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おじいちゃん、さいごのだいぼうけん

おじいちゃんに、末期のがんが見つかった。
最初のうちはまだ元気そうで、おばあちゃんの小言に、おじいちゃんはいつものように「うっせえ」と言っていた。
でも、じわじわと弱っていって、少しずつ動けなくなっていって。気づけば「うっせえ」の言葉は減って、黙って寝ている時間が長くなった。

おじいちゃんが住んでいる場所は車社会で、車がないとどこかへ出かけるのは大変だ。だから碁会所に行くときも、免許をもたないおばあちゃんがスーパーに行きたいと言ったときも、おじいちゃんは必ず小回りの利く軽自動車を走らせて、どこまでも車で出かけていた。

でも、もう車の運転は無理そうだ。おばあちゃんは判断して、おじいちゃんに「車を手放そう」と言った。おばあちゃんの生活も大変になるから、けっこうな決断だっただろう。

最初のうちは「うっせえ」と文句をいい、渋っていたおじいちゃんも、しばらく悩んだのち、手放す決断をした。
おばあちゃんが車の回収業者に連絡をして回収の日取りが決まり、とうとうおじいちゃんは車を失うことになった。ベージュ色の車体を、おじいちゃんはピカピカに磨き上げて、最後の別れの日を待った。

それは、車が回収される前日のこと。
おばあちゃんが家の中をふと見回すと、おじいちゃんの姿が見えない。ときどきこうしてフラッといなくなることはあるが、だいたい裏手の畑にいる。今日もそうだろう、と思ったものの、なんだか胸騒ぎがしたおばあちゃんは、おじいちゃんを探しに家の外へ出た。

おじいちゃんは畑におらず、駐車場に置かれているはずの、ベージュ色の軽自動車もなくなっていた。

そのときのおじいちゃんは、杖をついても、亀のようにゆっくりと進むのがやっとだった。「危ないから」とおばあちゃんが止めるので、車はもうしばらく運転しておらず、行動範囲は畑と家と病院のみ。どこかへ出かける体力なんてもうほとんど残っていない。でも、玄関の棚に置かれていたはずの、車のカギがなくなっている。

徒歩5分のコンビニまで、おばあちゃんは慌てて走っていった。でも、そこにもおじいちゃんの姿はない。当然、軽自動車も停まっていない。
また走って家まで戻った。そこにも、おじいちゃんの姿はない。
もしかしたらすぐに戻ってくるかも、と思い、一度縁側に座って息を整えた。

5分経ち、10分経ち、15分経っても、おじいちゃんは戻ってこない。病院や碁会所に電話を入れたが、おじいちゃんは特に来ていないという。

1時間待っても、戻ってこない。おばあちゃんは悩んだ末、警察に連絡をした。しばらくすると警察がやってきて、おじいちゃんの特徴や出かけた時間などをおばあちゃんに尋ねた。その特徴をもとに、周辺での目撃情報がないか探したが見当たらない。
もし、事件に巻き込まれていたら。大きな事故を起こしてしまっていたら。どんどん血の気が引いていくおばあちゃん。

「……あれ、ベージュ色の軽自動車、走ってきませんか?」
警察の人が、ふと指をさす。
おばあちゃんが目をやれば、おじいちゃんが運転する車が、今までからは考えられないほどゆっくりとしたスピードで、こちらへ戻ってきていた。

駐車場に車をとめ、戻ってきたおじいちゃんに、おばあちゃんは大声で怒りをぶつける。
「あんた、何やってんのよ!勝手に出かけて、警察の方にもきてもらったじゃない…!!!」
「申し訳ない。ちょっと用事があって出かけてまして。皆さんにもご迷惑をおかけしてすみません」

普段は絶対に謝らないおじいちゃんが、おばあちゃんや警察の人たちに頭を下げた。その手には、少し離れたところにあるスーパーの袋が握られている。

「え、もしかして、勝手にお酒買って来たの!?本当にもう、いつも迷惑かけることばっかりで…」
怒り続けるおばあちゃんと、バツが悪そうに目をそらすおじいちゃん。

警察の方は
「まあまあ、戻ってきてよかったじゃないですか。これからは勝手にでかけたりしちゃだめですよ」
とおばあちゃんをなだめ、帰っていった。

警察の人がいなくなると、おじいちゃんは「悪かったな」ともう一度言い、先に家の中へ入っていった。車の状態を確認して、特に異常がないことを確認したおばあちゃんも、遅れて家に戻っていく。

おじいちゃんは疲れたのか、ベッドに横になってすぐに寝息を立ててしまった。台所のテーブルを見れば、さっきおじいちゃんが持っていたはずのスーパーの袋が置かれている。

深いため息とともに、おばあちゃんは袋の中身を取り出す。
大きなウイスキーのボトルが1つと、とても小さな日本酒の瓶が1つ。
そして、お弁当が2つ入っていた。

 *

「私がいつも寝る前にハイボール飲んでたの、全然私に興味ないと思ってたのに、意外と見てたんだね。お弁当だってさあ、人生で一度も私に買って来たことなかったのに、腰が痛くて台所に立つのがしんどいってこぼしたの、聞いてたのかね。私だって、出かけた理由を知ってたら、あんなに怒らなかったわよ」

ベッドで寝息を立てるおじいちゃんの足をさすりながら、おばあちゃんはそう言って小さく笑う。

おじいちゃんはもう、起きている時間より眠っている時間の方が長い。お弁当やお酒はおろか、もう水すら飲めなくなってしまった。

おじいちゃんの、さいごのだいぼうけん。
それは60年もの間ともに過ごしてきたおばあちゃんへ、感謝を伝えるための道のりだったのかもしれない。

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