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Anonymous(名無しの権兵衛)がいい

以前もどこかで書いた、「何者かになる」ということ。私の中で結論の出ない、見極めようとすればするほど「姿形もやもや星人」な未来の私。(半世紀生きてもまだ未来を見てるんだから笑える)

もちろんそれは人それぞれで良い、と常々思っているのだが、昨夜オットとした会話の中で思い出すことがあって、突然私のなかに霧が晴れてきたようにその「もやもや星人」の姿形がちらっと見えた。

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オットはその分野での本をこれまで何冊か出しているのだが、彼が私にそのうちの一冊を開いて見せてきた。

「ねぇねぇ、これ、懐かしくない?」

それは彼が全部自分の言葉だけで出した初めて・・・いや、2冊目?の本で、7年近く前のものだった。説明したい内容・イメージをイラストにしてくれない?そう頼まれていくつかイラストを描いた。当初は出版社がその本のために想定してくれていたイラストレーターの方に「こんなものを」と伝えるための下絵のはずだったのだが、素人っぽさが逆に編集の方にウケたらしく、私の絵がそのままその本に採用されていた。


「うわっ、ほんとだねぇ。どうしたの、懐かしいの引っ張り出してきて?」
「いや、増刷が決まったから、直しが必要な部分を確認しようと思って。でも読んでたら懐かしくて。」
日進月歩の科学の世界なので、増刷に伴うとはいえ大きな改訂となるのだろう。

絵をかいてくれない?とオットに頼まれたときはなんというムチャ振りを、と思ったのだけど、確かに頭のなかのイメージするものを言葉で説明するのは難しい。そのニュアンスを、海の向こうの日本にいる、初対面のイラストレーターのひとに上手に伝えるのは簡単ではないだろう。そう思って描いたものは、結局出版物としていろんな人の手許に届いた。

誰が描いたかなんて知られなくていいこと、ただ読んだ人の記憶の扉につながる糸を結ぶこと。それだけが目的の、素人イラストだった。

本という形になったものの中に、得手ではなかった形だけれど私が残っている。「頼みやすかったから」という理由からだったにせよ、結果的に夫婦でいろいろな考えや想いを共有できていたことや、私の選択や彼の選択が寄り合わさって1本の糸のように紡がれていることがその後ろに思い出として見え隠れする。
それは自分が望んだ anonymous(匿名)としての形だった。

オットの本のなかに残る私の痕跡は、殆どの読者には誰が書いたか分からないものだ。だけど、そこに書かれた内容をふっと思い出せる扉絵のようには記憶のなかでぼんやりと残っているかもしれない。ああ、それは私が一番望む形かも、そう思った。

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大きく話が変わるが、子供の成長になにを期待するか、って本当に親それぞれだなぁと思う。まぁ、どれが正解とかあるわけじゃなし、自分のがベストとは思わないけど うちの夫婦で齟齬がほとんどないので我が家にはこれでいい、と考えている。
それは、我が子が総じて幸せな日々を過ごせるようになればいい、ということ。アップダウンも辛いことも試されるようなことも沢山あるだろうけど、いつか「それでも結局のりきれて幸せ」って思える人生を送れるような。あるとき「ああ、自分って幸せだな」と言えればいい。

そこまで考えて、それはそのまま、自分の人生を肯定して言っているものだと気付く。うん、私のは悪くない人生だと思っているし、ちゃんと自分の願った「何者か」の形を成している。名前はなくても「でも悪くない人生だよ」といつも言っていられる、そんな人生。多分オットも同じ様に感じている。名前なんて残さなくて良い、有名になるとか偉業を成すとか、オマケで良い。

「だれだっけ、ほら、あの・・・○○で一緒だった。一緒に××やったひと」
そんな感じで他のひとの記憶に結びついていられたら ますます最高。××の経験が、その人にとって楽しい記憶ならますます嬉しい。
自分の中での「何者か」はやっぱり顔も名前もない。でも誰かの記憶のどこかにいる。それって一番すてきなんじゃないだろうか。ステキだとおもっているから、子供にもそういう人生を送って欲しいとおもっているんじゃないだろうか。

