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コロナ禍でも、現実逃避を忘れない|脱Twitter論

新型コロナウィルス流行のニュースから、はや4か月ほど?が経ち、完全在宅勤務生活は3ヶ月が経過しました。

当初からのメンタルを振り返ると

とにかくしんどい(心身不調)→あらゆる方面への不安(メンタル不調と情報の過剰摂取)→楽しみを何とか見つける(いろいろと手を付ける)→自分にできることはやらねば(責任感向上)→自分を大事にぬくぬくするか…
という感じです。いまはぬくぬく期。
大変な方々がいるのにごめんなさいねという気持ちはめちゃくちゃあるし、政治の方面の不穏な動きに心をざわざわしつつも、電池切れ

ということで、この週末は映画を7本見て、おやつを作り、作ってこなかった食事を作り、と、文字にすると充実なんだけれど、目的は現実逃避、という時間を全力でしてみたのでした。
これは、また今後来る焦り期に、まあ休めよと自分に伝えるためと、似たような人に現実逃避をお勧めしようという備忘録です。

Twitter見すぎる問題、ダメ絶対

私はというと、もともとオタクだったのもあり思ったより引きこもり生活は案外性に合っていました。学生時代に戻ったかのように読書・漫画・映画と若干のスマホアプリに注ぐ時間が増えた実感があります。が、この塩梅にたどり着くのにも割と時間がかかりました。

そう、Twitter見すぎる問題です。
Twitterは本当によくないツールです。最近はとくに治安も悪いのに私はいまだにリプ欄を見に行く癖を辞められずしょっちゅう心に生傷を負っています。
Twitterはメンタルが落ちているとき、不安感を増殖する作用があります。少なくとも最近はアカウントを分けても分けても政治に関するさまざまな問題やコロナウィルスの影響による暗い現実、そしてフェミニズム関連の火が毎日どこかであがっている、そんな場所になりつつあります。
そして人々の「つぶやき」という性質が「声」のように感じてくるとまたしんどい。もはやしがらみ発生器と呼んでも過言ではありません。

まあ、いい面もたくさんあるんですが。常に情報が流れていく性質上、開くとずっと見てしまえる仕様なんですね。それを物理的に立つために、現実逃避ツールをいろいろと試行錯誤しました。


HowTo現実逃避

はい。では現実逃避の方法をお伝えします。

①どうぶつの森 ポケットキャンプ 

みんながスイッチのあつ森をやるなかスイッチを持っていない私はめちゃくちゃどうぶつの森やりたい欲が高まっていたためこのアプリに手を出しました。そして周囲に5人ほど宣伝をし、沼に引き込みました。

内容自体はゲームのどうぶつの森ほど濃くはないのですが、ゆるゆるやれるうえに、どうぶつたちの言葉はいつも優しく、性別はいつでも変えられる、男の子でもワンピースが着られるといったところもメンタルに優しいです。そして定期イベントもあるのでなかなか飽きません。スマホを開いても、Twitterアプリに行かずこちらを開くようになります。依存の転換です。

②読書

Twitterの言葉は、すべて精査されない「個人の言葉」です。言葉の質はまちまちで、ガラス片から宝石まで混ざっているような場です。もう少しパブリックに向けた、言葉で脳内を満たすことも重要な現実逃避の一つです。自己啓発書よりも、私は圧倒的にエッセイや小説をお勧めします。だって目的は現実逃避だから。
心が癒されたいときにそういった系統の本を手に取る方がいますが、どちらかというとやっぱり小説の方が癒してくれる気がします。よしもとばななとか。

綺麗な言葉、的確な表現は自分のこころにすっと入ってきて、謎な恥ずかしさや笑いがこみ上げることすらあります。まあTwitterでも経験はできるのですが、これを機に面白い作家や初めてのジャンルと出会うのも良いと思います。
ちなみに私が最近買った本は以下です。個人的には伊坂幸太郎とか吉田修一の本が好きです。あと朝井リョウ。


③映画


文字情報に没頭するのが苦手な人には映画がいいです。暗いものやドキュメンタリーもいいけれど、現実逃避にお勧めなのはやはりファンタジー要素のあるものがいいでしょう。映像美や音楽によって現実逃避を高めてくれるの間違いなしです。
表現で傷つきにくい作品はやはりディズニーのリメイクものでしょうか。シンデレラや美女と野獣などは最高です。

