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他人(他国)のせいにしない

連続投稿5日目、今日は堅い(そしてまとまらない)話。分断化すすむ世界について。

ダボス会議というのを耳にしたことがあるだろうか。世界経済フォーラムのなかで特に有名かもしれない(こちらのWiki参照)。

今年は自国内の問題を理由に、なんとアメリカ合衆国大統領とイギリス首相が欠席したという。←この話をきいてググっていたら、ちょうど昨日のNHK news webの記事が出てきた。その話はこちらからどうぞ。

様々な意見があるのは知っている。その背景も個人的にはできるだけ分かろうとしている。でも私個人としては、国が自分の内側に集中して「他は二の次」にするのはバランスがとても悪い、と感じる。いや、自国内のことを大事にするのは当然です。でも責任を「他におしつける」姿勢が国に現れて、歴史的によかったことなんて全くないだろう。(結果戦争の勝者になればよかった、というのかもしれないが・・・)

個の正義と国の正義が違うコトはよく言われる。賛成しようがしまいが、役割の違いなのだ。それは国という単位のもつ宿命みたいなもの。それを「個の正義」を振りかざして「国は間違っている」というのは あまりに乱暴な議論だとよく思う。同時に「あの国が間違っているから」と悪者を外に作り個の不満をなんとかしようとしている国が存在しているのをみると、子供の頃からそんなやり方でしか上に立てなかったひとが国を運営する場に沢山いるのか?とひねくれた見方をしてしまう。

団体(この場合「国」だが)、というのはどうしても、団体間の継続的つながりを考えて行かねばならない。分かりにくかったら国を学校に置き換え、「スポーツイベントの試合で殴り合いのけんかになった」としよう。コトの発端が個人間の諍いであり、どこからどう見ても一方の言動がまちがっていた・・・としても、学校同志はそれで断絶するほどのケンカをするだろうか。個を守るため絶対必要なこと、は、どれだけの割合の個が影響されるか、にも拠るはずだ。

私はアメリカに住んでいる。経済格差も日常のそこここで接し実感する。アメリカの軍が直接世界情勢の窓口になっているのも見ている。が、合衆国がそれらの格差や「世界のことをなんでアメリカ人だけが背負わなければいけない?」というのを、「不法移民のせいだ」とか「結局アメリカの貿易でその分の恩恵をもらってないからだ」と理由付けし新たな政策を行った二年間がどれだけアメリカの一般社会に(悪)影響を及ぼしたかを見てきた。というか悪影響そのものを私が(私のもつ会社が)受けた。

アメリカで肉体労働分野がどれだけ、移民のひとに頼っていたかということ。アメリカ人で仕事をよこせ、と言う人達に そのきつくて危険で賃金の安い仕事を「仕事ができました、やってください」といっても聞こえなかったふりをするひとが殆どだから、需要供給のバランスが大きく崩れた。

アメリカ人の就業率あたりのはなしでいけば、自国内で出来ることを他国に回したから仕事がなくなった、というひともいる。それは本当ですか?あなたが選んで買う安いモノは、あなたが希望する賃金で出来上がりますか?「昔は出来ていた」の昔は、いつの話ですか?そのころ奴隷という制度があったことをご存知ですか?値段が安くできないなら「誇りをもってイイものをつくろう」の発想にはならないんだろうか?

政治そのものを非難するのは 自分の人生を他人のせいにするのと同じだと思っている。非難するなら自分が施政側に立つ努力をしようよ、力でなくアタマを使って(物理的に使わなくていい、頭突きとかの話じゃないから)、と思う。
でも方法はそれだけ?いえいえ。それこそ「個の努力」「コミュニティの努力」で土台が出来た上での地方自治、合衆国なんじゃないですか。システムができあがっていても 個人の動きからコミュニティをつくり動かし、システムの見直しをさせた例なんて沢山あります。

先に紹介したNHKwebの記事でも 日本・徳島でゴミゼロを目指した活動をされている坂野晶さんという方が紹介されている。彼女のしたことは個からコミュニティを動かした、ということだ。これらのコミュニティの動きがあちこちに広がったとき、そのエリアをまとめる組織は「新しいルール」の必要性や有効性を知る事になる。

