日々でした。混乱したままパートナーに電話をかけて、「何を言っているかわからないけど、大丈夫?」と言われたこともあります。空回りを続けた挙句に、頭が変になっていたのかもしれません。

不健康なサイクルに入っていたころ。写真を出すのを憚るレベルでぱつぱつ。多分今より+7kgくらいあった。不安でいっぱいの目。まるい。

そんな状態を何とかするため、プロジェクトの現地に転居し、現場の情報を把握しながら動くような形にさせてほしいと会社側へ頼み込み、会社を退社しフリーランスとなった上で、違う形でプロジェクトに参加させてもらうことになりました。しかしその決断は、現地に行く理由も非常にあいまいで、結局何の役割を果たすかも明確にならないまま、契約形態を変えただけの変化に過ぎませんでした。スケジュールを引いたり、議事録を取ったり、関係者や金融機関に向けた資料の作成など、できることを見つけては対応するよう努めてみたものの、使いどころのよく分からない人材という立ち位置に大きな変化はなかったように思います。自分の機能や役割を分からないまま仕事をしてしまうことが、どれほど周りにとっても自分にとってもつらいことなのかを、痛感した経験でした。結局このプロジェクトからは、完遂前に抜けることが決まりました。

役立たずだった申し訳なさや丸投げアサインへの不満はありつつ、複数課題を同時解決するための施策議論の仕方や、事業構想のまとめ方、スケジュール管理資料の作り方、事業スキームの描き方、金融機関向けの事業計画の作り方などをひととおり学べたことには、とても感謝しています。

本来業務がなかなかうまくいかない中で、自社が経営するパン屋で、素敵な飲食店とコラボしたディナーイベントを企画したり、田舎っぽいジャムのコンセプト&パッケージデザインをリニューアルしたりするのは楽しかった。でも、こういう取組みの「経営にとっての意味」を問われても、答えられなかった。

【社会人③(ITベンチャー社員)】

ITベンチャー代表との出会い、「言語化」の楽しさを知る

転職先で上手くいかない状況が続く中、たまたま自社が運営するパン屋で企画していた朝食会で、岩手県内で起業したばかりというITベンチャーの代表と知り合いました。話を聞いていくと、家族が高齢者を見守るためのアプリケーションの開発をしており、公的なプロジェクトとして発展をさせていくため、アイディアを資料としてまとめてくれる人を探しているということでした。

ちょうど本業が上手く行っていなかった時期ということもあり、新たな活躍の場を見出せるかもという希望を胸に、その役目をやってみたいですと申し出ました。


パン屋での朝食会。これは、まだぱつぱつにはなっていない頃。

当時は気付かなかった、自己投影の参画理由

当時の自分にとっては、高齢者と家族をターゲットにした製品ということも、このITベンチャーへの参画意欲をくすぐられたポイントでした。この数年前に実家の祖母が亡くなっていたのですが、当時は実家に戻るたびに「不愛想な娘」のキャラ設定に戻っていた時期で、亡くなる直前で意識がもうろうとする祖母に対面する機会を得たにもかかわらず、その場でどう振舞っていいか分からず、優しい声をかけたり手を握ったりしてあげられなかったという後悔があり、この仕事をすればその後悔を解消できるような気がしていたのです。

いま考えれば、この動機づけはただの自己投影であり、本来向き合うべき祖母への謝罪や感謝を避け、別のことで置き換えたに過ぎないものです。しかし当時は「これこそがやりたいことだ」と認識していました。この自己投影は、コーチングスクールで自分自身の棚卸しを行った後、仏前で手を合わせて祖母に真っ直ぐ言葉を伝えることができるようになるまで続きました。

膨大で散らかった情報を、言語や図式でズレなく書き表すことへの執念

参画を申し出た後、すぐに仕事をさせてもらえることになり、一度話し出すと止まらない代表の話をひたすら聞き、理解できないところは質問をしながら、ドキュメントやスライド資料の形にまとめていくという役割がはじまりました。

その代表は着想のおばけのような人で、アイディアと知識がとにかく膨れ上がってしまうため、色んな人に「なんだか凄そうだけど、何を言っているかよく分からない」と言われてしまう人でした。いつも勢いに任せて喋りすぎてしまい、まともに商談がまとまらないということも多かったようなので、私が事前に話を聞き、アジェンダと落としどころの想定をすべてまとめ、いいタイミングで資料をめくってあげればストーリーの脱線も時間オーバーも発生しないという状況を整えることで、ひとつひとつ交渉がまとまっていくようになりました。

会社設立の地である市と連携した公的プロジェクトを立ち上げる際には、各社との事業内容の調整や国向けの予算申請資料の作成も担当しました。自社の代表・市担当者さん・関係各社から「こういう課題の解決のため、こういうことをやりたい」という話をひたすら聞きながら仮説をぶつけ、各プレイヤー全員が乗っかることが出来、かつ、国の役人が好みそうな形で、課題設定・事業内容・予算編成・事業スキームを言語化・図式化し、分厚い申請文書を一通り書き上げました。これを申請した結果、無事一発で5年分の予算を確保をすることができました。

