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伝える人

毎晩、このくらいの時間になると私は少し強めの酒を安物の小ぶりなデュラレックスのグラスに氷と一緒に入れる。ラジオをつけ、聞こえるか聞こえないかくらいの音量にする。

酒の飲めない妻は 1日の片付けを済ませ先に寝室に入りベッド脇の窓際の深い肘掛け椅子に身を沈めて本を読み始める時間だ。時に彼女はそのまま先に寝てしまうこともあるが、私たちの仲が悪いわけではない。彼女なりに私の時間を尊重してくれているのだと私は知っている。

私は日記を広げる。
とは言っても書き留められているのは短い、その日にどこに行ったとか誰にあったという事実のみを記したメモのようなものだ。仕事に行かない日はそのメモ書きが逆に増えるし、普段は帰宅時間と夕飯に食べたものしか書かないこともある。

今日もそんな日だった。二行で終わる日記を書いた後、私は少しずつグラスを傾けたり口につけたりする。罫線も何もないノートは、今では老眼鏡をかけなければ自分でも見えないくらいの細かな字でこの4年ばかりの記録を黙って抱えている。それ以前のノートは、一番下の引き出しにしまってある。今のノートを入れると大体25年分くらいある。
私はゆっくりと、読むでもなくそのページを一枚ずつ前へ、前へと繰っていく。それが始まることがなくても、グラスが空き眠気がやってくるまでは静かにただ、昔自分が記した文字を斜めに眺める。

ああ、今日はあるようだ。

私の意識が少し浮き上がり、目の前の文字が焦点を失って黒っぽい塊として揺れている。
左膝の向こう側がふと揺らぎ、私は記憶と時空を超えた世界との繋ぎ目に少しだけ意識を向けるのだ。


あれは良雄だ。
私の小学校時代の遊び仲間で、中学になる前に他県に引っ越した良雄とは、40を超えた頃に偶然仕事先で再会したのだ。驚いたことに良雄は隣町に住んでおり、使う電車の駅は同じだし、バス路線まで我が家が使うものと同じだった。再会した頃は2ヶ月と開けず飲みに行ったり一緒に釣りに行ったりしたものだが、この数年というもの、なかなかタイミングが合わなくなった。

去年の秋口に良雄の奥方の頼子さんと偶然バスで一緒になった。何度か夫婦で飲んだことがあったからだろう、頼子さんに気づいたのは私の妻だった。
二人がけの席に女同士を座らせ、私はその斜め前に立って少しだけ話をした。私たちの降りるバス停の手前で「お伝えしてなかったのですが」と頼子さんが私たちに良雄の体調のことを伝えてきた。肝硬変が進み「ときどき入院しなければいけないこともあって」と。

詳しいことはわからないが、良雄の肝臓はもう元気に働くことはないらしい。元々は肝炎だったと聞いた。とにかくあまりよくないと聞いたのが1年少し前だ。

今ぼんやりと私の前に影を結ぶ良雄は、再会した頃のような恰幅の良さでニコニコとしている。でもゆらりと揺れるたびに肌がかさつき何も知らない私でも不安になるようなどす黒い黄色味を帯びた顔が重なる。

「よくないのか」
頭の中でそのちらちらする良雄の像を捉えながら声に出さず尋ねると、少し困ったような、諦めたようなちょっと泣きそうな笑顔を見せる。

私は左手のひらを上に向けて机の上に置き目を閉じる。かすかに、指の腹、手のひらとに空気の揺れを感じる。ほんの少し、ひんやりした指先がそこに乗せられる気がする。
そして気配は消えた。ただ、良雄が私に何かを伝えて欲しくてそこに現れたことは知っている。目を閉じ、開いた左手の手のひらから伝わるものにただ気持ちを寄せる。

充分に時間をかけた後で、ゆっくりと目を開ける。左手はそのままにボールペンを右手にもち、日記の最後に幾つかの言葉を加える。


世の中には見ず知らずの人でさえ最後の時に会いに来る、という人もいるらしい。
私の叔父がそうだったと、私は昔母から聞いた。母の3つ年下の叔父は子供の頃はそれを怖がって枕元に竹刀と大きめの小刀を置いていたらしい。

私が小学生のある時、祖父母の家に泊まりに行った時に叔父も泊まりに来ていた。畑をやっている祖父母は早い時間に布団に入り、私と叔父が夜のバラエティ番組を見ていて、その番組が終わりトイレに行こうとした時だった。

