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なぜ言葉があるのか。対話のためじゃないか。

だれかの言葉で考え込むことも、打ちのめされたかのように気分が低くなることもあれば、すぅっと楽になることもある。

私は全員ではなくてもいいから、一人が救われる言葉を紡ぎたい。その救われる一人がたとえ、自分自身だけだとしても。

本当に不思議なモノで、必要な言葉というのは「届けられる」と思っている。打ちのめされたようになっていた私が開いたパソコン画面に映ったのは、2日前の夜「スキ」を押した記事だった。


私は基本的に「2者のどちらかを選ぶ」というのが苦手だ。もちろん、必要なら「現時点で、こういう場合にかぎるなら総合点でこっちがいい」、というのはやる。いちいちそれを表明する必要は無いと思うけど。

考えは多種多様でいいんだけれど、一般に考えを表現するときどうしてもBはよくない(むしろ悪い)けれどAがいい、という比較がされがちだ。
その構図が分かり易いからだ。

だけど、ここ1ヵ月、私は他人のその比較に結構打ちのめされてしまっていた。・・・というか、いる。

自分のことじゃないのにね。なにが自分をそんなに打ちのめすのか、ずっと考えていた。残念ながら、これはその言葉にふれた直後の痛みがなければ自分が本当に「嫌だと思っているから打ちのめされること」の姿はみえてこない。

その言葉にまたぶつかったとき、私の中の深いところで「それは違う」と強く反発するものがあった。ただし、その時まだ私は 私に話しかける相手の言葉を咀嚼していなかったから、とりあえず「お預かりボックス」に入れたんだ。「ごめん、今はわからないからちゃんと読むね」そう伝えて。

あとからお預かりボックスを恐る恐る開ける。
触った途端、もう言葉では感じないけれど「疑問」というものが私から生まれる。こういうときの私は、「自分の考えに固執」していて、相手の言葉をそのまま受け止めていないことが多い。だから私はその時にボックスからそれを出すのはやめた。

さらに時間を経て もう一度「お預かりボックス」を開けてみた。今度は取り出す手にも心の奥にも反応は殆ど無い。それを確認して、預かった言葉を手に取って読み始めた。

基本的に文章の破綻はなく、むしろ「その根拠が本当なら、うん、そうだよね」と思うものだった。同時期に受け取った他の文章も読んでみた。「なるほどね」「うんそうだよね」そう思うのだけど、自分の気持ちがどんどん落ちていくのだ。ということは「全体の流れ」は受け入れていて、でもどこかに私のひっかかりがあるということだ。


そして見つけた。(※前からの流れで、A, Bと使ったのでC,D...と行きます。頭文字か、とか無駄に穿ったことは考えないで欲しい)

Cという集団はDということをやる。Dは 自分達の持つEという理念の対極だから悪い。悪いDをやることを選んでいるCは悪だ。だからCと手を組むFという集団も悪だ。

ああ、これだ。

一見理路整然としているけど、違う事。
それを振りかざしてしまう人達に 多くのひとが付いていく。
恐怖を感じているのだ、私は。

一晩あけてもまだ気分はおちていた。

そのとき、すでに読んでいた文章がたまたま目に入った。

【自分の想いだけを伝え続けても、表現が間違っていれば伝わらない。】

びっくりした、この言葉を探していた。
読んだはずなのに、あのときは立ち止まらなかった言葉に今私は救われた。
私の中の恐怖感が8割方、消えた。

これを書いてくれるひとが居る限り、私と同じ様に「ちょっと待って」と走り出す集団から外れて声をかけようとするひとは、きっとあちこちにいる。

意識の分断というのは本当に簡単におこるものだ。
そして大抵、「一見正しいけれどほんのちょっと間違っていること」が大きな集団を動かしていたりする。
ここで私の言うほんのちょっと間違う、というのは意図的にヒーローと悪役を分けている構図だ。人間はヒーロー願望もあるらしく、そういう文章に触発されてヒーローは立ち上がれ、となるひとたちがいる。でも正義感は 常に正しいとは限らないんだ。親だからといって子に対して教えることが全部正しくないように。

最初に「お預かりボックス」にいれたいくつかの文章を、もう一度ゆっくり再読した。私が受け取った対極理論は気のせいだったかもしれない、と思って。

残念だけど、やっぱり対極理論はあって、というか今度分かったのは「集団の性質」を善か悪か、で論じているところが私には納得行っていないのだということだった。

80年ほど前、「悪の枢軸国」と呼ばれた国がある。80年経った今もその国のひとたちにつばを吐きかける人が居る。


3つのことを思い出す。

まず、人は誰でも間違う。間違った過去を永遠に責め続けるのは、私はやりたくない。間違うことで見える正しさもあるのだから。

それから、二つ目。一方から見て良くないことも、そちらからみたら「良い事へ向かうための大事な一歩」であることだってある。一瞬悪い事をやっているように見えても待ってみたら確かに結果的によくなるコトだってある。(抗癌剤治療だって、大きな副作用あるけれど相対的に癌細胞の数は減らすことになる。抗癌剤を受けるなんて!と自分で拒否するのは構わないが、誰彼かまわず「止めとけ」が間違いだ、というのと似ていると思わないか?)

最後の三つ目。「集団の意志」は決して全ての人を反映していない。その集団を率いる人(リーダーとか政治家とか)を選んだのがその集団だから、という考えもあるけれど、率いる人達がDというやり方を選んでも、個々人をみたら結構な数、Eという考えを支持していたりする。そこを無視して「Cという集団だから悪い」という意見は 愚見であり短絡的で、歴史から学ぶとかそういうことが分かっていないのでは、と思ってしまう。

中庸がいつも良いわけでは無い。ただ、届く言葉にして初めて議論は出来るものだ。「はっきり意見を言わないから何を言っているか分からない」昨日もそういうことを聞いた。私はその話題にあがった人が「(私見は言えても)集団を代表するような意見は言えない」のだと受け取ったのだが。

でもそれも、見方なのだろう。
私の考えも偏っているのかも知れない。いつもそこを考える。

それでも、善悪のトリックと、集団と個の意思を一緒にすることは賛成出来ないんだ。歴史の中で、それは「プロパガンダ」と呼ばれるなかにあるトリックだ。

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救われた言葉はこちらから。

ヘッダー画像はみんなのフォトギャラリーより、小木曽一馬 / Mtame inc.さんの作品をお借りしました。美しい写真をありがとうございます。


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