私は、立場の違うプレイヤーがひとつのテーブルに乗るときに、どんな建付けにすれば成立し、納得感を持つことが出来るか?を考えることが結構好きなようでした。その言語化や図式化までやらせてもらうことで、曖昧さや認識のずれが起こらない状況を確保することにも強いこだわりを持つのだということを、この業務を通じて実感していました。この役目を他の人に任せてしまうと、どこかでズレやゆがみ、曖昧さが出てしまうような気がして、たとえ一部でも他の人に任せるのは絶対に嫌でした。

突然の財政危機、「絶対に乗り切る」と決めて代表のお尻をたたく

アプリのリリースに向けてあれこれ取り組んでいたある日、突然代表から「来月末で、資金がショートするらしい」ということを知らされました。

代表と経理財務担当の意思疎通が上手くいっていなかったとか、ずさんな支出ルールにより無駄な出費が多くなっていたとか、各方面から色んな理由や愚痴が耳に入って来たのですが、、私にとっては、誰が悪いとかはどうでもよく、とにかく「なんとかしなければ」というスイッチが入りました。

代表は「もうだめだ」というモードに入っているし、社員たちは呆れたり混乱したりするばかりの状況だったので、「何とかするしかないでしょ。これらの資料を私に集めてください。各自これをやってください。すぐに銀行と出資者とのアポを撮ってください。」と、いつのまにか代表を含めた全員に指示出しをしていました。

私には、銀行協議や投資家協議の経験はありませんでしたが、何故か「やらねばならない」「絶対になんとかなる」という考えだけは決まっていました。こういう未来をつくりたい、こういうチャレンジを実現したい、ということを考える人がいるのに、数字の管理が下手くそだったというだけで、それが全く消えてしまうかもしれないことがとにかく嫌でした。

大急ぎで数字を整理し、説明資料をつくり、アポを取り、説明に行き、受けた指摘をもとに資料を作り直し、また面会を申し込み……ということをひたすら繰り返し、最終的には銀行のご担当者と個人投資家の理解を得ることができ、会社を存続させることに成功しました。公務員の頃に培った、細かな数字の整理やロジカルな理由書の文書作成の力も生きたのかなぁとも思いつつ、謎の馬力とご厚意で乗り切った出来事だなと感じています。

【社会人③(コーチングとの出会い)】

モニターセッションを経験、「未来は自分で決められる」ことを知る

岩手で私が葛藤していたころ、東京にいたパートナーがいつの間にかコーチングスクールでの学びをはじめていたようで、会話の中にちょこちょこと「コーチング」「李さん(Mindset Coaching School学校長のお名前)」という言葉が登場しはじめました。たまに東京や旅先で合流した時にも、講義を聞いたり、モニターセッションとやらに結構な時間を割いたりしていたので、「ほう、久々にハマるものに出会ったのか…」と思いながらその様子を見ていました。しばらくはそんな様子をただただ傍観していたのですが、ある日パートナーから「コーチングのモニターセッション受けない?」と言われ、ちょうど自分自身も行き詰まりを感じていた時期だったこともあり、1回くらいやってもいいか〜と承諾しました。

当時の私は仕事関係がぐちゃぐちゃとしていたため、仕事のゴール設定は難航したような気がします。セッション後半、別角度からいろんな話を投げてもらう中で、私が「いつか、各地を旅しながら暮らしてみたいかな…そのうち…」とポロっと発言したことについて、「何で今やらないの?」とまっすぐ問われたことが、臨場感が動きはじめた最初のポイントでした。今の岩手での仕事があるし……この場所に居ないと周りにどう思われるかわからないし……お金が不安だし……と、やらない理由がボロボロと出てきたのですが、それらの全てを論破されました。それでもビビリだった私は、「セッション後すぐに不動産屋へ連絡し、最短での退去条件を確認する」「電話が終わったらそのことを報告する」ことだけを宣言し、セッションの時間を終えました。そして、その後すぐにかけた電話の中で「じゃあ、その最短日程での解約でお願いします」とまで言ってしまっていました。電話を切った後は、「勢いで、言ってしまった……」と自分で自分の行動を受け止めるまでに、少し時間を要しましたが、自分で自分の人生を決めていいということが少し掴めた感覚があり、体温が上がるような高揚感に包まれたことを覚えています。

