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8人の白雪姫と、独りぼっちの魔女

 向き合った他人と目線がぶつかる瞬間、私はいつも目を反らしてしまう。だが、反らした瞬間(あ、やってしまった)と思い、慌てて相手に目線を戻す。

……大丈夫、大丈夫。
自分に何度も言い聞かせ、反らした目線を、今度はその人の眉間あたりにセットする。相手は少しだけ怪訝そうな顔をして、でも何も言わない。いったい、何が大丈夫なんだろう。よく分からないけれど、自分に何度もそう言い聞かせないと、相手の目を見られない。

 特にやましいことがあるわけではないはずなのに、私は誰かと目を見合わせて話をすることがとても苦手だ。いったいどうして、私は他人の目を見ることが苦手になったんだろう。その答えを探すべく、幼少期から今までの人生を振り返ってみようと思う。

  * *

 ――幼少期。私はとにかく目立つことが大好きだった。それを象徴するのが、幼稚園で白雪姫の舞台をやったときだろう。

 周囲の女の子たちは、こぞって白雪姫に立候補した。毒リンゴをかじって倒れ、王子様のキスで呪いが溶ける。たった一人の王子様に見初められる、この物語の主役だ。

 先生は「白雪姫をやりたい」といった8人の女の子全員に、白雪姫役を与えた。あこがれのお姫さまになれるように。

 でも私は、周囲の女の子たちと同じことをしたくないと思った。舞台に立ったとき、自分と同じ役割を果たす人が許せなかった。だから私は、誰一人やりたがらなかった「魔女」役に立候補した。

 もちろん、他に希望者はおらず即決。母親に頼んで黒いマントや帽子をつくってもらい、裾をひらひらとたなびかせながら、華やかなドレスに身を包む白雪姫たちと共に練習に取り組んだ。

 そうして迎えた、発表当日。保護者や先生が見守るなか、私は8人の白雪姫にリンゴのレプリカを配り歩いた。リンゴを口にした瞬間、ばたばたと倒れていく白雪姫たち。全員が倒れ終わると、その異様な光景に会場へと笑いが巻き起こる。リンゴの入っていた籠を抱きしめて、私は床に並ぶ白雪姫たちを見下ろした。そのとき心を占めていたのは「満足感」だったと思う。

 物語の終盤、床で丸まっている白雪姫たちのもとに、同じく8名の王子様がやってくる。私は魔女だから、王子様は決して迎えに来ない。誓いのキスで目を覚まして笑う白雪姫たちのことを、観客たちはほほえましく眺めていた。

 華やかなドレスも、助けにくる王子様も、確かに魅力たっぷりだとは思う。でも私は、舞台終了後に保護者の間で「魔女の子が目立っていたね」「広い舞台で彼女だけが立っていたね」と皆の記憶に残ったことが誇らしかった。他の誰かと同じじゃない。自分にしかできない役をやりきった。そう思っていた。

 そのあとも、舞台で何度か主演を演じた。学生時代には、書いた作文が何度か賞をもらって、市議会の主催する人権作文発表会に、学校代表として参加したこともあった。人前に出ることも、誰かの目をまっすぐに見つめることも、何も怖くなかった。自分の意見を誰かに伝え、それを受け入れてもらえることが当たり前だと信じていたのかも知れない。

 だが、思春期にさしかかるにつれて「出る杭は打たれる」ことを痛感する機会があった。
 目立っているからというだけの理由で、クラスの女子の過半数から口を聞いてもらえなくなったり、まったく身に覚えのない悪口を言いふらされた。最初のうちは別にそれらを気にすることはなかったし、むしろ自分以外の誰かがいやがらせを受けていたら、何の迷いもなくその誰かの味方になった。それが“正しい自分”だし、そうするべきだと信じていたから。
 だが、助けられた「誰か」は、自分が再びいやがらせの的になることを避けようとする。だから、今度はいやがらせをしている側の味方になって、安全地帯で自分の身を守ろうとする。

 どこにでもあるような、滑稽な話だ。
 気が付いたら私は、たったひとりで立っていた。

 魔女の衣装に身をまとった4歳の私は、たったひとりで舞台に立つことなど、何も怖くなかったのに。あのときの自分と変わっていないはずなのに。でも周囲の目は、自由に生きようとする私を、あたたかく見守ってなどくれなかった。