そう思うと私の願っていた「何者か」は、肩書きとか成功談を引っさげた女性の形ではなく、誰かと紡ぐ時間でありそれが穏やかに続いていく人生を享受する「名無しでOK」、いや、「名無しが最高」なものだということになる。

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話はまた大きく飛ぶが、私は20代半ばから残留記憶というものを多少なりとも感じることが多い。SFじゃないんだが、以前手にしたり触ったりした人の感情・記憶なんかが瞬時に流れ込んでくる。それは芸術作品とよばれるものに顕著で、作者の想いに惹かれたり逆に避けたくなったりする理由だ。ついでに同じ理由で私はアンティークはあまり得手ではない。
なんだったら文章にも時々それは見えてくる。上手に描かれたノンフィクションの裏に渦巻くような苦しさを伴った記憶が見える事があってこちらの呼吸が早くなる。(あ、文章においてこれは悪いのではなく良い事だと思います。それがない、引っかかるところが見つけられない文章を書くヒトは、例え沢山小説を書いている先生であっても個人的に何とも思いません)

私にとっての残留記憶は暴力的であることが多い。私に鉈(なた)をふるってくる訳では無いのだが、私の意識の領域に突然入り込んでくる。残した本人は気付いてないことが多いので誰も責められないのだが、旅先の宿泊場所なんかにそんなものがあったりすると何度も夜中に起きたり浅い眠りのまま朝を迎えることになったりする。

自分で感じてしまうからこそ、自分の書く文章においてそういう残し方・残り方はしたくないのだ。昨日こんな記事を書いたあと眠ったのだが、この稚拙な文を目にしたどこかの誰かが「人の中に残るのが嫌なら書かなければいい」と頭のなかで呟いたのが届いた。いや、あれは私自身が私に向かって夢の中で話しかけたのか。どちらでもいい、そんなことは、ただきっぱりとした言葉で届いたのは、そこにそうやって書いたものの自分の中に矛盾を感じていたからだろう。

たしかに「読んだひとのなかに何かを残す」というのが文章を書く理由・目的なのかもしれない。私の中にもある。でも残りたくない、残したくない。矛盾以外のなにものでもない。

それでは私がやりたいことはなんだ。

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「そこで用いた言葉が その本人の記憶の扉に糸をつけてくる」ことは願っているが、私という存在を残したいわけではない。つけてきた糸を私が引いてトビラを開けたいわけでも、なにかを思い出させたいわけでもない。あるとき「この糸、なんだっけ」とその本人が好奇心で手繰り寄せて、思いがけないときに「その本人の大事な記憶」をぽろりと手の中に落とすような、そんな糸をつけたいのだ。そこに私はいらない。暴力的にもなり得る「私」という姿形は、本当に要らないのだ。

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大分すっとんだ3つの話を書いたが、どうやら私自身の願う「何者か」は、名前など残らなくて良いただ誰かの幸せな記憶に絡む社会のなかの一人である、ということかもしれない。だれかの記憶のどこかにつながる糸を残す。それが出来たら最高だ。

だから書いている。自分の名前で覚えて欲しいわけではない。私の会ったことの無いひとたちの記憶の1箇所に届く糸をそっと残すことが出来たら。

それだからこそ、「姿形もやもや星人」は確固とした姿形でなくてもよい、となる。自分が自分に許した未来の設計図かもしれない。途中から予定しなかった方向へ着地点を見出してもOKと、ズルイ目標設定の仕方として自分に許しているものかもしれない。だからこの先、また10年たったら違う姿形をしていても私はOKなのだ、名無しの権兵衛であっても。いや、誰か居たことすら気付かれない程度になりたい。

自分を覚えていて欲しいと願うのは近い家族だけでいい。私という「何者か」の形が朽ちてしまっていてもどこかに花を愛でた痕跡が見えるならば、それでいい。その痕跡こそが自分のなりたかった「何者か」なのだ。目を凝らしても見えない、一言では言い表せない、ぼんやりと「居た跡」を感じるような人間。

結局わたしは 形をとらないものになりたい、と願っていた。そりゃ、「何者か」ではなく「何物か」だから、想像することも青写真に置くことも、できやしないよねぇ。

気付いたら3333文字。なんか楽しくなる数字なのでこのへんで終わらせようと思う。

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