④お菓子づくり

Instagramでみんなが #おうち時間  とかやっているのを見るとううんとなりますが、お菓子づくりが流行るのには理由がある。
これもまた、没頭できるんです。特に何か生地をこねて、発酵させるものがいい。こねたり揉んだりする作業はそれだけに集中せざるを得ないし、生地が膨らんでこんがり焼ける様子はなんらかの達成感を与えてくれます。
何も考えたくないとき、頭を使いたくない時にはこれがお勧め。


現実逃避する自分を責めない

現実逃避をする上で一番大事なことはこれです。自分を責めない。

SNSをひとたび見ると、いろいろな立場の人が「今の自分にできること」をオンラインイベントなどで全力でやっている。素晴らしい。応援したい。でも、気が乗らない。そういうこともある。多分みんなある。けどそれってわざわざ投稿しないんですよね。
まあ私もそうで、やっといま書いているような感じ。さっきもSNSを見てみんな頑張っている…私は…いまはなにもできない…すまんな…という気持ちを抱えながら「いいね」をしたりしていました。

もうね、仕方ないよ。気分が乗らないことってあるもん。新型コロナウィルスが猛威を振るっていようがいまいが、あるんだよ。仕方ない。実際いま、ものすごく大変な思いをしている人は世の中にいます。でもそれってコロナ騒ぎよりも前にもいて、たぶんこれから先もずっといる。もちろん、その事実に社会を構成する人間みんな目を向けた方がいいし、できることを考えた方がいいんだけど、それと、休まないっていうのはまた違うと思う。んです。

つまり何が言いたいのかというと、人間一定の割合でやる気の上下はある、ということです。まあ同時に申し訳なさは本当にあるんだけれど。

それと同時に、苦しんでいる人がいるからって自分も同じだけ苦しまなきゃいけないわけじゃない。も言っておきたい。自分に対しても。もちろん、できる範囲でできることを使用する姿勢は忘れたくないし、忘れるつもりもないんだけど、「みんな大変なんだから」を理由に、自分で自分の首を絞めちゃっているような優しい人は、そこまで思わないでいいんじゃないかなあと、周りを見たりすると思います。
やりたいことがあったらどんどんしたらいいけど。参加できない自分を責めることは何も生まない。自戒をこめて。


今の自分にできることをする


上記のような言葉を吐き出しながら、今の自分にできること、という言葉を自分はちょっと過信しすぎていたような気がしてきました。
だって、例えば、イベントに参加する、はしんどいときはしんどいのです。こう打っている最中も頭を過るのは社会にあるさまざまな問題と、それと正面から向き合う人々の熱意に対するリスペクトです。素晴らしいと、思うと同時に自分も何か貢献せねばならないというしがらみ。が、自分のなかにあります。
でも無理なんだと思う。ごめんだけど。今は無理。明日はいけるかも。そんな感じ。

なので、今の自分にできること、の定義を自分の中で考え直そうと思います。現実逃避が最大限必要なときは、RT一個だけとかでいいです。
周りのポジティブな取り組みで目が痛いときはそらしていいんです。
その行動が、彼らの活動を否定することにはならない。はずだ。と思っておきたい。

できたらみんな幸せハッピーで生きられた方がいいんです。ウィルスがあろうとなかろうと。
ただしんどいことやしんどい人が見えやすいいま、自分だけ助かっていていいのかとか自分に仕事があるだけでも感謝しなきゃとか、そういう言葉が自分のしがらみになっていて、在宅勤務は在宅勤務でめちゃくちゃしんどいのに、そういうこと言っちゃいけないのかな、みたいな。そういうよくわからない方向の自粛圧を感じることがあります。それ、何の意味があるの?ってことをもう一度考えて、いま、自分が社会のために何ができるのか?社会のために自分が頑張れるために、必要なのは一時の現実逃避かもしれない、って思ってみるのも、いいことなのかもしれない。

現実逃避の方法のいろいろも、社会と繋がっているかもしれない。例えば「印刷された本を書店で買うこと」はいま出版業界を助けることにもつながっているかもしれないし、映画を見るときに、映画館を応援するプロジェクトにお金を少し出してみるのもいいかもしれない。お菓子を作るときに、国産の乳製品を多めに消費できるレシピを試してみることも、広い意味で、いま、遠くの誰かを応援することにつながっている、と思えば、現実逃避をいいことみたいに思えてくるかもしれないね?

#いまわたしにできること  とかも本当に素敵だと思うけれど、あまり気負いすぎずにやる人が増えた方がよいなあと、思ったりする。

noteユーザー向けっぽくないのかもだけど、まあ、そんな感じのことを最近思いました。

しがらみ減らして生きていきたいものですな。

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