「隆な。お前、この世を離れる人と会える力があるかもしれない。もし困ったり悩んだら俺にきけ。でも一つだけ言っておくけど、お前が何かしなきゃいけないことじゃないからな。」

にこにこしているが普段は私にはほとんど話しかけない叔父が、ある程度まとまった言葉をかけてくれた初めてのことだった。私がちょっとびっくりして言葉に詰まると、「まぁ気にするな。わからないならそれでいい」と叔父は言った。


私は27歳の時に父を亡くした。事故だった。
仕事で大阪に行っていた私は当然間に合わなかったが、不思議なことがあった。
その前日にやたらとリアルな夢を見て、ストーリー展開は全く覚えていないのだけれど父と手を繋いだ気がしていたのだ。夢では子供に戻っていた私に父は「俺より背が高くなるなんてな」と笑っていた。

葬儀の後、母にその話をしたら母が大泣きした。その時初めて聞いたのだが、私が小さい頃はなかなか背が伸びないので両親はとても気に病んだらしい。まぁどうやら私のひどい偏食のせいもあったらしいのだが、とにかく両親は一人っ子の私の身長のことはずっと考えていたのだそうだ。
「お父さん、あんたにちゃんとお別れを言いに行ったんだね」
私には分からなかった。母に話して初めて、夢の辻褄が合った。
叔父の言っていた「お前が何かしなきゃいけないことではない」の言葉がうっすら分かった気がした。


その後、そういう夢か現かという経験が増えた。
寝てしまっていて夢をみた時は翌朝忘れてしまうこともあった。でも訃報が届き、通夜や葬儀でその人の家族に会った瞬間に「・・・あ!」と思い出すのだ。
思い出した時は「いや、不思議なんですけど先日夢で彼と飲みましてね」みたいな夢物語として話し始める。大抵なんらかの接点のあった人だったから、ご家族もそうですか、と構えず聴き始めてくれるのだが、その夢の断片を描写した瞬間に大体その人たちの顔色が変わる。と言っても、家族内しか知らない大事なことを私が描写するかららしいのだが、当の私には全く訳がわからない。
ただ、「そうでしたか、そう言ってましたか」みたいに、ご家族がほっとされその話を聞いたことに感謝してくださるのだ。

そうか、私が理解しなくてもいいんだ。ただ伝えてほしいことがあるんだ。

そんなふうに夢のことを理解できたのは、父の死から数年も経たない頃だった。


その頃から日記とも呼べないメモをとるようになった。「それ」が起きても、残された家族になかなか会えないこともあるからだ。
夢から覚めて覚えていることを書くこともあれば、一人で晩酌をしてぼうっとしている時のこともあった。何年か経つうちに、眠ってしまうより起きているうち、しかも何をするでもなくぼうっとする時間が一番大事なところを記録しておけることに気づいた。いつやってくるかわからない「伝言」の受け取り方は7年ほどかけて自分に合った、そして伝えねばならない人にきちんと届けるべきところを届ける方法として ゆっくり習得したようなものだった。

本なんかを読み始めてしまうとどうも集中してしまうらしく上手くいかないし、TVを見ていても気が散るのだろう、ただ時間が流れるだけだ。そんな時は浅い眠りの中で夢を見る。覚えていることもすっかり忘れてしまうこともある。そして何かの拍子で思い出すのだ。
ラジオを聞き流していると、いい感じにぼんやりすることもわかってきた。

私が結婚し、娘が生まれた後ふと思い出して家族3人で叔父に会いに行った。他界した祖父母の家で叔父は一人暮らしをしていたが一軒家は男のやもめ暮らしには大きすぎるのだろう、見事なほどに叔父の生活動線部分以外にはいろんなものが積まれて掃除は「動き回るところだけ」になっていた。それでも私が顔を見に行くと連絡したからだろう、居間のこたつの周りだけはある程度整理され掃除されていた。

妻と子供を紹介し、2時間ほど雑談してそろそろ、と腰を上げた時に叔父が私の目を見ていった。

「隆、もう色々来てるかな」
すぐにあのことだと分かった。
「うん。でもいつ、とか分からないし、夢で見てたって後で思い出すこともある」
「気にしなくていいよ。思い出してほしいって時に記憶から浮かび上がるもんだ。やらなきゃいけないってもんでもない。隆の日常生活に支障がなくて何よりだ。」

