世界からおじいちゃんが消えたなら
休みの日に、なんの気なしに映画を見ていた。どうして見たのかはわからない。ただその日に限って、気になって見ただけだった。
ぼくが見た映画は『世界から猫が消えたなら』だ。川村元気さんのベストセラー小説を映画化した作品。脳腫瘍になり、余命わずかと宣告された主人公が悪魔と契約し、世界から何かひとつものを消すことで、いちにち寿命が延びるというストーリーだ。
映画を見終わったあと、自分だったら寿命を延ばすために何かを世界から消すだろうか?」と考えていた。そしたら突然母親から電話がかかってきた。
「おじいちゃん、死んじゃった」
「え?」
映画でもなくて、想像でもなくて、現実の世界からおじいちゃんが消えてしまった。
母子家庭で育ったぼくにとって、おじいちゃんは父親のような存在だった。 小さい頃にはよく遊んでもらった記憶がある。 バイク、スキー、マラソン、山登り、釣り、温泉めぐり……と多趣味で、機会があれば一緒に連れていってもらった。
よく食べ、よく寝て、よく遊ぶ。そうやって日常を存分に楽しむ。それがぼくがおじいちゃんに抱いていたイメージだった。
そんなおじいちゃんが世界から消えてしまった。親から聞いた話では、自分の部屋で椅子に座って、そのまま死んでしまったそうだ。その日の朝ごはんを食べているときに、「少し体調が悪い」と言っていたようだが、まさか死んでしまうなんて誰も思ってもいなかった。
だから、おじいちゃんはたったひとりで最後の瞬間を迎えたらしかった。誰にも見られず、誰にも知られず、ふっと本当に突然消えたかのように死んでしまった。
もし例えば映画のように、おじいちゃんの寿命を延ばすために世界から何かひとつものを消すとしたら何を消しただろう。パッと思いついたのはたばこだった。
「たばこなんて絶対に吸わない」
大学生の頃だったと思う。たばこを吸う人のことを毛嫌いしていた。高い、臭い、悪い。三拍子揃った異物をわざわざなぜ身体に取り入れるのだろうと宇宙人でも見るかのような目つきで喫煙者を見ていた。
そんな自分がいま、宇宙人のように見えていた人たちが吸っていた異物を積極的に吸っている。海外に行ったときに試しにどう? と言われて吸ったのがきっかけだった。
はじめて吸ったときは咳き込んでしまって、うまく吸えなかった。美味しいとは思わなかったし、むしろ苦くて、こんなもの吸い続けるなんてどうかしてると途中で吸うのを辞めた。
日本に帰ってきてからもしばらく吸うことはなかった。でも喫煙者の友達に久しぶりにどう? と言われて吸ってみた。そのときは咳き込むことはなかった。別に美味しいなんて思ったわけではない。でも自分に足りない何かを埋めてくれるような気がして、そこから定期的に吸うようになっていった。
「辞めたい」
そう思ってもなかなか辞めれない、たばこ。こんなものを消すことでおじいちゃんの寿命がいちにちでも延びたのだったら、消したはずだ。
そんなことをたばこを吸いながら考えていた。
映画の中では、何かひとつものを消すと、それに関する出来事も全て変わってしまうようだった。たばこを消せば、たばこというものが元々なかった世界になる。それに連動するようにたばこに関する思い出も全て消えてしまうのだった。
そう考えたときに、たばこを消すことで何か大切な思い出は消えてしまうだろうかとまた妄想を始めてみる。思い出したのは、喫煙室で過ごしたあの日々のことだった。
新卒ではじめて入った会社で、喫煙室に行くことがあった。そのときはたばこを吸っていたわけではなかった。ただ先輩に連れて行かれて、仕事の合間や仕事が終わったあとによく喫煙室に行っていた。
喫煙室で先輩には仕事のアドバイスをもらったり、仕事の悩みを聞いてもらったりすることが多かった。ときには愚痴もこぼしながらだったが、働き出して間もない自分にとっては、すごくありがたい時間だった。
きっとたばこがなかったら過ごすことがなかった時間だった。
おじいちゃんの寿命が延びるのだとしても、やっぱりたばこを消すことはしないといまは思う。もちろん他のものも消すことはきっとない。それはそのものがあることではじめて生まれた時間があったことに気づいたからだ。
おじいちゃんは寂しい死に方をしたのかもしれない。大切な人たちに囲まれて、看取ってもらうほうが良かったのかもしれない。現に、ぼくはおじいちゃんと最後にどんな会話をしたのかさえ覚えていない。家族だってどんな言葉を最後に交わしたかはわからない。それぐらい突然のことだったから。
でもたぶんおじいちゃんは幸せな死に方をしたのだと思う。少なくともぼくにとっては憧れの死に方だった。ぼくにはおじいちゃんの死がすごく自然に感じたから。死が日常の延長線上にあるかの思わせてもらったから。
いつもと同じものを食べて。自分の家の、自分の部屋で、いつも座っている椅子に座って。誰にもその日に死ぬなんて思われずに、いつもと同じような話をして。何も特別なことをするわけでもなく、いつもと変わらずに過ごしていた。そして、すっと消えていった。
ぼくはそんなおじいちゃんのような死に方がしたい。死を特別なものと捉えるのではなく、日常にある当然のことなのだと思いながら死にたい。
そのために死を迎える直前まで日常を大切にして、日常を存分に楽しみたいと思うのだ。よく食べ、よく寝て、よく遊ぶ、そんなおじいちゃんのように。
おじいちゃんがどう思っていたかはわからない。もしかしたらおじいちゃんのもとにも悪魔がやってきて、「世界から何かひとつものを消せば寿命をいちにち延ばしてやる」と提案されていたかもしれない。でもきっと何も世界から消さずに死んでいったと思う。
おじいちゃんは死ぬまで日常を楽しんでいたはずだから。
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