退去した先の暮らし方のプランは何も決めていなかったのですが、そうして退路を絶ってみると、ちょうどコロナ禍だったことから、お得なホテルサブスクのサービスメニュー(なんと約9万円/月で泊まり放題!)が出来ていたり、LCCが格安セールを頻繁にやっていたりと、私の旅暮らし願望を叶えられる環境が整っていることに気がつきました。家なしのアドレスホッパー生活をすると決めたことで断捨離も進み、人生にいるものといらないものがどんどん明確になっていく感覚はとても気持ち良かったです。

不思議なことに、この決断をした直後に現地プロジェクトからの離脱が決まり、また、ITベンチャー側の業務ボリュームを増やす方向で契約内容を変えることも叶いました。自分で自分の生き方を決めるという感覚を得ていなければ、自分の力不足を嘆いたり、将来を悲観する方向に気持ちが向いてしまっていたと思います。人生を未来から考え、自ら選択していくというあり方の意義を、少しずつ実感していきました。

「もっと、顧客の願望を引き出したい」という課題感から、コーチングスクールへ

こうした暮らし方のアップデートを進めたことで、ITベンチャー社内で「岩手にずっといるわけではない人」という認知をされるようになったことから、私は代表とともに首都圏を中心とした法人営業に回る立場になりました。大企業や医療機関など、多忙かつ気合が入った立場の皆様への提案や議論はとてもやりがいがあり、商談を重ねる中で「どうしてこんな小さな会社の話を聞いてくれるんだろう。商談で相対している皆様の成し遂げたいことって、どういうものなんだろう。もっと上手に引き出せたらいいのに。」という想いが湧いてくるようになりました。

そんな「もっと顧客の声を聴けたら」という自身の仕事上の課題を認知した時に、ふと思い出したのが前述のコーチングセッションの記憶でした。セッションを受けた中で、私は契約をたくさん取るとか売上を上げるとか以上に、仕事でご一緒する方々が個々に持つ「やりたいこと」「未来で成し遂げたいこと」を明らかにして、それらが世に伝わったり、何かサービスやプロダクトとして具現化されたりすることで、個人の人生として満足できるような成果を上げていきたいと考えていることを自覚していました。そんな自覚も相俟って、「もしこのコーチングセッションが出来るようになったなら、この課題はあっさり解決するのでは…?」という予感が何日も消えず、日に日にスクールへの関心が高まっていきました。

そこから説明会に参加し、自分の仕事の課題感にドストライクであること、「何よりも自己適用」という人生を本気で変革できる機会であることを理解した時には、ほぼほぼ参加する気持ちは固まっていたと思います。ビジネスエリートな皆様が集まっていると聞いていたので、その点にはめちゃくちゃビビっていたのですが、パートナーの「とりあえずやってみれば?」というひと押しで、飛び込んでみることを決意しました。80万円超という、ドキドキする金額のスクール費用を払えるだけのお金が、なぜか口座にあったことも不思議でした。

スクール入学直前のプロフィール写真。SNSの写真を顔写真アップにする発想もなかった。
スクール開始時に「顔写真と自己紹介を投稿するべし」とアナウンスがあり、ホテルの部屋で恐る恐る撮った写真。ひよった気持ちの表れか、なぜかモノクロ。

【社会人④(初めてのコーチング契約、have toまみれな自分に気付く)】

はじめてのコーチング、自分自身もWILLを持てると知る

コーチングスクールでの学びを進めていく中、まずは「自己適用」に苦戦したので、何人かのコーチの方に面談をしていただき、3期生でいらっしゃった堀田さんにコーチングをお願いすることにしました。

コーチング契約をさせていただいたとき、私が持っていた主観的な課題は「自分の仕事のアイデンティティを明確にし、マーケットにおける自分の売り方を明確にしたい」というもの。WILLがある人の話を聞くのが好きで、話を聞いてまとめてあげることで人が輝いていくのが好きで、どんな人をどんな風にサポートする立場として価値を出していくことができそうかを明確にしたい。そんな趣旨のことを伝えたところ、堀田コーチから返ってきた言葉は「必要なのは、川端さん自身のWILLでしょうね」というものでした。WILLが強い人たちからの要請を受けて、それに応えるという想定しかしていなかった当時の私にとって、自分自身として主体的なWILLを持つというのは、完全な盲点でした。

この初めてのコーチング期間を通じ、私は、自身のWILLを常に問いながら過ごすことで、山のようなhave toに気付き、want toの感覚もどんどん掴んでいくことができるようになっていきます。「自身のビジョンや価値観のために生きる人の景色を覗き見ること」「その景色を、私らしいやり方で表現し世界に届けていくこと」「私自身がただ私らしくあることで、そのこと自体が価値となること」など、自分を主語としたWANTがどんどん掴めるようになっていく景色は、まったく新しい経験でした。

こうした感覚を掴むことで、半年のコーチング期間を終えるころには、自分の無意識が「やりたい」と言っていることを素直に実行し、「こうしなければ」と言っていることは健やかに委譲し、義務的にやっていた仕事についても「私はこういうことをしたい/こういうことこそが得意な人だから、こういう形で取り組ませてもらいたい」ということが言える人物へと変化していました。

