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どこかの、誰かのジャッジ
化粧をするのは、自分の気分をアゲるため。
そのせいか、在宅生活になってからやたらと化粧品を買うようになった。職場では悪目立ちしそうなラメのアイシャドーも、かわいいと思えばポチる。いま髪の毛は、左右でピンクと紫だ。
職場に通っていた時、もう少し髪色は落ち着いていたけれど、だからといって不自由に思っていたわけじゃない。それにおそらく、いまの外見で職場に顔を出しても直接注意を受けるようなことはないだろう。せいぜい、派手だねと言われるくらいだ。
すごく以前、結婚を考えてた人と一緒に住んでいた時期がある。初めてのことで楽しかったし、とても張り切ってもいた。1ヶ月後、私は相手の前で大泣きをした。その人は、私に家事をしてくれとは言っていなかった。(積極的にやらなくていいとも言わなかった)いま思えば、自分に刷り込まれていた、”理想の彼女”像に追いつこうとしてたんだと思う。しかもそれは、私の経験を無視したもので、さらに突き詰めれば、そもそも私自身の理想の生活ですらなかった。
思うように家事がこなせなかった時、職場で派手な格好をしようとした時、気になって仕方がなかったのは、自分の中にある自分をジャッジする視線だ。
その、ジャッジの基準はどこに?
身近な人や、自分が考えて作ったわけじゃなかったと思う。
もしかしたら、悪く思う人がいるんじゃないか。こうしなければ、自分は周囲に認められないんじゃないか。根拠のない、どこかの誰かが思っているのかもしれない、という基準。
それがあったから、周囲と波風を立てずに関係を維持できていた事もあったかもしれない。その場、その場の、言葉にはされない一線。なんとなく、合わせていたせいか、私はこれまで生きにくさを強く感じたことがなかった。
いま日常では、モニター越しの会話がほんどになって、言葉にはされないその場の基準を感じる機会は少なくなった。代わりに考える時間は増えて、やっと今ジャッジの基準を見直し始めた所だ。
周囲にかけられた言葉、他人の何気ない視線。些細なことで、私の感情はあちらへこちらへ転がり、流れていく。その中で私自身が感じたことは、川原に落ちた小石のようなものかもしれない。それもいつか見返せるように、きれいに取っておきたいと最近は思っている。
8月から、小野美由紀さんのライティングサークルに参加しています。今回は頂いたフィードバックを元に記事を書きました。
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