 前髪を伸ばして、他人と目を合わせるのが怖くなったのは、多分そのころから。本当の私をさらけ出しても、結局それを受け入れてくれる場所はない。ちょうど、家庭内でのトラブルも重なって、私はますます他人と距離をとるようになった。

 目立った舞台に立つことを避け、他人と歩調を合わせる。
 極力みんなと同じ速度で歩いて、みんなが居心地のいい環境をつくることさえ心がけていれば、私の立ち位置や居場所が揺らぐことはない。「気が利くね」と笑ってくれる人の存在が、自分の評価になっていった。

 広い舞台で、自信満々にリンゴを配り歩いていた魔女には、もう戻れない。空気を読んで、足並みをそろえて、目立たないように、壊さないように。とにかく常に周りに気を配っている自分に時々ひどく疲れてしまって(これは本当の私なんだろうか)と一人でぼんやりすることが増えた。誰かから目線を向けられて意見を求められたり、自分が少しでも話の中心になることが怖くなった。常に息をひそめて、自分を殺しているうちに、頭で考えている意見や思いがすんなりと口にできなくなってしまった。

 他人と目が合った瞬間、私は瞬間的に(怖い)と思う。それは「自己防衛」の一種なんだろう。他人に自分をさらけ出すこと。自分の本音をぶつけることで、他人との間に波紋が広がること。それを想像するだけで、いてもたってもいられなくなる。本当は言いたかったこと、聞きたかったこと、おかしいなと思うことが、たくさんある。何一つ言葉にできずに飲み込んで、そんなドロドロとした感情や、本音を知られることが怖いから。私は他人と目を反らして、適当な相槌だけを打ち続ける。本当はそんな行為に、何の意味もないのだと、本当は心のどこかで分かっているのに。

 多分、本来の私は黒づくめの衣装に身を包み、誰よりも皆の注目を集めた「魔女」の私なんだろうと思う。プライベートではなく仕事の場面になれば、プレゼン資料を人前で読み上げることも、自身の意見をはっきりと他人に伝えることも、躊躇いもなくできるのだから。仕事である以上、業務を効率よく回すためには他人とぶつからないといけない場面もある。その前提さえあれば、私は恐れずに自分の意見やアイデアを口にするし、仕事のことを同じ熱量で語ってくれる相手がいるなら私も同じくらい話ができるのだ。

 本当の自分を隠して、周囲はうまく回ってきた。でも結局、本音を言わない私は「何を考えているかわからない」と思われたり「打ち解けきれていない」と言われてしまうこともある。私の本音を受け止めたいと望んでくれている人間に対しても、きちんと向き合うことができていない。全員に嫌われず、全員と波風を立てずに生きたって、そこには何も生まれないのに。

 キャリアコンサルタントを目指そうと決め、学校に通い、自己防衛のメカニズムを学んだ。自己理解を深める授業で、自分の感情とひたすらに向き合い続ける日々のなかで、少しずつ「人前での防衛」を弱められる機会も増えてきた。

 他人と目を反らさず、きちんと自分を知ってもらうこと。正義感が強くて、目立ちたがりで、でも臆病で。そんな私を、ちゃんと私自身が好きになること。キャリアコンサルタントを目指すための勉強は、自分自身を認め、愛するための訓練でもあるのだろう、と思う。

 真っ黒なマントに身を包み、自信満々に白雪姫を見下ろす幼い少女。
 その少女を救えるのは、白馬に乗った王子でも、七人の小人でもない。
 それは、今もなお「自分らしく生きたい」とあがく、自分自身。
 あの日の少女を救うため、私は今日も誰かの視線と真っ直ぐに向き合う。
「怖くないよ」「大丈夫だよ」と、言い聞かせながら。


* * * * *

 キャリアコンサルタントの学校で書いた「自分の課題」というテーマの作文を、少しだけ書き換えたものです。
「人の目を見るのがこわい」そんな気持ち、わかってくれる方、いるんじゃなかろうか。そして、まっすぐに自分を貫く勇気って、持ち続けるのも大変だよね。そんな話。

 まいやんの卒コンの話とか、みおなの卒業の話とか。
 思うことはいっぱいあるけれど、うまく言葉にまとまらない。
 いつかちゃんと、言葉にできるといいのだけれど。そんな今日この頃。

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