祖父母の家の大きな沓脱石くつぬぎいしのところで靴をはき、立ち上がって振り返った時に叔父はいつものような優しい声で
「ご家族お達者で。会いにきてくれてありがとう」
と言った。その優しい出立は、確かに母のそれと似ていて、姉弟って似てるもんだな、とちょっと感心した。


叔父のところから帰った2日後、いつものデュラレックスに安いウイスキーの水割りを入れ、FMラジオでクラシックをかけながら雑誌をパラリぱらりと眺めていた時だった。気配を感じてふと顔を上げると叔父が立っていた。先日の別れ際のような優しい笑顔で。
驚いたが、怖いとは微塵も思わなかった。むしろ、部屋はほんわりと暖かくなった感じがした。叔父は黙って、雑誌のページに指をかけていた私の手に触れるか触れないか、の距離まで手を伸ばした。

「ただ会いたいからきた。伝えること、はおまけだ。だから、気にするな」

気づくと叔父の姿はなく、私の頬にはいつの間にかあたたかな涙が流れていた。私は慌てていつものノートにその叔父の言葉を書き留め、四角で囲った。


翌日の夕食どきに、叔父の隣家のおばさんから電話がきた。畑で採れた野菜のお裾分けに行ったら、あの居間のコタツで叔父は突っ伏して亡くなっていたらしい。手続き上警察がきたようだが、「テレビを見ながら心臓発作を起こしたんじゃないか」という話だった。
その電話をとった妻はオロオロしながら「この間お元気だったのに」と言っていたが、私は「母はいけないし、俺が多分親族で一番動けるから、式の手続きとかしてくるよ」と言ってすぐに叔父の家に向かった。あまりにも手際よく会社の上司に休む連絡や、親族への連絡なんかを済ませてさっさと出かけたものだから、「私、あなたが叔父さんを殺したんじゃないかって一瞬思ったくらいよ」とのちに妻が笑って言った。

叔父が会いにきてくれたからそれが近いのだな、と心の準備はできていた。ただそれだけのことだったのだが、説明もしづらかったので誰にも話さなかった。


良雄が亡くなったことはうちで取っている地方新聞の訃報欄で見た。「あれ」が起きて二日後の朝だった。妻にその記事を見せているところに頼子さんから電話がかかってきた。

良雄の葬儀はその町の葬儀場で行われていたのだが、良雄が仕事で接点があったというその葬儀屋さんは親族並みに細やかな心配りをしてくれていて、弔問で訪れただけだったが良い葬儀屋さんだなということが私にもよく分かった。なんというか、葬儀場なのにみんなが逝った人を想っているあたたかさがある。涙があるのに笑顔が似合うところ。ああ、こんな良い葬儀もあるのか。良雄、おまえの家族や友達がつくるところはこんな場所だったんだな。
私は遠くから、子供の頃にお世話になった良雄の母、木田のおばさんを見つけた。良雄の奥さんの頼子さんの隣の椅子に腰掛け、静かに黙って何度も弔問客に頭を下げていた。妻と二人で頼子さんに挨拶をした後、私は木田のおばさんに向かって挨拶をした。

「木田さん、ご無沙汰しております、渡井隆です。良雄くんの・・・」
「・・・ああ!2丁目のたっちゃん!」

そういって、彼女は皺の目立つ、しかし柔らかな手で私の手を握ってくれた。
小さい頃は、そうやってキャラメル一個とかラムネを買うお金とかを握らせてくれたっけ。
二人に一通りのお悔やみを伝えた後で、私は続けた。

「馬鹿な話なんですけど、実は一昨日良雄くんと遊んでいた昔の夢を見てたんですよ。」
そうですか、と二人がちょっと驚きながらもにっこりする。木田のおばさんの目にはあの頃の私達を見るような優しい光が灯る。
「それでね、突然良雄が言うんですよ。知らなかったんだからどうしようもないよなぁって。いきなりなんの話だよ、なんですけど。知っててもどうにもなんなかったよって良雄が大笑いしてね、あはははって。」

途端に木田のおばさんの両の目に涙が溢れ、止まらなくなった。何か私に言おうとしてくれているのだが涙で声にならず、私もいきなりのことで「すみません、今そんな話、辛すぎますよね、すみません」と謝るしかできなくなった。

泣き崩れている木田のおばさんの肩を、こちらも泣いている頼子さんが抱きかかえて「いいえいいえ、ありがとうございます」と何度もいう。「お義母さん、きっとものすごく嬉しいんです。隆さん、本当にありがとう。夫は隆さんに伝言したんですね」

