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【お手紙です】ありがとう、そんなあなたに救われます。

ツイッターシェアにしようか迷った挙げ句、記事を書きます。
さっき、この記事のお知らせが来ました。

本音で書きます。
かとしんさん、かとしんさんの言葉に私は泣いたよ。


最近は時々記事を引用してもらうこともあるし、表に出して紹介して貰えることも増えました。
ただそれは、noteという公園の築山のうえに(つきやま、なんて、知ってるひとも少ないかなぁ。私が子供の頃は大抵の小学校にあった。ここではまぁ、個人企画やイベントです)よくのぼって遊ぶ元気なグループがいて、私は時々そこに入って一度、二度、滑り台を滑っていく、いるんだか居ないんだかの存在だからだろうなぁ、と思ってます。

常に築山にいたらちょっと声掛けにくい。

でも時々 登り棒とか(これも今どきの小学校にはないんだろうか?)タイヤ跳びのところとか、しかも一人で遊んでたりするから 他の人が話しかけてくれたりするのかなと。


謙遜とかそんなじゃなく、私はいつもそんなふうに気が向いたところで遊んでいるのです。それを「ともこさんの記事はカラフルだ」と表現してくれる。視界の端っこに入れてくれてるんだな、と、純粋に感激してます。


書くことは私にとって自分の輪郭をはっきりさせることで、常に交通渋滞おこしてしまう頭の中の整理をすることで、私の生活にリズムと許しを与えることです。

でも

願わくば、誰か一人で良い、誰かの心にとどいて、ほんの少しなにかを動かせたら、もうそれだけで書くことにOKを出せる、そう思っています。それは、読み手の行動を促すことは本当に難しいと(私自身がそうだと)思っているからかもしれません。


かとしんさんが背中を押してもらえた、と言って下さった文章は、確かに「誰かに届いて欲しい」と願いながら書きました。でも同時に、それがどんなに薄い可能性なのかを知っています。なにかをしよう、としたとき、たまたま目にはいるものに背中を押される、それを偶然だとするのも なにかがちゃんと手を当ててくれたのだと受け取るのも、読み手次第だから。


かとしんさんがとても優しくてとても繊細で、そんな必要まったく無いのに自分を小さく評価する人だって知ってるから、そのひとが小さな行動をとってくれた、その上にそのことを記事にして記してくれた、って・・・・私にはこんな大きなものはないんです。

ありがとう。あなたの言葉で、また「書いてていいんだな」と思えました。


note街のあちこちで出会うみなさんにいつも感謝してるけど、かとしんさんのこのプレゼントみたいな記事、すごかった。お腹のすいた夕方に突然「いま出来たてのを買えたから」ってコロッケを分けて貰った、そのくらい身体の真ん中からふわっとあったかくなりました。ありがとう。

サポート戴けるのはすっごくうれしいです。自分の「書くこと」を磨く励みにします。また、私からも他の素敵な作品へのサポートとして還元させてまいります。