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「つまらない」ことを繰り返す

1日庭の手入れをしていた。

そこそこ大きな木が何本もあるので秋の落ち葉かきは結構な労働だ。でも雪国というのもありこれをやっておかないと芝が痛む。朝8時すぎからブロウアー(風で葉などを飛ばす機械)とレイク(日本で言う熊手、レーキ、とも表記される)、ついでに剪定ばさみとかも出して掃除開始。これがフロントヤードだけでほぼ丸一日仕事となった。

やっていることはごく単純で、落ち葉を集めて、袋にいれて、その袋は自治体の集積場に持っていって、あとは冬の準備で枯れてきた植物を切ったり庭木の剪定をしたりする、ただそれだけ。

毎年私一人でやるのがいやで、子供を借り出しては文句を言われていた。芝の上にある落ち葉をレイクで集めて袋詰め、という一番単純なところを任せても「どうやるの」とくる。いや、やり方を聞いているのではないだろう、やりたくない、の代わりの言葉だ。
そんなことを思い出しながら 一人黙々と作業する。

毎年こういうことを繰り返している。落ち葉の時期はもちろん、花木の花がおわったときや雄花?の粉が大量に落ちたときも。家の前の道をキレイにするのはその家の仕事みたいなものだ。歩道も歩く人が困らないように綺麗にする。雑草取りなんかもある。木々の剪定も必要だ。

どれも大抵丸1日から2日はかかる。地味で結構重労働。褒めて貰うこともない。ただ、キレイにしたあとのすっきりした路面や、芝や庭砂利のうえが整然とする感じがする空気感だけがご褒美。
それでも それをやるのとやらないのとでは自分の気持ちも違うし、なにより家全体が喜ぶ気がする。

ふと、人生って結局そんなものかもしれないと思う。
地味で地道であんまり価値もわからなくて、ちょっとくらい手を抜いていたって誰にも文句をいわれるでもないことがずーっと続く。でもある瞬間目を上げると、前日まで雑然とした感じだった庭がすっきりとするように、何でもない面白くもないことの結果が自分を、周りを、なんとなく幸せにする。

取り立ててなんだということでもないことを、ひとつひとつ繰り返す。その「繰り返し」の時間が透明な層になって その仕事を繰り返す場所に降り積もる。それは住む家への愛情と言われるものになるかもしれないし、単に「手入れ」で片付けられることかもしれない。けれどちゃんと、透明なものが降り積もった場所はいろんなものを自分に、そこに住む人に還してくれている。
それはまさに私達の生活・社会じゃないか。

結果を求める、って庭仕事で言えば「季節の花を咲かせる一角をつくる」「夏に木陰をくれる木を育てる」みたいな、ちょっと見た目にも体感的にもはっきりきっぱりしたものかもしれない。でも人生(長い庭との付き合い)でそれってそんなに大きな事かといえば「○年前のあの花盛りはよかったな、あんな感じにしたいな」って思う自信や挑戦心になったりはするけど、結局いつも変わらずそこにある庭のいつものサイクルだ。自分で成したと思うものは実は、自然のサイクルという本当の大きな流れにちょっと、いつもより手間暇かけたという変化にすぎないかもしれない。

15年経ってまだ生きている木もあれば死んでしまって取り除いた木もある。まさに社会でおきていることそのもの。
虫が大量に出る年もあれば、季節外れの天気に散々な目にあう年もある。
大雪で枝が折れた花木が次の春に変わらず花を咲かせるたくましさに目を細めることもある。

つまらないことの繰り返しが降り積もった場所で 私達は今日もまたそれらを繰り返す。取り立てて話すことでもないこと達が、実は人生を作っていると、あるとき気付けるひとは幸せなのかもしれない。

自治体の落ち葉集積所はこの右奥にあって、今日もすでに沢山の落ち葉が集められている。

今さらだけれど、つまらないことを大事に繰り返し 丁寧な時間が降り積もったところにだけ生まれる素晴らしさがあるんだよ、ということは 子供達が小さい頃にもっと話してあげられたらよかったのになぁと思っている。もっとひとつひとつを指さして見せてあげられたらよかったなと思っている。

私一人では気付くのにこんなにかかったけれど、子供に時々伝えてあげていられたらいろんなところにその意味を見出しやすくなったんじゃないかな、なんて。

いや、自分でやっていかなければ心から理解はできないのかな。


なんにしても、つまらないことの繰り返しで作られたこの世界はいつだってとても美しくて愛おしい。



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