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ちいさな雫を迎えに行く

土曜日の朝。珍しくスタートが賑やかだった、それはオンラインの「オシハタ」というイベントに参加したから。

その間に、庭に出した猫3匹のうち2匹が 尻尾をバサバサにして帰ってくる。一匹は私の膝に飛び乗る。外をみたら他所の猫のお客さん。

一番身体はちいさいけど度胸のある黒猫が出迎えてる。恐る恐る、近寄っている。私の足許からポーチのその様子を眺めるウチの猫は、人間の子供と一緒だなぁと思った。


お客さん猫は帰ってしまい、オシハタも終わり。
家族は起きてこない。庭からの鳥の声はもう初夏の朝だ。
小腹が空いた。昨夜のごはんの残りがあったことを思い出し、ラップを少し切り取り冷たいごはんを載せて小さいおにぎりをつくる。
冷蔵庫から味噌の容れ物を出す。ちいさなスプーンですこしだけ、握ったおにぎりに付けていく。ああ、お米と味噌を買ってこなくちゃ。

味噌おにぎりをつくりながら、100年前にこの異国にやってきた日本人たちに思いを馳せる。お米、食べたかったんだろうなぁ。こうやって、味噌を少し付けて。彼らは全部作っていった。作るしか、なかったから。

いろんな思いをしてきたであろう日系人のことを考えながら、おにぎりを頬張る。食べるものは日本にいるときと同じだ。だけど、この乾燥して爽やかな初夏の風は、梅雨時の日本にはない。


noteでは「呑み書き」という賑やかなお祭りが進行中。
私はいつものように、ホーム画面から読みたい(というかフォローしている人の記事は通せるだけ眼を通す)ものを新しいタブで開いていく。パソコンに40近く・・・もしかしたらもっと・・・のタブを開いて、残りのおにぎりにかぶりつきながら 人の記事を読む。

我が家はテレビサービスを使っていない。もう10年になる。映画を観るとき以外、テレビのモニターは黒いままだ。

風と、時々の鳥の声を聴きながら、私の好きな日本語の記事を読む。家族が起きてくるまで、土曜の朝はゆっくりこれができる。


そしてこの記事を読んだ。

嶋津さんもふみぐらさんも私の好きな書き手さんだ。(というか、フォローしている人は高確率で文章が大好きな人達だ) ここで嶋津さんも仰っているが、私もこのお二人は似た余白をもつ文章を書くひとたち、として自分のなかに括られている。多分切り取る時間と空間が、すこしだけ他の人より「ゆっくり目にチューン(合わせる)してある」のだ。

車で皆が移動しているとき、足で、あるいは自転車で移動すると沢山のことに気付く。ああ、私はこんな豊かな世界にいたんだ、と。お二人の文章を読むといつもその豊かさの欠片が行間からこぼれてくる。

・・・あぁ。ほんとだ。ちゃんとご本人たちは理解されてるんだな。理解して、その欠片を大切に行間に、言葉の上に、載せてるんだな。

なんでふみぐらさんのを引用せず私のを引用するんだ、とマリナさんに笑われたけど、おんなじようにこの宝物の欠片を受け取ったひとの気持ちが「重なる」ほうが、拡がる波紋は静かに、でも大きくなるかなと思ったんだ、ホントは。

良い文章は書き手の数だけあるけど、好きな文章は波紋、波動みたいなもので静かに静かに拡がるものだから。

気になる人はきっと、この宝物の欠片を探している人だと思う。そういう方はぜひ読んでください。心に欲しかった宝物の欠片が、雫みたいに滴ってくるとおもいます。



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