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樹木に触れる

庭木の剪定をしている。

本当ならもっと寒い時期にやるべきこと。その時期「木は眠っている」らしい。残念ながら寒すぎたり雪が積もっていたり私のずぼらさが勝ったりで、とうとう3月になってしまった。(始めたのは2月半ば)

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これが1本の木から切った枝の半分弱。枝ってほんと、空間を取るんだなぁと思う。

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できるだけ「まっすぐ」にする。さっきのパイルの2倍くらいの量がこうなる。たきぎ拾いにでも行きましたか、というような。

時間は限りなくとられるし、時々は力仕事でもある。切り出した枝から小枝を落とす作業も結構面倒くさい。

・・・のだが、どの大きくなりすぎた枝を、あるいは幹を選んで切るか、どこで切るかを考えるのが だんだん楽しくなってきたのも事実。私の悪いクセで手を付け始めるまでが時間がかかるけれど、一度始めると「風を通す」「木がのびのびと葉を拡げても、すこし根元にも光が入る」をイメージしながら、ひとつひとつの枝と会話するような感じがある。ちょっと、何かの作品を作ろうとしているみたい。

木は正直だ。これまで剪定の考え方を知らなかったから、風が通らなくなった場所の枝が死んでしまっている、というのがよくわかる。ああ、風って大事なんだなぁとよく分かる。
また、「元気な枝だけど、この枝一本を残すと他の数本の枝にぶつかるよなぁ、風も光も入らなくなるよなぁ」と思って鋏を入れると、外側の柔らかさと中心部の硬さが切り取られまいと抵抗している感じがある。新しい芽を枝先につけているときなど、切り取った大枝の断面にみずみずしい緑色の、春に向けての栄養を運んでいたんだろうなという層がみえる。命に手を入れているのが鋏を通した掌に伝わり、目に見える。

同時にその緑色の層が私に安心感も手渡してくれる、その木がどれだけ生命力に溢れているかを実感させてくれるのだ。だいじょうぶ、この木は気持ち良く枝葉をのばすだろう、そういう感覚になる。数ヶ月後のこの木が、失った枝の分以上に元気に太陽の光を浴びるのがイメージできるのだ。

混みすぎてどの枝を優先させるべきか全く分からなかった最初の状態から、少しずつ夏の時期の木の形が見えてくる。
葉を拡げ、さらに元気になってくれる、そんな確信が少しずつ生まれる。
なんとか生きようと懸命に伸びたのであろう蘖(ひこばえ)を切ると、もともとあった幹がふぅっと息を吐く気がする。

私は剪定だけでなく園芸というもの一般に「超」のつくシロウトだ。でも静かな生き物である木と向き合うのは、シロウトなりに楽しいと思い始めた。

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チェーンソーで切り出した大きな枝や蘖の横に、まだ切り出したまんまの枝が積み上がり風にゆらゆらと揺れるので、猫が恐る恐る見に行く。普段は自分達のひなたぼっこ場所なのに、とこの枝達に占拠されているのが不満気だけれど、同時に普段は近寄れない高さにある枝が目の前にあるのが不思議らしい。

せっかく家に居る時間が長くなったのだ、触らなかった庭に手を入れるのも大事かもしれない。まずは去年の冬に拾いきれなかった落ち葉掃除から、かなぁ・・・やることは山積みだ。でも芽吹こうというエネルギーに満ちた緑に触れるのは、結構癒しでもある。
球根を植えたくなる季節でもあるなぁ。

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