ピアスをあけて、自分の身体は自分のものと理解した

印象的な経験を挙げるとすると、例えば「ピアスを開ける」という決断(当時は「決断」と言えるレベルの意思決定だった)は、自分にとって非常に大きな意味のある意思決定だったと思います。

コーチングを受け始めるまで、私は一度もピアスを開けたことがありませんでした。そのことについて、友人達から「意外だね、なんで開けないの?」と聞かれたことは何度もあり、そういう質問を受けるたび、私は毎度「イヤリングって手もあるし、別に穴開ける必要ないかな。」と答えていました。でも本当は、穴を開けないと付けられないフープピアスや一粒ピアスのデザインが好きだったし、毎月欠かさず読んでいるモード誌に載っているのはほとんどがピアスだと知っていました。

それでも私が頑なにピアスを開けなかったのは、私が小学生くらいの頃に、母方の祖母が何気なく言った「親からもらった身体に傷をつけるなんて……」というつぶやきが、自分の中に残っていたからでした。私が小中学生の頃は「ガングロギャルブーム」が全盛期で、渋谷109の付近にいる、耳がピアスだらけの派手なお姉さん達の様子がよくテレビで放映されていました。それを見た祖母が、とても悲しそうに先の言葉をぽろりと口にしたのを、私はしっかりと聴いていたのです。そのとき私の中で、「たとえオシャレのためでも、自分の身体に傷をつけるのは悪いこと」という信念が植えられ、自分が取りうる選択肢からピアスを完全に外すようになりました。祖母は裕福な幼少期を過ごした故か背が高く、70代80代を超えてもデニムを履きこなし、CHANELの口紅を色番指定するような、親族の中でもかなりファッショナブルな存在だったので、幼心にまっすぐ響く「禁止」になったのだと思います。

コーチングを受け、自身のwant toの感覚が分かり始めたことで、雑誌に素敵なピアスが載っているのを見て「ピアスいいなぁ」と思っていたことをやっと認知することができました。ピアスを開けてくれる病院を調べ、予約のボタンを押すときは、スマホ画面をタップする指がとても緊張していたことを覚えています。病院に行く前に、ずっと付けてみたかったピアスを買い、実際に穴を開けてもらったときに、何だか「自分の身体を扱う権利を、自分の手に取り戻した」ような感覚になりました。あまりに嬉しくてFacebookに投稿したら、「まだ開けてなかったの!?」「いいじゃん!」「これから楽しみだね!」とポジティブな反応ばかりをもらいました。ピアスを開けた後に帰省した際、もちろん普通にピアスをつけて祖母に会ったのですが、「あら、それピアス?素敵ね。」という反応で、怒られたり悲しませたりと全くありませんでした。10代という判断力が不十分なころに必要なことを言ってくれていただけで、自分で自分に責任を持てるようになってからは、真っ直ぐ尊重してもらえるものなんだなという事を実感し、感謝の気持ちを持つとともに、長かった禁止がひとつ解けた瞬間でした。

「自分の身体のことは自分で決める」という許可を出せたことで、仕事における振る舞いや日々の選択も、あるべき論から自分主語の主体的なものへと変化していったように思います。コーチングを学ぶ者としても、オールライフで現状を揺らがせ、現状の外の臨場感を得ていく意味を体感した出来事でもありました。

ピアスを開けた帰路。めちゃくちゃテンションが上がっていた。Facebookでのリアクションが予想外に多くてびっくり。

旅暮らしをはじめたことで、旅のサブスクHafHのコミュニティ立ち上げに関わることに

旅暮らしをするにあたっては、岩手の家を引き払った頃から、主に旅のサブスク「HafH(ハフ)」を活用していました。広報物などから、どうやらHafHユーザーたちはTwitterで情報収集&交流をしているらしいということを知り、コーチングを受ける中で気付いた「私自身がただ私らしくあること、そのこと自体が価値となること」というあり方に素直になってみた結果、TwitterでHafH暮らしの様子をどんどん呟くようになっていきました。

これまでの人生で、自分が「楽しい」「美しい」「素敵」と思った景色や感覚を言語化し、人に伝えていくのが好きだった記憶ともつながり、ただやっていて楽しいというエネルギーだけで、HafHでホテルステイをするたびに結構な量のツイートをしていたと思います。そんなことを重ねているうちに、「新しくできるコミュニティの、広報部の部長をやりませんか?」とお声かけいただきました。

