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asunaro(翌檜)

小説や歴史書を読んでいてもいつも思う事がある。
人間って何かになろう、何かであろうとする生き物なのかな、そんなのは人間だけなのかな・・・と。

向上心、とも言える。自分を磨く努力、とも言える。でも「過ぎたるは及ばざるがごとし」今の自分を認めないという自分イジメとも紙一重。

「何者かである」
これが呪縛になっていた時期を私は過ごしていた。
何かであろうともがく時期を スマートではないけれど私は愛おしいと思う。でもそこを20年ほど経て、毎日ちょっとずつ前進する自分であればいい、名前や形容する言葉がなくてもいい、何も出来ない自分という自覚すらいい、というところまでやってきた。

最初からそうであれ、とは思わない。もがく、というのは若い時期にこそ認められるみっともなさであり、同時に己の判断を任されながらも過ちや失敗を許される社会や目上の人間がいる時期なのだとおもう。それほど、ごりごりと人間のやすりがけを出来る時期は大事だ。

日本では「翌檜(あすなろ)」という木に いろいろな人間の思いを乗せて語られたりする。文学作品では「明日は檜になろう」と思っている、でも檜にはなれない木として、あるいは日本語のイメージとしては明日(未来)に夢をみる若者を連想させるものとして。

明日(未来)により良くなっている己をイメージし進む。それは人間としてとてもステキだとおもう。半世紀生きている私もその気持ちは忘れたくない。
でも翌檜、地方によってはヒバとかツガルヒノキとか別名は沢山あるが、その木のそのままの美しさも理解出来るひとでいたいと今は思う。どんな名前を”他人”が勝手に着け、勝手にイメージを持とうが、翌檜はすっと伸びた美しい木だ。他人の思惑なんて別の世界のことのように。
そして強い芳香を持つ木、としても知られる。よく言われる檜の香り、というのは翌檜のような木の方が強いのだそうだ。そう、何者にならずとも、そして多くの人に知られていないとしても、翌檜はあすなろとして美しく気高い。

人間も同じなんじゃないだろうか。

向かう先は知らず、でも日々を大切に精一杯進む。そんなひとは形容される言葉や肩書きなしでもカッコイイ。本人の気にしていないところで、きっと誰もが振り返る魅力(芳香)を知らずふりまいている。

私は何になれるのだろう、と悩む美しさも好きだ。でも今は わからずとも前進することの価値を認められる年齢になったことを嬉しく思う。

サポート戴けるのはすっごくうれしいです。自分の「書くこと」を磨く励みにします。また、私からも他の素敵な作品へのサポートとして還元させてまいります。