まさかお二人をそこまで泣かせてしまうとは思っていなくて、私と妻とで何度も謝って早々にそこを辞した。


後日、その時のお詫びに妻が木田家を訪れ、話を聞いてきてくれた。

良雄の肝臓が悪くなったのはB型肝炎というものからだったらしい。そしてそれは母子感染と言って生まれた時のものからだろうと言われていたそうだ。
B型肝炎ウイルスに罹っていても肝硬変にまで行く人は1割くらいで、良雄のお母さんは無理をしなければ今も特に問題ないらしいまま経過しているということだったのだが、良雄の方は20代からどんどん肝臓がやられてしまって肝硬変になった。まだ若い頃肝移植を受けたらしいが、その頃はまだ良い薬がなくて再発してしまったらしい。
肝硬変の最後の頃は、肝臓で分解されるべき毒素が貯まるらしく、入院していた良雄はこの2週間近くずっと意識がはっきりしなくなったんだそうだ。熱も下がらなくなって、コミュニケーションなんか取れる感じじゃなかったらしい。
そして片道2時間近くかかるところを、良雄のお母さんは良雄の奥さんが何度遠慮しても大体2日に1度はお見舞いに来て、「頼子さんごめんね、私がウイルスを何処かから貰っちゃったもんだから」と涙をこぼされていたのだと。良雄の手を握って「ごめんねぇ、ごめんねぇ」と繰り返されていたそうだ。

木田のおばさんは、ずっと自分を責めていたのか。健康に産んでやれたのにそうできなかったと、ずっと。


あの日、私の前に現れた良雄は笑ってみせた。「知らなかったんだからどうしようもなかったんだ。知ってたとしてもあの時じゃ仕方なかったんだ」という言葉は、耳にではなく私の頭の中に浮かんだだけの言葉だ。でも書き留めた。顔を上げると良雄が笑って頷いたからそれが伝言か、と思った。いつものことだ、私がわかる必要はないのだ。


「それ」が起きるのはごくたまに、だ。でも私の年齢が年齢になってきたからだろう、そうやって再会する人が増えた気がする。
言葉があるのは本当に稀だし、再会したことを伝えるべき親族がいないこともある。
それでも、私は毎晩一人の時間をとる。私が出会ってこの人生での接点を持てたひとの節目を受け止められるというのは、きっと感謝すべきことなんだと思う。

今日も私はデュラレックスに氷を入れた。
最近飲んでいたカナディアンウイスキーがもう1回分もない。買い置きがもう一本あったはずだ、と下の戸棚を開けたところで娘の有香里が部屋に入ってきた。

「ねぇ、お父さん。今朝方なんだけどね、おばあちゃんの夢を見たの。でね、お父さんに聞きなさい、って言われたの、すごくはっきり。夢って思ってたんだけど、なんか気になってさ。」

認知症の進んでしまった母は介護施設にいる。そういえばこの2週間くらい、良雄のことでバタバタして会いに行っていなかった。

「ああ、しばらく会いに行ってないな。明日の午後、顔出しに行くか」
「え?平日だよ?」
「うん、お父さん明日の午後なら空けられるんだ。おばあちゃん、多分みんなに会いたいだろ」

驚かさないよう娘にはゆっくりと話したが早く行かねばならないと思った。母さんのことだ、せっかちに「隆は準備が遅いから」って思ってるのかもしれない。間に合うだろうか。

「お父さんに聞きなさい、って、行けるかどうか聞けってこと?」
「さぁな、明日有香里が直接聞いてみたらいい。お父さんだってわかんないよ」

ああ、もしかしたら母は、叔父から私のことを聞いていたのかもしれない。そうか、母ももしかしたら多少はそういうのがあったのかもしれない。ということは、有香里も。。。かもしれない。

伝言の意味は追々わかるだろうし、まぁわからなくてもいい。そういうものだ。

「お母さんが寝る前に明日のこと、言ってくるよ」

娘が出て行ったドアをしばらく見遣って、私はまだグラスにウイスキーを入れていなかったことに気づく。今日は 少ない残り分だけにしておくか。
母さんならその時はちゃんと私のところに来るだろう。叔父さんがそうしたように。だから明日はまだちゃんと会えると思うんだ。
私は瓶の底に残っていたほんの一口分くらいのウイスキーをグラスにあける。氷に馴染ませた後ぐっとあおると、グラスを流しに持っていく。

今日のノートには「有香里が母の夢をみて、お父さんに聞きなさい、と言われたらしい」と記しておいた。

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