「やりたいこと以外は禁止」「自分の人生の未来に繋がる活動をする」ことをコンセプトにして活動を開始したところ、コミュニティ発のメディアが立ち上がったり、一緒に活動していた副部長が総務部門の会社員をやめて「ライターとして独立⇒ベンチャー広報を担う会社の起業」という展開に進み始めたり、次の代の広報部副部長がコーチングスクールへ入学することになったりと、なかなか熱い展開へ繋がっていきました。フィーがあるわけでも義務があるわけでもなかったのですが、そんなことはどうでもよく、ただただめちゃくちゃ楽しかったです。

ツイートをしまくっていたら、コミュニティの広報部長を拝命。「義務感に縛られた苦しいボランティア」みたいにしたくない一心で、副部長とコンセプトetcをたくさん話し合った。
いろいろ呟いていたら、リッチなHafH拠点に泊まらせていただき、その良さをお伝えする機会もいただいたり。ラッキー。
2024年の今になって、2022年のツイートをHafHの広報に活用したいとご相談をいただくことも。中の人から「今HafHがお届けできている体験以上に、HafHの価値を言語化し伝えてくれるもとこさんの存在には、もう何度も背中を押されました。」と言っていただいたりした。

「個人のビジョンにだけ向き合いたい」との想いが明確になり、フリーランスへ

こうした気付きを重ねていく中で、所属していたITベンチャーの「販売ノルマを持つ営業ポジション」という立ち位置が、どんどんキツくなっていきました。事業の進行に伴い、代表の言葉を言語化するだけで良かった立場が少しずつ変化し、フィット感がぜんぜんない状態になっていました。

コーチングを受ける前だったら、今の仕事嫌だなぁ…辛い環境だなぁ…などと思っていたかもしれません。しかしこの頃の私は、自分が何をやりたい人で、何に向いていない人で、やりたいことをどう生かせば価値を出せるかという感覚を体得していたので、それを真っ直ぐに伝えてみようという決断をすんなり出すことが出来るようになっていました。

代表に「相談がある」とDMを送り、「これからは社員の立場でプロダクトを打っていく立場ではなく、代表のビジョンとアイディアをひたすら可視化(言語化)していく立場でやらせてもらいたい。既存プロダクトを売っていくことと並行し、次の仕掛けを進めていきたいという話があったはずなのに止まっているので、私がそちらに注力していきたい。社員という形ではフィットしないと思うので、フリーランスとしてそのような契約を結びたい。」とリクエストしました。代表としては、立ち上げ時期から所属していた社員が辞めるという出来事自体は多少の心理的ショックもあったようですが、その場で承諾してもらうことが出来ました。

この言葉はしっかり準備できていたし、この選択に進むしかないという腹落ちもしていたのですが、「こんな風に思われるかな」「迷惑をかけるかな」という思考が全く走らなかったわけではなく、DMの送信ボタンを押すときは結構なエネルギーが要りました。真っ直ぐ伝えてみて、承諾をもらって責任の形が変わることが確定してからようやく、「want toと得意なことが重なったところ」に特化して価値提供ができる選択肢を取ることの意味を、理解したように思います。

少しずつ近づいていく、アートとの距離

そうやってwant toにアンテナを立て、実行を重ねていく中で、「アート」に関連するものが、少しずつ目につくようになり始めます。気になった作家さんの展示に行ってみたり、パブリックアートに足を止めるようになったり、恐る恐る少しずつの接近でした。

そんなアートへの興味をちょこちょこSNSで書いたりし始めたところ、「ビジョンとアイディアをひたすら可視化する」ことが好きで得意だと分かり始めた中だったこともあり、同い年のアーティスト・松岡智子さんの活動サポートをさせてもらうことになりました。

アーティストという、頭の中が情報でいっぱいになりがちな存在に向き合い、すでにそこにある情報を棚卸して共に言語化することで、アーティストが伝えたい情報が納得できる形で伝わっていくようにすることにやりがいを感じていました。

服にペイントをしてもらったのが、まつとも氏との最初の出会い。
その後、展示会や営業のための資料を作ったり、作品を世に伝えていくときの言語化を一緒にやったり、パフォーマンスのお手伝いをしたり、ファッションペイントのモデルをしたりするように。

「不忘年会」で、約10年ぶりにダンスを披露

コーチングスクールを運営するMindset社が毎年開催されている「不忘年会」にて、10年ぶりにダンスを踊らせていただいたということもありました。コーチのコミュニティに、日本代表経験もあるプロダンサー・北牧さんがいらっしゃり、李さんから「2人で踊ったら?」と提案をいただいたことで実現した、まさかの機会でした。

準備期間1か月という中、月の半分ほどは北牧さんの本拠地である大阪に通って練習を重ね、東京ではレンタルスタジオで1人で毎日練習し、なんとか形になれ…!と夢中で走り続けました。李さんが大阪まで練習を見に来てくださったりとか、大阪までの交通費を出してくださったりとか、そんな奇跡的な応援もいただきながら、当日は何とか、良いパフォーマンスをさせていただけたと思っています。

