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奇蹟のなかに生きている

いまだに あの時の感覚すべてを言葉にはできない。
突然全てが超スローモーションとなり 見たことのない輝きを振りまき、それらと自分の境目が分からなくなった。

気付いたら私は泣いていた。

もう30年弱むかしの話である。

膝の靱帯再建の手術を受け、術後固定2週間、その後リハビリのためさらに2週間という長期入院をしたことがある。
その日も毎日の1時間ちょっとのリハビリを終えたときだった。彼が部活のあと顔を出すよと言っていた時間まではまだ少しあったし天気も良かったので、外の空気を吸ってみようかなとふと思ったのだった。まだ松葉杖では危ない時期で車椅子だったのだが、そのまま表へ出ると病院前の広場の陽の当たる一角にそれを停め、町の風景をぼんやり見ていた。

駅前にあったリハビリ病院だったので、人通りもそこそこある。だがその日は春休みに入った週末ということもあり普段よりもなんとなく子連れの家族、とか、私服姿の高校生くらいのグループが目立った。

なんとものどかな天気と、新興住宅地近くの駅によくある、のんびり感と急ぎ足が混在したような少し眠気を誘うざわざわ感が満ちた昼下がり。荷物を抱えたホームレスのおじいさんも片足を引きずりながら向こうから道を渡ろうとしていた。駅前の花屋や駅ビルの店に人が吸い込まれる。

2週間の固定で左脚の筋力が殆ど無くなり(びっくりな事実だった)、自力で膝を引き寄せることすらも出来なくなっていたが、術後の腫れもかなり引いてリハビリと自主トレーニングとで少しずつ自由度を取り戻してきていた。車椅子の中で「身体は健康なのに脚一本くらいで私は病人感いっぱいだなぁ」と考えていた、そのとき。


ふと私の角膜の上に見えない特別なフィルターが降りたかのように、全てがスローになった。スローモーションになっただけでなく、突然違う色と光が見えた。

さっきまで煩いなぁと視界の端におさめていた、ダダをこねて泣き叫んでいる子供も 困っているお母さんも怒っているお父さんも、そのままで美しく「完璧」で光り輝いていた。
距離があるのに何とも形容し難い匂いを振りまいているのが分かるホームレスのオジイサンですら、その動きは神々しくて美しかった。引きずる脚すら生命力を放っていた。
さっきまで「そのぴかぴかの肌には化粧は必要ないよ」と半ば呆れて見ていた、バカみたいに笑い転げる女の子たちはそれこそ周りに沢山のキラキラ光る光の粉を振りまいて空気の色を変えている。
買い物を終えてバスを待つおばさんがビニールの買い物袋を重そうに持ち替える仕草でさえも、本当に瑞々しい力と絶妙なバランスとして輝く様に映った。

それぞれの瞬間でそれぞれの場所と在り方で、ただ完璧であり生命の輝きに満ちあふれている。なんだったらそのへんにポイ捨てされたゴミですら輝きをまだまとっていた。いや、ゴミになろうとしてるのにそこに在ることが「完璧」としか見えなかった。

全てのものが存在の、生命のきらめきを見せていた。

あれはスローモーションだったのだろうか、時間が一瞬止まっていたのだろうか。いきなり全てのものが神々しい光を振りまき、目の前に完璧である世界として現れ、その美しさに言葉を失い圧倒された。
そして同時に、これはある意味恐怖感に近かったのだが、全部「私」だと確信した。親子連れ、ホームレス、高校生たち、ゴミ箱のゴミ、肌にすこし冷たい風と暑いくらいの日射しも、全て。ワンネスというものだろうか、よくわからない。ただ、確信だった。

日常、というもののなかにこんなに沢山のエネルギーと輝きがある。しかも私の知っていた美しさの「定義」から外れていてなお、完璧で美しいと感じた。ときどき どちらかに傾くやじろべえのように 不安が多くなったり嫌な気分になることがあったとしても、それは対極のものが存在する故・・・ということが、一度に、一瞬にして「腑に落ちた」。

私は泣いていた。

気付いたら、ダダをこねるオトコの子はお父さんに抱え上げられ泣き叫び、バス停で並んでいたおばさんはそのオトコの子のお母さんが周りに小さく会釈をするのを見て「そういうときもありますよねぇ」的な、理解と苦笑いを両方含んだ笑顔を送り、ホームレスのおじいさんはかなりの異臭を放ちながらワタシの目の前にやってきて落ちていた何かを拾い、馬鹿笑いしてた女の子たちは 滑り込む電車を見付けて慌てて階段を駆け上がり・・・・

呆然とした。

この世界はなんて美しいのだろう。なんて完璧なんだろう。今まだ自由に歩くことが出来ない自分もまた、なんて素晴らしい時間をすごしているのだろう。呼吸できるって奇蹟だ。
筋道も論理建てもすっ飛ばして自分の中心から拡がった感覚だった。

もう半世紀以上生きてきたけれど、この時美しいと感じた世界への愛おしさは変わらず私の中にある。というより、新たな切り口でますます素敵なものと出会わせて貰っていると思う。生きていることで、それらを見せて貰っている。

だから何も無い1日、と表現する1日の中にも 沢山の喜びと感謝と、ついでに溢れる光を感じられる。それは多分特別なことでもなんでもなくて文字にするほどのことでもない。たまたま買ってみたパンが美味しかったとか、その香りでうっとりしたとか、そんなもの。

どんなものも・・・意地悪な気持ちや悲しいニュースでさえこの世界を作り上げるのに必要、とは何ということか。それらがあることで完璧になることも、完成する瞬間もあるとはどういうことか。
いや、分からなくても良い、理由や理屈を超えてただ素晴らしいことだと知っていれば。

だから、あの日以来 私は生きているということ全てが本当に素敵で有り難いなと思っている。私達は奇蹟の中に生きている。


(過去記事のリライトです)

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