アメリカの話にもどる。貿易や人の出入は、時代の要請で「個」が動き、ある一定人数を超えた「コミュニティ」がルートをつくり、その動きに従い世の中がうまく恩恵を受ける形になった。スタート時点での不平等や途中でのひずみ、歪みは自浄作用が働いたり 心ある個が「これはオカシイ」と新しいコミュニティの動きをつくって 全体の流れや方向を少しずつ変えてきた。遅い動きかもしれないが、「まったく動きの無かった時代」に、奴隷みたいな間違った労働力に頼ってた時代、 一方では「働きたい」一方では「働きたい人がいるなら働いて欲しい」と思いながら何も出来なかった時代に比べたら、どれくらい多くの人が利をうけとっているだろう。初期に比べたらどれだけフェアになっているか。

(だから黙れ、というのではない。必要で生まれた流れであるのに 全体が受け取っている益を過小評価していないか、ということだ。個と国レベルの利益にずれがあることを理解したら 国に文句をいうだけじゃない他のやり方だってあるんじゃないか、ということだ。)

個の意見がコミュニティの動きをつくる、というところから、「結局社会の不満となってきたから多数決でEU脱退を決めたんですよ」がイギリスだ。有る意味正しい。でもここもなんか、納得いかない。「今の自分にとっていいこと」に集中しすぎな気がする。(他人だから言えるんだ!という意見があるのは重々承知。)だって、EUが出来た理由、は、「今の自分の利を追究した国同志でひどい戦争となった。その過ちを忘れず、共に歩もう」みたいなもんじゃなかったのか? 近所の子供で「いじめっこ、いじめられっ子がないように、みんなで相談しながら遊ぼうよ」と決めたのに「いつもオレのおもちゃばっかりみんなで使いやがって!オレ、ここから抜けた!」と言い出した子が オモチャを貸し出しお金を取るようになってみんな困った・・・みたいな図がアタマに浮かんでしまう。怒るのがオカシイ、じゃなくてもともとのバックグラウンドが違うんだから、でも「厚意」に甘えるだけじゃなくてなんかみんなで考えられるんじゃないの?って話だ。

世界は 沢山の国が集まって出来ている。国は 沢山の考えをもった個が集まって出来ている。そして残念ながら、「個の利益」を追究する、は なんか正義中の正義みたいになってる。・・・そうかな?助け合い、がなかったら、譲ってあげる、がなかったら、結局ケンカしか起きないのでは?

国の役割に「国民を守る」があるのは当然だ。でもそれがそのまま、「国民の個の利益を追求するなら他国を非難するのはアリ」になっているように見えて仕方無い。「国民を守るために 他国と助け合って明日の世界をつくる」が本当じゃないのか?

誰かを虐げたり奪い取ったりした先に 憎しみや悲しみや苦しさが生まれることは 長い歴史の中で見てきたのではないか。

すぐには是正されないかもしれない。それでも一人一人が「お互いを理解する」そして「お互いを少しずつ助ける」ことだけが 一番良いところへ辿りつく道だと人類が知ってるなら・・・ 国こそ、率先してそこを貫くべきじゃないのか?


私は一般国民だから(アメリカ国民じゃなくて日本国民だけど)ほんとーーーのほんとは分かってないのかもしれない。でもそれなら、国みたいなところからは「正しい理由をみんなが分かるように」伝えて欲しいとおもう。

草の根、のところにいる私達にできることは、(今から政治家になるとか世界の舞台に躍り出るみたいなことはまずないし、やりたくもないし)徳島のある地域でゴミゼロを達成しようと頑張った坂野晶さんみたいに 自分のできる小さな良いこと、手を携えることができること、を楽しくやっていく、それしかないような気がするし、・・・他人や他国を非難し、自分の国に何とかしろと迫るひとたちに「まず自分達で出来ること、やりませんか?」を提案したい。っていうか、あんなに沢山の殺し合いをしてきた人類には、それしか後戻りしない道はないんじゃないかなって 思うんだよね。


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