この時から既に、スクール学校長でありコミュニティ主宰の李さんから、表現欲を全部見透かされ、気付く機会をいただいたのだなぁ…と思います。私がゴールの景色を掴むまではまだ少しかかるものの、未来にとって物凄く重要な臨場感をいただいた機会だったと感じています。


久々のステージ。素晴らしい空間、素晴らしい観客の皆様、世界レベルのダンサー様。中学校のクラス劇で感じた原体験、舞台上から客席へ何かが届く感覚を思い出した。

【社会人⑤(約20年封印していた蓋を開け、真のアイデンティティを獲得)】

やりたいことをやり、嫌なことを辞めた先でぶちあたった「見えない壁」

やりたいことをやり、違和感があるなら手放す。そんなことが当たり前にできるようになっていた頃、少しずつ「これを続けていくだけでいいのか…?」という心の声が聞こえはじめました。このままでは同じ場所をぐるぐるとするだけになる気がして、ぼんやりとした、見えない壁が立ちはだかっているようでした。

楽しくなったし、楽にもなったけど、これをあと数十年繰り返して、どうなるのだろう……?そんな行き止まり状態で頼れる存在を想起した時に、コーチングスクールからお世話になっている李さんしか思い浮かばず、直接お会いできたタイミングで「コーチングを受けたいです」と真っ直ぐにお願いしました。

さすがに無理かも……とお願いすること自体も迷ったのですが、頼りたい存在が1人しか浮かばなかったので仕方がありません。お願いしてから1週間ほど後、なんと、コーチングを受けさせていただけることになりました。

この写真はたぶん、李さんにコーチングをお願いする直前に、Mindset社が運営するウェルビーイング総合施設・yawaraでのイベント休憩時間に撮影されたもの。写真家の仲間が、変化への欲求を抑えられないシーンを撮影してくれていた。撮影の機会を見逃さない写真家の目って、すごい。

約20年間ふたを閉めていた、「自分自身が○○○を名乗る」選択肢

そうして迎えた初回セッション。冒頭すぐに投げかけられたのは、「何かチャレンジしないと進まないんじゃない?何するの?」という問いでした。その先のセッション時間を、私はこの問いへの答えを出すためにひたすらのたうち回りました。

好きでやっていたことを順に頭に思い浮かべ、「チャレンジしたいかどうかというと、違う……」とジャッジする。そんな思考を繰り返していったところ、最後の最後にひとつだけ残り、「あれ?これかも…?」と思えたものが『絵を描く』という選択肢でした。

「絵だったら…やってみたいかもしれないです。」思い切ってそれを口にした途端、静かに心拍が上がり、体温が上がったような気がしました。その後は、このあと画材屋に行きます!楽しみです!楽しんで描きます!!などなどを言いながら、セッションの場を後にしたと思います。存在だけはずっと知っていた画材屋に速攻で飛び込み、大量の絵の具や筆やボードやキャンバスを買い込み、帰宅してからすぐに描きはじめました。

コーチングスクール期間中も、趣味として「スケッチブックに絵を描く」レベルのことはやっていたのですが、1枚描いて飽きて、また1枚描いて飽きて……を繰り返しており、絵の熱量はもう無いのかなぁと思っていました。しかし本当に私が欲していたのは、「本気で」つまり「自分自身がアーティストとして」絵に取り組むということへの許可であり、【チャレンジする】という切り口で考える機会をいただいていなければ、絶対に入らなかったスイッチでした。

それまでの私は、アートという領域自体には少しずつ近づきながらも、「自分自身が表現者となる」という選択肢には蓋をして、その周りをぐるぐると回り続けていたのです。そのことを、コーチである李さんには、すっかり見透かされていました。

クライアント本人が盲点に気付き、自分の言葉として口にできるようにすることで、無意識レベルでの納得感を伴う形で認知が変わる。コーチングでしか叶えられない自己変革のインパクトとはこれか!ということを体感し、課題の本質を突く一流のコーチングの凄さに、感動と震えが止まりませんでした。


アーティストを名乗ることを許可した初日の投稿。
2日目には、個展をやると宣言。
アーティストを名乗って9日目、初めて絵を買っていただいた日。まさか、そんなことが起こるなんてという気持ちだった。
はじめてご購入をいただいた作品。

絵を描きはじめてから約1ヶ月で、個展開催

そんな勢いのままに、アーティストを名乗り始めて1ヶ月で、渋谷のハコを借りての個展を開催することに。

10代のころからの知り合いを含め、予想外の方々もたくさん来てくださり、作品の購入もたくさんしていただきました。絵を見ていらっしゃる様子を傍で眺めていることや、絵を見て感じたことを言葉にしていただく過程を味わうことが、とてもとても幸せでした。

「小さいキャンバスに、絵を描けるコーナー」も設け、絵を遠ざけていた方々が恐る恐る筆をとり、少しずつ没入し、すっかり夢中で描くモードに入っていく姿を見られたのも、嬉しい時間でした。

