見出し画像

【短編】 旅路

帝産音大の名誉教授、荏原新一に世紀の大ニュースが伝えられたのは、冷たい雨が降る4月上旬のある朝だった。

「何だって。そんなバカな。あり得ない」
何度もメールの内容を確認して、ドイツの友人クリストフに連絡を入れた。

「やあ、クリストフ。そちらは今真夜中だろう。すまないね」
「おはようシンイチ。構わないさ。こちらからメール送ったんだから」

長年ベートーヴェンについて研究し、自身も偉大な指揮者であるクリストフが言うんだから間違ってはいないはずだ。
しかし、ベートーヴェンの未発表の交響曲が見つかったなどというにわか・・・には信じがたい知らせは、新一にはタチの悪い冗談にしか聞こえなかった。

「クリストフ、一応聞くが、未完成の第10番の残りのスコアが発見された、とかではないんだよな?」
「ああ、こんなニュースを聞けば誰もがそう考えるだろう。だがシンイチ、11番で間違いない」

だいたい、ニュースの信憑性はさておき、第10番が未完成なのに11番が存在することがおかしいのだから。

新一はゼミで最も優秀な生徒、松浦秀幸を連れてドイツへ行く事にした。
急なスケジュール調整は各方面に迷惑をかけたが、事態が事態なだけにやむを得なかった。


5月のフランクフルトはまだ寒く、日本なら3月下旬程度の気温だ。
「な、だから言っただろ松浦。ドイツは寒いんだ」
「はい、教授。厚手の上着を持ってきて大正解です」

ゴシック建築風の立派な門の奥に、近代的でスタイリッシュなガラス張りの校舎。それが友人、クリストフの仕事場であるシュミット音楽大学だ。

「シンイチ、ヒデユキ。ようこそフランクフルトへ。長旅ごくろうさま」
5年ぶりに再開したクリストフは、ホテルも滞在中のクルマも全て用意しておいてくれた。さすがだ。

高名な指揮者でもあるクリストフに緊張気味の松浦をよそに、早速ベートーヴェンの交響曲第11番のスコアの話を聞く。

クリストフがリーダーを務めるベートーヴェン研究チームが新しいスコアを発見したのは、オーストリア・ウィーン。
数ヵ月間だけベートーヴェンの女中をしていた人物の子孫が、偶然保管していたというのだ。

クリストフの仮説はこうだ。
「これまでベートーヴェンの交響曲は発表されているものは第9番まで。10番は書いている途中で亡くなっているため未完成、というのが誰もが知る通説だった。だが私は、ベートーヴェンは失われた聴覚に苦しみながらも10番と11番を同時進行で書いていたのではないかと考えている。何らかの理由で10番より11番の方が先に完成した。そしてまた、何らかの理由で完成した11番は日の目を見ることなく元女中の手元で保管され続けた」

新一と松浦は、クリストフの計らいでウィーン・ハイリゲンシュタットを訪れた。
ハイリゲンシュタットは大変美しい街で、ベートーヴェンゆかりの地としても有名だ。

その街外れに、ベートーヴェンの元女中だった人物の子孫であるブルーノの住まいはあった。
世紀のニュースに世界中から取材陣が押し掛けていたが、調査チームの関係者ということで優先的に話を聞けた。

「見つかったスコアをどうするかは、全部クリストフに一任してるんだ。その希少性や価値は、素人の僕には分からないからね。どうあれ、音楽界に貢献できて嬉しいよ」

法外な金銭を要求したりしないブルーノに感謝しつつ、二人はブルーノの勧めでハイリゲンシュタット公園の裏手に広がる高台へと向かう。

夕刻の風は冷たく、長居は出来なかったが高台には古代の環状列石ストーンサークルが遺っていた。

そこへ立った二人は、不意に宇宙そらに吸い上げられるような感覚に陥った。
環状列石がまさに古代人が宇宙や信仰の対象と交信するために造ったものであることを踏まえれば、ごく自然な感覚だったのかもしれない。

ベートーヴェンや著名な作曲家たちも、この空を見上げて果てない天体や宇宙を想像したのだろうか。そう思うと新一は不思議な気分だったが、同時に交響曲第11番という楽曲への興味が急に沸きあがってきた。

「第11番は、この景色と空からインスピレーションを受けたんですかね」
宇宙との境目が無いような空を見上げながら、松浦は呟いた。

ここから先は

835字

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?