1ヶ月で50枚ほどの作品を制作。溜め込んでいたものが一気に溢れ出てきたような感じだった。
師匠であり、アーティストを名乗る決断を導いてくださったコーチである李さん。お忙しい中、展示に足を運んでいただいた。
中学校の美術部同期からは、こんなメッセージが来たりもした。びっくり。

大好きな名門ホテルから展示オファー、帯広での個展を開催

その後、Instagramに写真を載せたり、グループ展に参加してみたりという活動を重ねていると、ずっと大好きで利用させていただいていた帯広の名門ホテル「北海道ホテル」の社長から、「個展やりませんか?」とお声掛けをいただきました。

秋に事前取材に伺い、3ヶ月ほどかけて作品を制作し、2月のまるまる1ヶ月間ホテルステイさせていただきながら、滞在制作と展示をやらせていただくというとても贅沢な企画。帯広という遠方にも関わらず、個展には色んな方々が遊びに来てくださり、個展の案内をすることはもちろん、帯広屋台のおすすめ店舗を一緒に飲み歩いたり、凍った湖の水風呂に飛び込む北欧型サウナ「アヴァント」に出かけたり、そういうアテンドも含めて幸せな時間を過ごさせていただきました。知り合いではない方が複数名作品を買ってくださったり、ホテルの従業員さんが何度も展示会場に来てくださって「これ好きなんです」と言ってくださったりする経験ができたことも、これからの活動をする上での自信に繋がりました。

憧れのホテル様での個展。上手くやりたい気持ちと、素直な制作をすることの葛藤もまた、アーティストとして必要な経験だった。
北海道ホテル様といえば、素晴らしすぎるサウナ。毎日徹底的にととのって、作品制作をして、追加展示をしてという贅沢な時間を過ごさせていただいた。「体感を作品に落とす」面白さを感じていることを自覚した。
狩猟に同行させていただき、鹿の心臓の美しさに驚いた。手で触り、写真を撮って、ひたすらデッサンした。美しかった。

オーダーアートへの挑戦

突然アーティストとして活動し始めたことを見てくださっていた競技ダンス部時代の先輩から、娘の誕生日に絵を送りたいというご相談をいただいたことで、オーダーアートの制作もスタート。

自分にはない情報場を受け取って制作するという、簡単ではない仕事ですが、ご依頼された方が大切に感じている感覚や感性、価値観そのものを二次元に落とし込むことの意義を感じています。まだまだ制作に時間を要することも多々で、数をお受けできない状況ですが、自分らしく続けていきたい活動です。


「1歳の娘の誕生日に絵をプレゼントしたい」とのご依頼から。「Unlimited」のテーマを、可能性と解釈して抽象画に。
「春」というテーマから、ストラヴィンスキー「春の祭典」を抽象画化。
大切なご家族と過ごすHomeで、愛する土地を感じたときの体感と共に過ごせるようにと描いた作品。イタリアのボローニャで描きはじめ、佐賀での仕上げを経て完成した作品。

演劇の学びの中で、「身体を取り戻す」奇跡

コーチングスクール期間中に趣味のゴールを模索する中で、スクール同期に演劇アカデミーの存在を教えてもらい、通い続けるようになっていました。はじめは「また演劇をやってみたら、何か気付くこともありそうだなぁ」というくらいの参加動機だったのですが、アーティストを名乗るようになったことで、自身の芸術や生きることそのものに向き合う場として参加することができるようになりました。そのことにより、私は「芸術による治療」を経験することになります。

通い始めて2年目。年間のテーマが「身体的自己感覚(身体の感覚に集中することで、潜在意識に入り、直感的創造を得る)」だったのですが、10か月のアカデミー期間、これが全く上手くいかないという状態に陥りました。身体の感覚ということが全く分からず、頭にばかりスイッチが入ってしまい、先生が稽古を止めるしかない事態が続きました。最終的には、卒業公演への参加を辞退しようかと悩むほどの追い込まれ具合でした。

でも、やっぱり表現への欲がしっかりと残っていたので諦められず、卒業公演前日に布団にくるまって自分自身の内面と徹底的に向き合い、狂ったように自分に言葉を投げかけ続けました。いつのまにか眠りに落ちて目覚めたあと、身体の感覚がはっきりと戻ってきていて、そのあと家の外に出たら、身体の感覚がちゃんとあることに驚いて、歩くだけでもコンビニに入るだけでも楽しくて、産まれ直したような不思議な感覚でした。多分やたらとにこにこしてしまっていたので、すれ違ったご近所さんは「変な奴がいる」と感じたかもしれません。

おそらくですが私は、高校3年生の受験期に無愛想を決め込んだ時期を経て、首から下の身体感覚を完全に失っていたようです。触覚はもちろんあるけれども、自分自身の身体が生きているという感覚が理解できず、ここに自分が存在しているという現実味がありませんでした。集合写真を撮影したときに、自分らしき存在が写っていることに、不思議な感覚を抱くほどでした。(診断を受けているわけではないのではっきりとは言えませんが、「離人症」の症状を読むと、とても近い感じです)

アカデミーで教えてくださるレオニード・アニシモフ先生は「芸術の役割は、魂を治療し、栄養を与えること」と常々仰っているのですが、この経験を通じて、先生が教え続けてくださったことの意味を体感として信じることができるようになりました。

本当にしんどい出来事でしたが、人生が大きく変わる出来事でした。あまりにつらすぎて、アーティストとしてのゴールがなければ、乗り越えることはできなかったのではないかと思っています。つらい。きつい。でも、進みたい未来があるのだから、ここは進みたい。大変だけれども決して病んでいるわけではない、そういうエネルギーの持ち方を与えてくれるゴールというものの尊さも、このときに改めて噛み締めました。

■当時のnote:芸術の力 〜本体が帰ってきた話〜
https://note.com/moka_memo/n/n355abdd6adc5

卒業公演。身体が帰ってきた人の顔をしている。
写真で見ても、身体がちゃんと生きていることがわかる。身体が生きて、感じていることで、たどり着ける真実や創造があることを知った。

憧れの古典作品で「初舞台」

そのあと、オーディションを受けた上での舞台出演ということも、初めて経験しました。「いつか、ちゃんと理解したいな」と思っていたロシアの名作戯曲『どん底』のオーディション情報が広告で流れてきて、いま逃したら機会はないな…と勢いで応募し、合格をいただいての出演でした。本音で生きるということを知らなければ、絶対に踏み出すことがなかった行動です。

演劇と芸術の師匠にとってとても大切な作品であるということもあり、そういう意味でも勇気が必要だったのですが、師匠に出演する旨を報告したら「その役なら、よかった。大丈夫。よかったよかった。」と言っていただき、めいっぱいの根拠のない自信で稽古と本番に臨むことが出来ました。師匠のたった一言でやれる気がしてきたこの経験は、「あり方そのものがコーチ」という意味を改めて理解した出来事でもありました。

やれたこともあったし、まだまだ出来ないなと思うこともありました。そうしてまた、次の欲も生まれました。絵という「自分とキャンバス」の制作空間とは違う、集団芸術・身体芸術の面白さと意義を感じる機会を持てたことも、とても面白かった。こういう探究と鍛錬を繰り返しながら、自分の表現を育てていく人生なのだなという感覚が、こうやって少しずつ分かり始めています。

20代の娼婦役。やっぱり、役に引っ張られて顔や雰囲気が変わっていた気がする。ダブルキャストでの役作りは真逆だったけど、全然迷わなかった。
やりたいから、やる。ただそれだけ。そういう選択の素晴らしさを改めて認識した。舞台の空間が大好き。また、何かの作品に参加したいな。
千秋楽後、観に来てくれたコーチ仲間が撮ってくれた写真。予想以上にいきいきしていて、自分でもびっくりした。こういうことだな、という感覚がまたひとつわかった。

これからのこと:アーティストとして、コーチとして、「感覚と感性を磨き、無視できない価値観に向かって、自分自身の人生をやり切る」景色を届けていく

これまでの人生の中で、私は私なりにいろんなhave toを背負い、その重さに潰れそうになり、さまざまな出会いや学びの中で、そこから抜け出すという経験をしてきました。そして、それらの経験があったからこそ進むことができる未来を、決めていくことができる景色も知ることができました。自らがアートとコーチングを届けていく存在となる道を歩み始めたことで、人生を共に見出していく瞬間を、共に喜ぶことができる嬉しさも知りました。

気付けばそれらの過程は、小学生の私が抱いた『どうしたら、人生をやり切ったと思って死ねるんだろう』という疑問に、まっすぐに答えを出していく道につながっていました。私はずっとずっと、その疑問に答えを出していくことそのものに挑みたかったのです。小学生のころにぼんやりと抱いていた「人類はまだ『どうしたらやり切って死ねるか』に答えを出しきれていないはず、だったら自分がそれに挑んでみたい」という欲に、いろんな出来事を経て、いま改めて回帰しています。

「あなたの人生にとって何が重要なのか?本当に命を使うに値すると思えることは何なのか?その時あなたはどうあるのか?」私はこの問いを、自分自身と、その問いを心から求める人へと投げかけ続けていきます。全ての行動と探究と表現を、そのために注いでいく。それだけが、アーティストでありプロコーチである私の仕事です。

心の底から、魂レベルで、やり切ったと言える人生のために。その過程で出会えるであろう素晴らしい景色を楽しみに、これからも日々の鍛錬と挑戦を続けていきます。


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